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【小説】紅茶は太陽の海に沈んだ【試し読み】

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紅茶は太陽の海に沈んだ   村上耽美


 透明な硝子のティーポットには、紅茶がまだ八割程残っていた。

 夕陽が茹っているのを比喩するかの様に、ポットに取り残された安価なティーパックから、濃い紅茶が滲んでいる。紅茶は夕方五時の空に同化して、夕方の空に静謐を湛えていた。時間が経つに連れ、澄んだ夜の空と共に昏くなる。
 
 からん、ころん。
 来客を知らせる音がする。
「やあ、よく来たネ」
四ツ谷は無愛想に挨拶をする。
「ハハ、声以外は特に何にも変わらないですね」
以前会った時よりも嗄れた四ツ谷の声に、彼の旧友の市川は驚きながらも笑った。彼はそのまま続ける。
「ちょっと道に迷ってしまって。遅れてしまって申し訳ない」
彼は帽子を取り、笑顔を見せた。
 ここは、四ツ谷が店長を務めている喫茶店「あんばア」。夕焼けを合図にオープンするという、気紛れな喫茶店である。珈琲もあるが、私のおすすめは紅茶である。茶葉にこだわり、湯の温度にこだわり、蒸らす時間にこだわる。そしてその日で一番美味しい紅茶を提供している。
「相変わらず、四ツ谷さんが淹れる紅茶は美味しいですね」
「そりゃア、君が今日ここに来るっていうから、一番美味しい紅茶を淹れたンだ、当たり前じゃアないか」
「面白い事に、前に会った時も四ツ谷さんは同じことを言っていましたよ」
「そうだったかネ、そりゃ失念していたみたいだ」
そういう市川も、四ツ谷と会う度にいつも同じことを言っているのだが、そこに四ツ谷はあえて突っ込まなかった。
 二人はお互いの近況や家族の話(四ツ谷の方は家族がいない故に、市川の話に相槌を打つだけだった)や紅茶の話など色々話が弾んでいたが、いきなり市川が真面目な顔をして、カウンターから少し乗り出した。
「四ツ谷さんはなんで結婚しなかったんですか?」
「ン、どうして今更そんなことを訊くんだい」
「いや、スラリとして顔も小さく整っているし、何より事実として、よく可愛らしい女学生達に、たくさん声を掛けられたりしていたじゃないですか」
「それがなんだネ」
「それなのに、誰とも結婚をしなかったことが僕には不思議で堪らないのですよ」
四ツ谷は顔を顰めてこう返す。
「私は人に興味がないんだ、そもそも君は、私のそんなことも気付けないのかい。これだから人間は……」
四ツ谷はウジウジと文句を言っていたが、本心はそうではないのを市川はわかっていた。
「四ツ谷さんが本当にそう思っているなら、僕は今ここに呼ばれている筈がないと思いませんか」
「フン、好きに言ってくりゃァいいサ」

 ふと、机の上のティーポットに四ツ谷の視線が向いた。ポットの紅茶がもうそろそろ夜になると教えてくれている。
「今日はこの辺でお開きだ。良かったら明日また来てくれないかネ」
「おっと、もうこんな時間か。明日は雨ですが、いいのですか」
「ウム、構わない。夕方あたり」
じゃあまた、と言って市川は帰っていった。彼がドアを開けたときに吹き込んだ風は、普段より冷い筈なのに、今まで四ツ谷が触れた他の何より温かかった。そして、彼はいつものように、紅茶に一筋のミルクの糸を垂らし、夜を迎えるために飲み干した。

 明けない夜はないとはよく言ったものの、いざ夜を迎えると、その言葉がてんで嘘に聞こえてしまったり、このまま明けないでほしい、とさえ思ってしまうものである。その例に、四ツ谷も今まではそう思っていて、亡骸の如く布団に横たわって夜を過ごしていたのだが、その日の夜はいつもと違って、まるで遠足が待ち遠しい子供か、あるいは受験の合否前の学生のような、そんな懐かしさをどこかに含んでいた。どうしようもなくもどかしい夜が、早く明けてほしいとさえ思っていた。

 市川が言っていたとおり、朝から雨が降っていた。今日は夕陽も出てこないだろう。
 あんばァは美しい夕陽の下でしかオープンしない。朝昼が苦手な店長四ツ谷のマイルールである。
朝昼に起き上がれずに、布団の上から微動だに動かない四ツ谷。彼は生ける屍であった。彼に日光は届かない。市川と知り合ってからは少し良くなっていたが、ここしばらくでまた屍になってしまったという具合だ。
 二人は先輩後輩の関係である。大学の夜間部で知り合い、校舎で見かければ会釈をし、授業終わりに都合の良い所で落ち合い、市川の下宿で酒を飲みながら、あの教授は良いだ悪いだの、ガールフレンドとは上手くいっているかだの云々を好きなだけ話して、そのまま床に雑魚寝をする。そして翌昼に起きしばしば授業に遅刻していた。
 四ツ谷は、後輩の市川が卒業した後も学校に通っていたが、遂には卒業することも叶わなかった。市川はそれからしばらくの間、なるべく毎日彼に会いに行った。
 だからこそ市川は四ツ谷の闇を知っていた。だがそれ以上に、大きな太陽が四ツ谷の中にあるのを誰より知っていた。四ツ谷の闇は、四ツ谷の太陽でないと照らすことが出来ないのである。

 夕陽も出ぬ薄暗い夕方、四ツ谷は重い身体を起こし、紅茶の準備を始める。湯を沸かしている間に茶葉を選びティーバッグに入れて包む。それをティーポットに落として湯を注いで蓋をする。怠い身を椅子に乗せて、市川を待っていた。

 からん、ころん。
「お、良かった。こんばんは」
「ン、よく来たネ」
「顔色がよろしくないですね、やはり、夕陽が見えないと落ち込みますかね」                                                                                    
「イヤ君が来てくれたから、大丈夫」
市川は優しい笑顔でこう問うた。
「夕陽が見えるところに行きませんか、運動も兼ねて」
四ツ谷は少し考え、コクリと頷き準備を始めた。
 水筒にアイスティーを注ぎ、それと店の鍵だけを持って外に出た。

四ツ谷は不安であった。きっとここからバスや電車に乗ってどこかへ行くとしても、夕陽の見える時間は過ぎてしまうだろう。
「私をどこに連れて行こうというのかネ」
「まあまあ、そんな不安になることはないですよ」
ムッとした四ツ谷の手を軽く撫でて、市川はまたすぐ歩き出す。四ツ谷もその後を追い続けた。
 あれから一時間ほど歩いたところで市川が声をかける。
「着きましたよ」
そこは海だった。
「何故ここに連れてきたんだい、私がここを嫌っているのを知っている筈じゃァないか」
「四ツ谷さん」
市川はいつもより強い口調で名前を呼んだ。
「思い出せますか、僕とこの海で終わろうと約束したこと」
「アー覚えているとも。だからイヤなんだ」
「苦しかったですよね、申し訳ないと思っています」
「君だけ生き残ってネ、私を一人で逝かせたことは許さないつもりだ」
四ツ谷はツンとした顔で続ける。
「私が誰とも結婚しなかったことも、君が一番わかっているだろう。君以外に興味がなかったのサ。だから一緒に海に入ったンだ。でも君は生き残ってしまったネ、それだけが私の心残りだったンだよ。」
「四ツ谷さん、もう何年こっちの世界にいるつもりなのですか」
「ハァ、いつも君は僕に質問を投げてくるネ」
四ツ谷は少し憂いを含めた笑顔で「そんな君が愛しいンだから、私もどうしようもないがネ」と呟く。
「最期に紅茶を飲まないかい、市川」

 雨はもう止んで、二人の後ろで沈みかけの太陽がゆらゆらと揺れていた。
「四ツ谷さん、一緒にいきますか」
「もっと一緒にいたかったナァ……」
「これからずっと一緒なんですから、我儘言わないでくださいよ」
「じゃァ、いこうかネ」

 夕陽が沈む。終わりはいつもくらいものである。まるで夜が暗いように。だが夜は明ける。その時、二人は光も届かない深海で朝を迎えるのであろうか。
 夕陽が綺麗な町に佇む喫茶店のドアにはクローズの札だけが寂しく揺れていた。




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