今いる人に届けるということ

今行われている山形ビエンナーレ2020に参加している。コロナ禍をうけオンラインでの芸術祭だ。告知やアーカイブとしてWEBを使うのではなく、オンラインだからこそ出来る芸術祭のあり方にトライする。オンラインだからこそ、どこの場所からもアクセスできる一方で、本当に届いているのか、も、実感を持つのが難しい。祭、はそこにいる人たちの顔が見えること、その場を作ることだったか、と痛感している。

そんな中で、私はビエンナーレ7つのセクションのうち「現代山形考 藻が湖伝説」第8章「見果てぬ夢、ありえたかもしれない世界」に演劇集団ゲッコーパレードと共に演劇映像『ファウスト』を出品している。(他にも後2つビエンナーレに関わっているのだけど、それはまた別の機会に。)なぜ普段は絵を描いている私が演劇に関わっているのかといえば、演劇、特にゲッコーパレードの特色は、展覧会のキュレーションに近いと思っているからだ。特に地方での芸術祭において。それは簡単に言ってしまえば、「今いる人たちに届ける」ということで、当たり前のように聞こえるのだけど、絵画を描いていると意外と抜け落ちている視点だったりもする。なぜなら、演劇は作り手が必ず観賞(観劇)の場にいるのだけど、絵画といったファインアートは基本的に作者が不在だからだ。鑑賞者への眼差し、は、大体展覧会の場作りにおいてようやく生まれてくる。

元々絵画は宗教画のように設置される場所が決まっているものだった。教会に配置される宗教画は、教会を訪れた信者に宗教的世界を体験させたり理解させるものとして機能していた。この辺の作者の仕掛けについては宮下規久朗の「聖と俗」に詳しい。日本においても襖絵や屏風といったものは、そこに座る人の権威を示したり、そこに描かれた画題を理解できるというステータスを主張するためにある。これらがコレクションされ、不特定多数の人々に見られる展覧会になるのは、ナポレオンにおいてだ。(ルーブル美術館は今も彼のコレクションを中心に人々に愛されている)しかし、今ある展覧会にはまだ遠い。コレクションを見せるのは、やはりそこにステータスの提示という意図があるからだ。1929年、MOMAの開設にあたり、コレクターから切り離し、作品を純粋に観賞する場としてホワイト・キューブは生まれた。ここでようやく、私たちのイメージする展覧会が成立する。とある作品が、どこの世界に持ち運ばれていったとしても、ホワイト・キューブだったら同じ条件の中観賞できる。マイケル・フリードのいう「意味の充足」としての芸術はこのような背景の下、観賞される芸術だろう。

一方で、地方の芸術祭はそもそもの条件が違う。例えば「山形ビエンナーレ」と言われて展示された作品を見れば、そこに「山形」の気配を探してしまう。また上記したホワイト・キューブといった抽象的な空間も、その文脈を理解する人々のうちでは抽象的な空間になりえるが、そうでなければただただ白いだけの部屋だ。地方における芸術祭は、そのような場所やその場所に住む人々の生活といった土台の上に、別視点のストーリーを乗せることで、今までとは違う土地の魅力や姿を見ることができる(そして人々に再び興味を持ってもらう)という側面を持っている。というかそれが目的で。

だからこそ、サテライト的に配置された展示会場、そこにある建物や文化財を使用した展示、その土地由来のモチーフが選ばれ展示される。鑑賞者は、その各作品を自律した作品として観賞するのではなく、その場や、その場所に行くまでに見た景色、地元の人から聞いた話を重ねながら作品を重層的に観賞する。ああ、あの作品よかったな、と思い返しながら、お昼に食べた郷土料理の味も共に思い出し、また行こうかな、と思わせられれば成功だ。もちろん、それだけではないけれど。

その重層的な観賞をコントロールすること、それが地方の芸術祭における展覧会のキュレーションということなんじゃないか、と考えた時、その場所やそこに来る人々、何を前提として共有していて、何を情報として与えるか、その対象となる人たちは今ここに生きる人々だ。具体的にはちょっと未来の、会期中に生きる人々ではあるのだけど。でもそれは重要なことで、今、コロナ禍とか言われて、ソーシャルディスタンスだとかマスクだとかこれまでは決して当たり前ではなかったものを当たり前にしている時代の私たちと、それ以前の私たちは、映像に映るマスクをしていない人々の見方だって変わっている。例えば経験はないだろうか。過去の写真を遡って人々がたくさん集まっているものを見かけると「うわっ密!!」って思うような。

私が今一緒に作品を作っているゲッコーパレードという演劇集団は、そういう今生きる私たちのそういう感覚を取り入れて作品を作っていると思っている。それを私は「文化的尺度」と呼ぼう。彼らの作品に『ハムレット』があるが、普通の家の台所で繰り広げられる。(彼らは民家を拠点とし本公演を行う)使われるセリフは『ハムレット』の戯曲そのままだが、観客はそれを受け入れることができる。なぜなら、そのセリフは『ハムレット』に熱中した男が深夜に夜食を食べながらハムレットになりきって呟かれるものだったり、仕事帰り疲れて帰ってきたOLがコーヒーを飲みながら文庫の『ハムレット』を読んだりするものとして口にされるからだ。つまりは、物語に熱中し没入する人々に寄り添う物語としての『ハムレット』であり、食事をしたり団欒したりする場としての台所で、それは私たちの普段の生活から然程離れていないものとして展開する。この作品に関しては毎回、高野文子『黄色い本 ジャック・チボーという名の友人』を思い出してしまう。(名作なんで是非。)

「生きるか死ぬか、それが問題だ」なんて悩みながらも、なんやかんや巻き込まれ、なかなか死なないハムレットに、時代や設定を超えて今の観客が寄り添うためには、なんだったら共有できるか、が焦点になる。その「文化的尺度」は上記したように、展覧会においても重要な視点で。

だからこそ、彼らとのガッツリとした付き合いは山形ビエンナーレ2018からなんだけど、その時に何かやれるんじゃないかと思った。芸術祭に演劇、というのはなかなか珍しいんじゃないかと思うのだけど、「文化的尺度」をもって土地の上にストーリー(作品群)を乗せていく芸術祭における展覧会と、同じく「文化的尺度」をもって場所にストーリー(戯曲)を乗せていくゲッコーパレードの構造が同じ側面を持っているからこそ、展覧会の上に別のストーリーを乗せる、なんてことが出来るんじゃないか、なんだったらそれが担えるのは演劇でしかないんじゃないかと思って、2018年はブレヒトの「リンドバークたちの飛行」を企画した。これは元々彼らが「戯曲の住む家」と「家を渉る劇」として繰り返し行ってきた移動式演劇のビエンナーレver.だ。

そして今回、彼らと2度目のタッグを組んだ。今回の出品作『ファウスト』は新作で、且つ、演劇映像という新しい試みだ。全てはコロナによって芸術祭がオンライン化し、演劇公演が出来なくなったせいでもあり、だからこそ、でもある。その経緯については解題「なぜ山形でファウストなのか」を読んで欲しい。

2018年の『リンドバークたちの飛行』が展覧会会場を舞台に行われたのに対し、今回は展覧会会場を奪われ、オンラインで行われている「藻が湖伝説」という場所のない展覧会が舞台だ。それでも、やっぱり作品を届ける先の観客は今を生きる私たちであることは変わらない。計3幕からなるこの作品は全て出そろった。第三幕は演劇公演よろしく日時指定での配信だ。是非ご自身の目で見てみて欲しい。投げかけられる『ファウスト』の言葉はあなたたちに向けられている。

ゲッコーパレード『ファウスト』 https://yamagatako.jp/mogaumi/08/geckoparade.html





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?