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ロング・ロング・ロング・ロード Ⅲ 道北の蒼 道央の碧 編  5

 今夜もテーブル席は満席だった。
 それでも店に入れたのは、気紛れな一人客だからこそ味わえる恩恵だった。
 常に、一人旅をしていると思うところがある。温泉旅館も料理屋も、一人では予約さえ受け付けてくれないのだ。いくらこっちが二人分の料金を払うと言っても受け付けてくれないのだ。どうにかして欲しいものだと思っている。
 カウンター席の手前隅に通された。瓶ビールを注文する。
 店主は俺の顔を覚えていてくれたようで、島はどうだった?天気はどうだった?海は綺麗だったか?礼文から利尻富士は見れたの?などと、矢継ぎ早に尋ねてくれた。俺も嬉しくなって、乾いた喉にビールを流し込みながら、一つ一つ丁寧に答えていった。
 雲丹は食ったか?の問いに、「残念ながら雲丹は食べれていない」と俺が言うと、「最近、荒れてっからなぁ、海。塩雲丹でも良かったらあるよ」と店主は勧めてくれた。
俺は初めて食う塩雲丹なるものと、鮭のルイベと北寄貝の刺身、そして昨日も食べたホッケの開きを男山の燗酒と共に注文した。道北の夜は、燗酒が良く似合う。
 小鉢に入れられて運ばれてきた塩雲丹を一口頬張った。水分量が減って存在感を増した雲丹だ。軽い塩気のあとに濃厚な甘みが口の中に広がっていき、コクのある旨さが最後に広がっていく。これぞ絶妙といえる塩梅だ。雲丹の良いとこどりした食い物だ。そう納得した。いつもなら微かに感じるミョウバンをスッと酒で流すのだが、ミョウバンを使っていないのでその必要もない。しばらくこの味のままの口でいたかった。そう思えるほど、俺の人生の中で一番旨い雲丹料理だった。
 男山の燗酒と共にゆっくりと舐りながら堪能する。酒で一旦口の中をリセットし、再び塩雲丹を口に運ぶと、また新鮮な旨さを感じることが出来た。これはエンドレスだった。
 途中でルイベと北寄貝の刺身が運ばれてきたので、それら豪勢なツマミを前に、男山は直ぐに消えていった。
 あれがなければ、もっとガツガツといけたのにと、帰りのフェリーで我慢出来ずに食べてしまったクリームパンを後悔した。それでも旨さは変わらないのだが。男山の二本目もあっという間だった。
 三本目が運ばれてきた時、俺の隣に、俺と同年代ぐらいのスーツ姿の男が座った。カウンターの反対側の端にも席はあった。なのに俺のすぐ隣を「ここでいいですよ」と柔らかな口調で言って座ったことに、俺は密かに警戒感を抱いた。
 初来店だと思える男の言葉遣いは誰に対しても丁寧で、見た目も服装も無難だった。店員とのやりとりも滑らかで対応も上質だった。注文は、ビールにヒラメとホタテの刺身だった。
 何となく男のスムーズ過ぎる所作に、俺は違和感を覚えていた。もうこのへんで店を出るかと思ったのだが、男を見極める時間も必要だと思い直し、俺は男の注文にのっかる形で、昨日、モズク酢と悩んで食べ損ねた海鼠の酢の物を追加注文した。
 男は、俺を見て軽く微笑んだ。嫌味のない笑顔が癇に障る。目が笑っていないのだ。コイツは今、何をどんな風に思考しているのだろうか?俺には図りかねた。それでも俺は軽く頭を下げてから、無言で男山をやった。俺の直感が、男は普通のサラリーマンではない、異なる者だと認識していたのだ。流れに逆らうなど愚の骨頂だった。
 店主自ら、俺が注文したホッケの開きを運んで来た。「おまちどうさま」と言って俺の前にホッケの開きを置いた。何とも言えない香ばしい薫と、ぷっくらと膨らんだホッケの姿に、俺は堪らずに箸を伸ばした。骨のない半身から食べ始める。昨日同様、旨さが身体中を駆け巡る。隣に誰が居ようと旨い物は旨いのだ。
 「旨っ」
 思わず口から洩れ出た。隣の男の頬が少し動いたのを俺は見逃さなかった。こんな俺に呆れているのだろうか。
 半身をあっという間に夢中で平らげて、一度、酒で口の中を洗う。それから俺が一番好きな、背骨を身から外すとついてくる、焼かれてカリカリになった薄い身を、骨から丁寧に、上手く綺麗に外した。半分ほどかぶりついて、じんわりと染み出る旨味を堪能する。
 「美味いっしょ」そう言いながらやって来た店主は、男が注文したヒラメとホタテの刺身を運んで来た。
 店主は、「お待たせしました」と男の前に、刺身皿と豆皿を丁寧に配膳した。終わると俺に向いて尋ねた。
 「明日はどっちに行くの?」
 俺は隣を気にすることなく言った。
 「明日はエサヌカ走って、雄武町で泊まろうかと思ってるんです。明後日の雨をやり過ごすために、二泊しようかなぁって思ってます」
 「そうだねぇ。バイクじゃ雨は面白くないもんなぁ。明日ならエサヌカは綺麗だ、きっと。ゆっくりしていって」
 「ありがとうございます」
 そんな会話を一言一句聞いていたであろう隣の男だが、まるで他人には興味がない様子で微動だにしていなかった。
 俺も気にすることなく、この大切な時間を過ごすことに決めていた。
 店内はひと通り客の入れ替えが済んだらしく、新たな活気で包まれていた。店主は焼き場に張り付き、店員のおねえさん達も忙しなく動き回っている。
 海鼠の酢の物が運ばれてきて、あまりにも立派で美味そうだったので、男山の冷を二本頼んだ。
 チビチビと舐めていた塩雲丹もなくなった。雲丹の下に引かれた大葉までもが旨かった。お代わりがしたいところだったが我慢した。
 海鼠の歯応えと酢の加減が酒を勧める。
 今日霧の中で思うものがあったのだ。もう金儲けのための悪事に手を染めることは絶対にしないと。だから俺は、周りを気にすることなく、ゆったりと旨いツマミと旨い酒に酔いしれた。
 隣の男も邪魔はしてこなかった。瓶ビール一本を舐めるように飲んでいる。
 俺は最後の一滴まで飲み干して、満足感と心地良い酔いのまま、店主に礼を言って俺は店を出た。もう一度、塩雲丹を頼めばよかったと思える金額だった。
 夜風は冷たかったが、見送り時にかけられた店主の「気をつけて滋賀まで帰るんだよ」という言葉のお陰で、それすら気持ち良く感じた。
 どんどん真面になっていく俺に、もう違和感はなかった。
 道を二本ほど越えて、人通りがまったくなくなった時、不意にガラ携が鳴った。見ると数字が並んでいた。一瞬、昨日知った時任の相棒の小池からかと思ったのだが、どうも数列が違っていた。街灯しか点いていない十字路で街中に着信音が響いている。俺は、ゆっくりとガラ携を耳に当てた。
 ――獅子王さん、あなたは本当に、美味しそうに食べる人ですねぇ――
 やはりあの男だ。気を感じて右手を見ると、一つ向こうの街灯の下にスーツ姿のあの男がスマホ片手に立っていた。ふざけているのか、舐めているのか。まぁどっちでもいいのだ。今はただ、気持ちの良い酔いのまま、シーツに包まって眠りたいと思うだけだった。
 「店で声をかけてくれれば良かったのに」
 ――そんな無粋な真似は――
 「隣に座るやなんて、充分、無粋やけどなぁ」
 ――ハハハハッ。それはすみません――
 「で?」
 ――で?獅子王さんはせっかちですね――
 「当たり前や、ええ気分のまま早よ寝たいねん」
 ――そうでしょうね。私が食べたヒラメも昆布で〆るひと仕事がしてあって、とても美味しかったです。あの脂がのったホッケの開きは、隣で見ていて垂涎ものでしたよ。塩雲丹も旨そうでしたね。海鼠も立派だったし。獅子王さんは、あの店にはよく行かれるのですか?――
 話しながら男は俺の2メートル先まで近づいて来ていた。
 「昨日が初めてや」
 「初めまして。警察庁のナカノと申します」
 男は俺の傍まで来て、そう名乗った。
 道警の公安か、警視庁の公安だと思っていたのに、警察庁だとは驚いた。
 「先ずは名刺もらおうか」
 ナカノという男は胸ポケットから名刺入れを取り出すと、一枚取り出して俺に差し出した。
 俺は無造作に受け取ると、灯りに照らして確認した。警察庁警備局庶務課庶務係 特別保安備品管理室 室長 仲野孝蔵と書かれていた。それがどんな部署で、どれほどの役職なのかはわからなかったが、俺が知っている官僚という者とは、完全に違っていた。
 切ったばかりのガラ携で警察庁の電話番号を調べた。名刺にある代表番号と同じものだった。そのまま電話をかけた。
 2コールで相手は出た。男の声だ。
 ――警察庁です――
 俺が名刺の肩書を読み上げて、仲野孝蔵に連絡を取りたいと伝えると、相手は眠たそうな声で、しばらくお待ち下さいと言ったあと音楽が流れ出した。
 仲野という男は笑みを浮かべたままで、俺の行動を見守っている。
 ――もしもし、変わりました。特別保安備品管理室の神村です――
 元気な声の女性が出た。
 すると、仲野が俺に近づいてきて、横から声を出した。
 「神村君、お疲れ様」
 ――あっ、室長。お疲れ様です――
 電話の向こうの神村という女が、素っ頓狂な声を上げた。
 「じゃかぁしいわ。鼓膜破れたらどないすんねん」
 俺はガラ携を耳から離して怒鳴りつけた。
 ――ごめんなさい。すみません――
 そう神村は謝っていた。
 俺はこの電話をどう閉めていいのかわからなくなって、ガラ携を仲野に手渡した。
 「神村君、今日はもう電話がくることはないだろうから、帰宅して構わんよ。ご苦労様でした。うん?代わるのかい」
 仲野はまだ通話中らしきガラ携を俺によこした。
 ――先ほどは、大変申し訳ありませんでした。失礼します――
 そう言うと、神村という女は電話を切った。
 「彼女、これでも仕事はやるんですよ、並の男以上に。けれど、オフモードの時は、時々出来損ないになってしまいますが。耳は大丈夫ですか?」
 「あ、ああ」
 「それは良かった。歩きながら話しますか」
 俺と警察庁の仲野は、二人並んで稚内の街を歩き出した。
 それにしても、警備局庶務課庶務係の特別保安備品管理室という部署はどういったところだろうか?態々、北海道の稚内くんだりまで俺に会いに来ているということは、密かに公安関係の仕事をしているのだろうか?
 「獅子王さん、あなたは昨日、何故、あの港へ立ち寄ったのですか?」
 どう答えれば良いものやら……、考えあぐねる。
 「何でそんなん、あんたに答えなあかんねん」
 「いま、どう答えるのが正解か?そんなところでしょうか」
 まったくムカつく奴だ。
 「俺があんたに答えたら、俺にはどんな得になるっちゅうんや?人が気持ちよう酔うてるっちゅうのに」
 「まぁ、そう言わずに。あなたとタキザワの関係について、お話をお聞きしたいのですが?」
 タキザワだと?何を間抜けなことを……。なるほど、あの旭川ナンバーをつけたオンボロの白いワンボックスの中に、タキザワなる人物がいたということか。
 「タキザワ?」
 「おや、『J-Rowan』のタキザワですよ。ご存じないとは思えませんが」
 「ジャ二のタキザワ?」
 「いえ、『J-Rowan』です」
 「なんやそれ?あんたは俺を、ちゃんと調べて来てるんやないんかいな。なぁ。あんまりええ加減なこと言うとったら困るで、しかし」
 仲野が笑みを消した。
 代わりにガラ携がまた鳴った。徳永からだ。
 仲野が手で出るように促した。
 「もしもし」
 ――すまん。寄り切られた。そっちにも公安が来ているだろ。話した方がいいーー
 「わかった。ありがとう。世話かけたな」
 ――こっちこそ、すまん。気をつけて旅をしろよ。仙台で待ってるから――
 そう言って徳永は電話を切った。吐き出す言葉の中に悔しさが入り混じっていた。仙台?何故、仙台?ああ、センダイ、なるほど。
 仲野は鋭い目つきになった。
 「我々も、切羽詰まっているということです
 「ほんなら、先ず、何があったか訊こうやないか」
 「いいえ、あなたが知っていることをすべて話してくれればいいのです」
 仲野は強い口調で言う。
 「話すよ。全部話すけど、何をどう話せばええのか。何が起こってるんかがわかれば、少しは筋立てて話せると思うんやけどなぁ」
 俺も引かない。仲野の鋭い目を睨みつける。
 しばらく睨み合いが続いた。
 「いいでしょう」
 折れたのは仲野の方だった。時間の無駄だと思ったのだろう。
 ことの始まりから仲野は語り始めた。
 半年前、公安の息がかかっている東京都江東区の金属加工の町工場に、複雑な配管がある小型撹拌機の配管部分の製作依頼が持ち込まれたことが発端だった。
 持ち込んだのは若い男性で、何語かわからない外国語が書かれた下に、日本語で訳が書かれている図面をパッと見せ、「ステンレス製で配管を作れないか」と言ったらしい。見たところ、どうも気密性が高そうな撹拌機で、対応した社長が違和感を覚え、「コピーを録らせてもらえないか。ウチの技術で作れるかどうか、じっくり検討してみたい」と言った途端、そそくさと出ていったという。
 直ぐに連絡があったので、指紋採取と防犯カメラの映像を押さえたが、指紋に該当する人物はなく、町工場を出てからの足取りも消えていた。
 そして先月、別件で京都にある過激派のアジトが摘発された。
 その時のガサの中から見つけた暗号化されたファイルから、ある化学兵器が近々日本に入って来るという情報を掴んだ。
 俺は、仲野に「それは何や?」と尋ねた。すると仲野は、「知らなくても話は通じるはずだ」と強く言った。
 それから色々と調べるうちに、道愛会という学生サークルのタキザワという男に行き着いた。道愛会は元々、バブルの頃、東清大学の旅行部の部員が中心に立ち上げた北海道旅行サークルで、そのうちに他の大学生の北海道出身者や北海道好きが集まりだした。今や関東一円の大規模学生サークルで、今は下部組織として、サイクリングだのキャンプだの五十近くのサークルに別れている。サークルのメンバーはごく一般の大学生やOBがほとんどで、自分が入っているサークルが道愛会の下部組織であることを知らない学生も多いという。
 その中に、敬命大学に通う滝沢雅史を見つけた。滝沢は『J-Rowan』というサバイバルゲームサークルの副代表をしていて、日本全国のサバイバルゲームのチームと交流を持ち、優秀な人材を『J-Rowan』の精鋭チームのメンバーとしてスカウトしていた。
 俺の中の不安が益々形となっていく。
 『J-Rowan』を調べていくうちに、金まわりの良さに疑問が湧き、先に進むと、日本有数のグループ企業、椎野HDの名前が現れた。
 俺だって知っている大企業だ。昔の仕事で椎野不動産所有のビルにテナントとして入ったことがあった。
 しかし、それ以上捜査が進まぬ間に、外事部から不確定ながら情報が入ってきた。とうとう、化学兵器の半分が日本に持ち込まれたらしいと。
 俺の中で、点と点が線に繋がった。だから丘崎だ。
 そして、少ない情報の中から、『J-Rowan』は北海道の原野にすでに拠点を構えていて、どうやら北海道独立を旗頭に掲げているらしかった。
 「そして昨日、北海道にある目ぼしい港に人員を配置していたところ、あなたがふらりと現れて、停泊している漁船と港に停まっている車両のチェックをするような、挙動不審な動きを見せた」
 「で?」
 「で?」
 「そう」
 「そう……とは?」
 「何であんたが北海道まで飛んできて、俺に接触しているんや?」
 「ああ、それはあなたの経歴と現状に興味を持ったものですから。正式には杯を交わしていないとはいえ、銀盛会の三羽烏の一人といわれた沢木竜也の下で二十年以上を過ごしたあなたです。しかし、弟分の朝井に撃たれたあと、沢木組も突然解散して行き場を失った。それが最近では呑気に北海道を旅している。もしかしたら、あなたが。そうとも思ったのですが、聞くところによると、あなたは自らの人生に終止符を打つために旅に出たと。そんな思いでこの北海道を旅しているあなたが、何故、あのような行動をとったのか?その理由が気になりました。もうヤクザ世界とは関係のないあなたが、ひと月前には帯広で花押会の高峰を見ている。そして、今回もあなたは、何かを見たか、或いは聞いたのではないですか?そして、疑問を持ったあなたは昔を思い出し、金になると踏んで調べ始めた……」
 俺はゴクリと生唾を飲み込んでしまった。
 「まぁ、最後の部分はあくまで、昔のあなたの情報から鑑みたものですが」
 最後の「金になると踏んで」は、仲野なりの嫌味だったようだ。俺は見透かされているようで嫌な気分だった。
 「それに、東京の徳永さんを介して関川さんを動かした。その二つが重なったということです。さあ、次はあなたの番ですよ。いったい何を見たのですか?聞いたのですか?話して下さい」
 前のめりな仲野に、俺は小平町で間抜けな格好をした高峰と丘崎を見たところから、あの港で見た光景の最後まで話して聞かせた。
 「それであなたはその船が気になった。そうですね?」
 「うん」
 「あなたのことだから、その漁師の老人とコンタクトをとったのではないでしょうか?もしそうなら、正直に包み隠さず話して欲しいのです。もう駆け引きを楽しんでいる時間はないものですから」
 酔いが醒めてきているのを感じた。
 俺は無言で歩いて、国道40号線の向こうにある駅のセコマに入った。仲野も無言のままついて来ている。いつものの小さいサイズを三缶買って店を出た。
 駅のバスロータリーの柵に座って、一缶を、つっ立ったまんまの仲野に差し出した。
 「いえ、私は結構」
 俺はプシュッとやって喉に流し込んだ。柵のポールに残りが入ったビニール袋をかけて、もう一口流し込んでから、飲みかけの缶を上手くポールの上に置いた。
 それから俺は、ヒップバッグのジッパーを開けて、中からカメラを取り出した。電源を入れて、高峰と丘崎、そして瑛篠丸の写真、五十川彰俊とその父親・五十川隆俊名義のオンボロの白いワンボックス。それらの写真を仲野に見せ説明した。
 仲野は食い入るように見たあと、右手を大きく上げた。
 向こうから黒い乗用車が一台ロータリーに入って来て、俺の背中で横付けされた。
 助手席から出てきた三十代ぐらいの刑事に、「パソコンを貸して下さい」と仲野は言った。
 仲野はPCを受け取りながら言った。
 「そのSDカードを貸してもらえませんか。もっと大きな画面で見てみたいのです」
 「俺が操作する。それならええで」
 仲野は無言でPCを俺に手渡した。カメラから取り出したSDカードをPCのスロットに差し込んで、タップしながら写真を写し出し、もう一度、仲野に説明した。
 「この老人の名は、シノダとかシノハラとかいうのではないですか?そして名前がエイジとかエイキチとか」
 「おしい。上は合ってる。このじいさんは、篠原三郎。小樽の漁師で水族館近くの漁協に入っているらしい。そんで、このオンボロが、五十川彰俊が運転していた父親・隆俊名義の車。隆俊は旭川で五十川興産という不動産業を営んでいる」
 仲野は食い入るように見て、すべてを脳内にインプットしているようだった。
 俺は今日撮ったファイルに変えて、利尻島の港に停泊していた瑛篠丸の写真を見せた。
 「これは……。今日の日付ですね」
 「利尻島の港で見つけた」
 「そうですか。一人エスをつけていたらしいのですが、バッテリーが上がってしまったらしくて、あなたを見失うことに……。かといって、オートバイを運転出来る要員を直ぐには手配しきれなかったようでして、残念です」
 あの白いハーレーの奴がエスだったのには驚いた。あんなマヌケが。
 「それで、篠原三郎とは会えたのですか?」
 「いいや、船の写真を撮っただけや。俺に篠原と会うメリットがない」
 仲野は、俺に写真と動画のコピーを頼むと、何やら考えているらしく押し黙ってしまった。
 俺はデスクトップにフォルダーを作成して、そこにコピーしたデータを入れた。
 「終わったで」
 「ありがとうございます。それで、一つ質問があるのですが」
 「何?」
 「恒星会の丘崎のことなのですが、もう少し詳しく教えて頂けませんか?」
 俺は知っている限りのことを仲野に話して聞かせた。噂話を含めて全部だ。丘崎の親分だった三宅が襲撃されて死んだ件も、丘崎の仕業ではないかと俺は思っていると付け加えた。
 仲野はまた押し黙ってしまった。
 いつものの小さいサイズが二缶消えていた。明日もタンクバッグに冷蔵庫の中の何本かが入りそうだ。雨が降れば宿からは出ないのだ、その時に呑めばいい。それにしても眠気がやってきた。北海道の独立なんて馬鹿げている。この北の大地に、警察官だけでなく自衛隊員がどれほどいると思っているのだろうか。しかし徳永は、丘崎は狂っていると言っていた。ああ、訳がわからん。
 「今日はこれでええか?そろそろ寝る準備せな、明日走られへんようになる」
 「あ、ああ。それはすみません。ご協力ありがとうございました。どうぞ、ホテルへ帰っていただいて結構です」
 ビニール袋の残り一缶を取り出して、代わりに空き缶を入れた。
 「明日からもエスの尾行がつくんかなぁ?あの陰気臭い、横浜ナンバーのハーレー乗りは、頼むから勘弁や」
 「ほう、横浜ナンバーのハーレーでしたか。明日からは離島ではないので大丈夫ですよ」
 「何が大丈夫やねん。尾行なんかされたら鬱陶しいやんけ」
 「ハハハッ、あなた、昨日一日尾行されていたのを気づいていないようですね」
 「えっ」
 「ですから、あなたの旅の邪魔にはならないと思いますよ。どうぞお好きなように。密かにボディーガードがついていると思って、北の大地を愉しんで下さい」
 俺は茫然自失だった。残りの一缶を開けて喉に流し込む。酔いは一気に醒めていた。
 無言のまま、トボトボと立ち去ろうとした時にうしろから仲野の声がかかった。
 「気をつけて旅を続けて下さい。それと、もし、何か気づくことがあれば、さっきのように電話をして下さい。いつでも私に繋がるようにしておきますから」
 俺は一口飲んで、缶を持ったその手をあげるので精一杯だった。

 ホテルの部屋に戻ったが、脱力感は解消されなかった。あの港からずっとつけられていたなんて、俺もボケたものだと本気でへこんだ。
 余力を振り絞って、じっくりと隅々まで部屋に誰かが侵入した痕跡はないかを調べた。カメラや盗聴器は設置されていなかったし、荷物の中やタンクバッグの中にも発信機は入れられていなかった。
 「あとはパソコンか」
 ヒップバッグの中のケースから、青いUSBを取り出して、立ち上げたPCのスロットに差し込んだ。
 五分ほど待ってENTERを押した。別にPCもいじられていないようだった。安全の確認が出来たので徳永の要件を済ませることにした。“センダイ”の件だ。二回失敗して三度目でやっと、先代の徳永質店のオーナー徳永銀三がやっていたブログのページに入れた。俺が受けたショックは相当なものなのだと実感した。編集画面に入る。いくつかある伝言板代わりの一つだ。徳永がここを使った理由はすぐにわかった。ページの上部に、このサイトは三日後に完全閉鎖になると告知が書かれてあった。
 『 ー丘崎に関してー
 先のTNT、炭疽菌、共に裏は取れなかった。
 しかし、其らのブツの仕入れに関わったと思われる人物が、二人死んでいる。
 中東ルートを持っていたと思われる京都のペルシャ絨毯専門店の店主と、神戸にある輸入雑貨家具屋の副社長が変死している。こちらは東欧ルートだろう。どちらも事件が起こる少し前に死んでいる。口封じというよりも、ルートそのものを乗っ取るための殺しではないかと思われる。
 やはり、丘崎は狂っている。
 何かヤバいことが起きそうなのは確実だろう。けれど、俺にもお前にも出来ることなんかない。それは覚えておけ。
 一応、頼まれた件の報告だ。
 花押会、恒星会共に北海道の関連企業はなかった。しかし、高峰の友人の北岸昇という奴が、小樽で小さな貿易会社をしている。相手はロシアだ。
 紅海丸だが、船長の三宅雅和は高齢のため自宅で年金暮らし。船自体は別の人間の所有になり名前も変わっている。五人の乗組員の内、里中昭夫、木村勇三はすでに死亡している。里中は二年前ガンで、木村勇三は去年脳梗塞からの心不全だ。木村勇三の息子・勇作は、紋別の蓮臨丸という船に乗っている。本宮直樹は船を下りて、紋別の街で「酔興亭」という居酒屋を営んでいる。最後の一人、岡田清は里中の葬儀の時に周りから金を借り捲ってトンズラをかましたらしい。現在は行方不明だ。 
 どうせ次は紋別にでも滞在するつもりだろうが、そこまでにしろよ。
 俺は手を引くから。 』
 公安が来る前に書いたものだろう。
 俺は、心地良い敗北感を感じていた。身体が駄目になっても感覚だけは、そう思っていた。それも鈍るほど俺は落ちぶれたのだ。残るは知識と経験だけだ。それで何が出来る?
 大事な部分だけ、俺はガラ携で写真に撮って確認したあと、書かれている文字をすべて消し、編集画面から出て、まだ残っている徳永銀三の笑顔をしばらく眺めた。
 俺が東京を去る原因となった傷害事件が、不起訴となったのは銀三さんの力が大きかった。俺がそのことを知ったのは、銀三さんが死んでからのことだった。
 最後に書かれたブログを久し振りに読んだ。死ぬ二週間前の記述だった。切羽詰まったこの国の未来を憂うものだった。そして文末にこう記されてあった。
 “運命というものは、人をいかなる災難にあわせても、必ず一方の戸口をあけておいて、そこから救いの手を差し伸べてくれるものだ”
 ミゲル・デ・セルバンテス 「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」より
 つまり、『前向きに考えて生きろ』そう銀三さんは言いたかったのだと、俺は解釈した。
 解釈はしたのだが、思い出した仲野の言葉が気になった。「化学兵器の半分が日本に持ち込まれた……」と言った。
 何年か前、マレーシアの空港で起こった殺害事件が頭に浮かんだ。バイナリー兵器か。俺は仲野に直接当たらない訳にはいかなかった。
 勿論、仲野からかかってきた番号はガラ携に記録されてあった。けれど、仲野は「さっきのように電話して……」と言った。その言葉通りに名刺にあった警察庁の代表番号に電話をかけた。名刺に書かれたクソ長い肩書を口にして、仲野に連絡を取りたい旨を伝えると、今度は「こちらから折り返します」そう言われた。
 明日から二泊を予約している雄武町の宿をキャンセルしようか迷っていた。一刻も早く、紅海丸に関する人間から情報を得たかったのだ。
 天気予報は明日の昼過ぎから小雨の予報に変っていて、旅を充分に楽しむには、予約している雄武町の宿で宿泊するのがベストだと思えた。俺は何のために、この北の大地を旅しているのか?それが一番大事なのだと俺は再認識した。
 明々後日からの紋別の宿を検索し、三泊そこに予約を入れた。本宮直樹がやっている酔興亭にも近いホテルだった。
 ガラ携に仲野の折り返しの電話があった。
 「どうしました?」
 少し苛立っている様子が伺えた。俺は好奇心からからくる悪戯心を止めることなく言葉にしてしまった。
 「なぁ、もしかして、あんたが言うてた、持ち込まれた化学兵器ちゅうんは、バイナリーのVXなんか?それとも、ノビチョクか?」
 「あなた……」

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