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ロング・ロング・ロング・ロード Ⅳ 道南の涙 編   6

 とうとう朝はやってきた。
 今日は一日、何時鳴るかわからないガラ携を気にしながら、函館の街を巡ることになる。
 何故だかもう、津軽海峡を渡りたい。そんな気持ちが、俺の中の何処かにいることが不思議に感じた。まだ、函館山から夜景を眺めていないのにだ。
 午前十時のチェックアウトを待ってホテルを出た。
 今夜の宿は決まっているのだが、しかし、荷物を預かってくれるフロントがない。満載の荷物を積んだまま、交通量の多い街中を走るのだ。
 最初の行先は決まっている。有名な函館朝市に行くのだ。
 勿論、今は朝ではないので多少人が少なくなっているだろう。どうせ冷やかすだけで買いはしないのだ、雰囲気だけ楽しめれば。そう考えてのことだった。
 一方通行の、朝市大通りやら開港通りやらと名のついた通りの路肩に相棒を停めて、俺は市場の密集地帯を歩き巡った。予想以上の人出だった。何処もかしこも活気があって、歩くだけでも充分楽しめた。朝の時間に来たのなら、もっと人でごった返しているのだろう。腰が引ける。
 此処も道行く人々の多くが外国語を話していた。
 足早にひと回りしながら俺は、何故かイカ釣りが出来る場所をチェックしていた。
 久し振りの人混みに疲れた俺は、駅二市場の中にあったカウンターだけのコーヒースタンドで休憩した。
 本格的なコーヒーを飲むのは何時振りだろうか?店名の『十字屋』という文字がデザインとして描かれたカップから、湯気と共に立ち昇る旨いと思える香りと、舌に嫌味のないすっきりさの中にしっかりしたコクがある味わい深い旨味が、俺の身体をリラックスさせる。
 ふとカウンターに目をやると、トラピスト修道院のクッキーが売っていた。昨夜食べたトラピスチヌ修道院のクッキーの味が舌に蘇ってきた。バタークッキーがブラックコーヒーに合うことは間違いない。それに、トラピストとトラピスチヌで、どれぐらい味が違うのかを知りたくなった。
 もう一杯コーヒーを注文して、俺はクッキーを一つ手に取った。
 封を開けた瞬間の良質なバターの香りが鼻腔に充満したが、微妙に違う。歯応えはこちらの方が多少ながら軽快さを感じた。口の中での蕩け具合も違った。充分に美味しいのだが、俺の好みは、トラピスト修道院よりもトラピスチヌ修道院の方だった。
 それにトラピスチヌ修道院のマダレナは、途轍もなく旨かった。小麦粉・鶏卵・バター・砂糖だけで作られた潔さも良かった。昨夜〆に一つだけ食おうと思っただけなのに、気がつくと、三つ買った全てを食い尽くしてしまっていた。やめられない、とまらない、だった。
 今日また買いに行って、美枝子へのお土産にしようかと考えている。
 変にクッキーを二枚腹に入れたものだから、俺の胃が久し振りに目覚めたかのように鳴き出した。
 店の人から、近くに美味い函館塩ラーメンの店があると教えてもらった。
 荷物満載の相棒をラーメン屋の近くに停め、俺はまだシャッターが半分下りている入口前に立った。
 開店時間まで、まだ四十分以上あった。だけど、さっきのコーヒーショップの店員が「並ぶ覚悟で」と言っていたので、俺は素直に其処で待つことにした。
 立ったまんま、徳永が旅のお供にとくれた『梶井基次郎・檸檬』を眺めていると、そう時間が過ぎぬ間に、俺のうしろには二十人以上の列が出来ていた。一足違えば最初の一回転目には食えなかったのだ。そう思うと、人の言葉を信じて良かったと思った。直ぐうしろは青森から来たらしい女子高校生の四人組が並んでいた。もっと青森弁は、途方もなく訛っているものだと思っていたのだが、四人組の会話は俺が普通に理解出来るぐらい、首都よりの言葉が飛び交っていた。青森に渡って言葉に苦労することはなさそうだと高を括った。
 オープンと共にカウンター席に座り、水が出てくる前に塩ラーメンを注文した。
 初めて苫小牧東港に上陸して、俺の子供の頃のヒーローのお墓参りをして、たまたま立ち寄ったガソリンスタンドで、胸に大きくバイトと書かれた名札をつけたバイト君に教えてもらった日高町の萃龍で、上陸後初めて食った北海道のメシ、あの時の塩ラーメンの旨さが嫌でも蘇ってきていた。あの旨さがなければ、俺はこれほど北海道というものに、ハマってはいなかったかもしれなかった。
 運ばれてきたラーメンは、とても綺麗な透明色をしていた。白肌のメンマとミツバの緑色が旨海の中に浮かんでいる。見ただけ、香っただけで旨いと思わせる逸品だ。
 澄みきったスープをレンゲで口に運んだ。ラーメンを作るということは、こういうことなのだと感動を覚えた。
 麺をひと啜りすると、丁寧な仕事の成されたスープとの絡みも申し分なかった。
 俺は夢中で貪った。スープまで綺麗に飲み干した。旨かった。
 一番に並んだだけあって、俺は一番に店を出た。
 空は灰色だ。
 腹ごなしにトラピスチヌ修道院へ向かう。
 市電沿いに走り、終点の湯の川温泉を通り越す。俺は修道院までの道程を、地図を見ずに走れるようになっていた。
 昨日と同じ場所に相棒を停めて、俺は今日も暫く聖堂を見ながらぼうっと過ごした。今日は何の変化も感じられない。
 美枝子への土産は箱に入れてもらい。俺用のはそのままビニール袋に入れて貰った。
 相棒の元に戻りタンクバッグに土産用の箱を入れると、俺用のビニール袋は入らなくなってしまった。これから一日、左手首にぶら提げて走るのだ。
 何処までも灰色の空が続いていた。近頃、青い空を見たことがない気がする。海沿いの国道を走っても、全く気分が高まるようなことはなかった。
 取り敢えず函館の先っちょへ行こうと考えた。地図で立待岬は函館山の東側にあった。
 函館の生活感ある旭森通を走って先っちょへ向かう。立待岬はあまり先っちょ感がなかった。
 暫く佇んでいたのだが、美枝子からの連絡はなく、何をしようかと考えた。
 地図と一緒に入れてあるホテルで貰った観光地図を取り出してみた。腹は減っていないので食い物屋の選択肢はなかった。かといって、こんな空の下、遠くに足を運ぶ気にはなれない。荷物の上に俺用のマダレナが入ったビニール袋があるのだから、軽々しく相棒を置いて観光に夢中になるわけにもいかない。これがバイク旅で都会を観光する時のジレンマだ。仕方がないのでまだ走っていない函館の街を流すことにした。
 函館の街は北海道の都市の中でも狭いせいか、観光と生活の隔たりが曖昧に感じられた。
 谷地頭の街をウロウロして、美枝子の家がある町へ入った。立派な門構えの屋敷に灯りはなくひっそりとしていた。これは美枝子の実家なのだろうか?それなら、娘がヤクザの女になることを、美枝子の両親はどう思ったのだろうか?
 ロープウェイ乗り場辺りの坂道を上ったり下りたりしながら、元町公園、旧イギリス領事館がある基坂を下りて、ペリー広場のある公園を過ぎた辺りで人混みを見つけた。
 何だろうと思い、俺は相棒を停めてその人混みが作る列に並んだ。それだけ時間を持て余していたのだ。
 前のカップルに何の列なのか尋ねた。するとここは、函館で有名な洋菓子屋で、クレープ目当てに並んでいるのだと教えてくれた。そして、今日のように短い列はラッキーだとも言った。
 俺はそのラッキーに賭けることにする。目の前の中華会館と書かれた煉瓦造りの建物も俺の気持ちを軽くさせた。
 『アンジェリックヴォヤージュ』で俺は、生のブルーベリーが入っているクレープを食べた。何ともクレープ生地のモチモチの柔らかさが堪らない。生クリームもブルーベリーも全部が旨くて疲れが抜け出て行く気になった。
 大満足になった俺は、何処かで旨いコーヒーを飲ます店はないかと彷徨った。
 外人墓地が並ぶ異国感漂う道を進んで行くと、ティーショップの看板を見つけた。『夕日』という店名が気に入った。
 古い建物をそのまま使用したこの店には、コーヒーはなく、あるのは日本茶だった。
 俺はこれも一興かと冷たい八女茶を注文した。北海道で福岡のお茶を飲むなんて想像だにしていなかった。
 久し振りの旨い茶を、船が行き交う海を眺めながら、じっくりと時間をかけて頂いた。
 美枝子からの連絡はなかった。このまま連絡がなく、今夜の宿を探すのに苦労することになりそうな予感も少なからずあった。人はそれぞれ立っている位置が違うから、見えている景色も違うのだということは理解していた。
 窓から見える空は厚い雲が覆っていて、どう考えても今日、夕日は見えないし、空が夕焼けに染まることもない。
 俺は店を出て、何処でどう時間を潰そうかと考えた。美枝子でなければこっちから電話をかけて、どやしつけているところだった。だが、昔ながらの常識がそうさせないのだ。じっと連絡がくるのを待つ他ないのだ。
 空を見上げて、雨が降ってきたらどうすればいいだろうか?そんなことまで頭に過った。
 やっとガラ携が鳴った。けど、美枝子ではなかった。
 「もしもし、何?」
 ――どうしたんですか。ご機嫌斜めですね――
 「あんたがオッサンにいらんこと言うから……」
 ――ああ、ハネさんですか。一昨日も会ったらしいですね。ハネさんが、謝っておいてくれって言ってましたよ。子供にもプライドは必要なんだなって。いったい、何があったのですか?――
 ああ、あのことを気にしていたのか。そう思うと、あのオッサンが途轍もなく嫌な奴ではないような気がした。
 「別になんにもないよ。態々そんなことで電話してきたんかいな」
 ――いえ、実は別件で。そうだ。わかりましたよ。朝井が何故、あなたを撃ったのか?それを教える代わりに、ちょっと、獅子王さんにお頼みしたいことがあるのですよ――
 朝井の件?ああ、そんなことを言っていた。だが、もうそんなことはどうでも良かった。今はただ、ケジメをつけるための穏やかな時を過ごしたかった。
 「面倒事はもうごめんや。こっちは大事な電話を待ってるんや、別を当たってんか」
 ――わかりました。じゃあ、またあとで電話します――
 そう言って津田は電話を切った。別を当たれと言ったのに、また電話しますときた。相変わらず図々しい男だ。
 ポケットに入れようと折り畳んだ途端、再び震え鳴き出した。
 今度は美枝子からだった。良いタイミングだ。
 「はい、誠です」
 ――今何処?もう家にいるからおいでよ――
 いつもの自己主義が強い軽い口調だ。声に年老いた感じはなかった。やはり少しだけ緊張する。もう組もなければ沢木もいないのだ。それでも身体に染みついた癖のようなものは、まだ一向に俺の中から消えてなくなる。って、そんな感じはしなかった。
 「わかりました。今から伺います」
 ――ねぇ、お寿司頼んでるから、日本酒でいいよね――
 「あっ、はい」
 ――じゃあ待ってるわ――
 軽く電話が切れた。昔を思い出していた。美枝子は沢木にだけは敬語で、それ以外にはこの調子だった。若頭の左坂や舎弟頭の皆木、本部長の室田、それに美枝子よりも随分年上だった補佐役の古株の面々に対しても、それは変らなかった。美枝子が姐さんになってから入ってきた朝井は、美枝子を本当の姉のように慕っていた。
 俺は頭の中の昔話を振り払った。朝井は俺を弾いたのだ。
 大きな鳥居が見える坂道を上がって美枝子の屋敷に向かう。さっきは閉じていた門が、今は大きく開かれてあった。
 立派な車が三台は置ける駐車場には、場違いに思える黒く小さな塊が置いてあった。何処かで見たような、何処にでも走っているような軽だった。
 確か美枝子は車の免許を持っていなかったはずだ。
 俺は反対側の隅に相棒を停めた。
 建物の小窓からは、部屋の灯りがレースのカーテン越しに漏れていた。誰か来客があるのかもしれないと思った。
 大きな玄関の扉の前まで二度に分けて荷物を運び、扉の前に立って呼び鈴は何処かと探していたら、内側からドアが音もなく開かれた。出てきたのは五十歳ぐらいの淑女だった。
 「お待ちしておりました。獅子王様ですね」
 「は、はい」
 「お嬢様は今、急なご来客がございまして、私が、獅子王様を客間へお通しするようにと仰せつかっております」
 面食らった。こんなことになるとは思ってもみなかった。
 玄関へ入ると歴史のありそうなシャンデリアが釣り下がっていた。置かれている置時計やその他の調度品も見事だった。正面には重厚な両開きの木製のドアがあり、右手にも小さいながらも重厚な造りのドアがあった。そのドアの上ではステンドグラスが光り輝いていた。
 ここに来客がいるのか。沓脱には安物の黒い合成革靴が一足置かれている。どういった客だろうか?
 二階に続く階段の踊り場には縦長の窓に、綺麗なステンドグラスが嵌め込まれていた。そこから柔らかな光が差し込んでいる。
 淑女の先導で、俺は荷物を両手に抱えて左へ伸びる廊下を進んだ。
 廊下の左側にもドアがいくつか並んでいる。
 突き当りを右に曲がるとドアが一つだけあった。
 恭しくドアを開けた淑女に、俺は部屋に通された。結局、淑女は荷物を一つも持ってはくれなかった。
 「先にお風呂にお入りなさいますようにと、お嬢様が仰っておられましたが、如何いたしますか?」 
 「はい、ね……、美枝子さんが仰っているのでしたら、そのように」
 「では、御準備が出来次第、お迎えに上がります。失礼いたします」
 そう言って淑女は出ていった。
 危うく姐さんと口に出しそうになった。しかし、いったいこれはどういうことだ。身体中刺青だらけの美枝子をお嬢様と言うお手伝いがいる。何か窮屈な感じが、俺の身体に悪そうだった。
 部屋にクイーンサイズのベッドが二つあるのにテレビはなかった。他にあるのは、真新しいエアコンとテーブルに椅子が二つ。内線電話らしいものがドアの横の壁にかけられてあった。
 いつものように荷物を広げるには少し場所が狭かった。テーブルの上にPCを置くと他に置くスペースが見つからない。それに、冷蔵庫がないことが不便だと思えた。
 「御準備出来ました」と淑女が部屋にやって来た。俺は土産のマダレナとクッキーが詰められている箱を彼女に差し出した。
 「あのう、これ。良かったらアナタも」
 「あらぁ、まぁ。トラピスチヌの。ありがとうございます」
 淑女の顔が一瞬和らいだのを、俺は見逃さなかった。
 俺は着替えを泊まった温泉宿で貰ってきたビニールの巾着袋に入れて、楚々と歩く淑女のうしろについていった。
 廊下の途中にあったドアの一つが風呂場への入口だった。
 エントランスに近い方の二つ並んだドアがトイレだと教えてくれた。そして、左が男性用だと付け加えた。
 脱衣所に入るともう檜の香りが漂っていて、洗面台には美枝子のものと思われる化粧瓶がズラリと並んでいた。
 淑女が風呂場のガラス戸を開けて、シャワーの使い方を細かに説明した。
 俺は説明よりも、風呂の大きさに驚いていた。
 腰壁が大きな西洋タイルが張り巡らされた大きな洗い場があって、奥の左の壁には大きな窓があった。その窓から庭が見えるように、五、六人がいっぺんに入れそうな大きさの檜風呂があった。檜の香りは風呂桶だけが醸し出しているのではなかった。檜は腰壁から天井にかけて、浴室全体を覆うように張り巡らされていたのだ。
 この屋敷には、どれだけの金がつぎ込まれているのだろう?
 俺は初めて、美枝子のことを何にも知らないってことに気がついた。
 「洗濯物は、こちらの籠に入れておいて頂くと助かります」
 「いえ、洗濯は自分で……」
 「それでは、私がお嬢様に叱られます」
 淑女が言うので俺は「わかりました」と頷いた。
 「他にもございましょう。全部こちらにお入れになって下さい。それではごゆっくり」
 淑女はそう言って脱衣所から立ち去った。
 タイル張りの床や一つだけある檜の椅子は濡れていたが、銭湯や温泉宿の洗い場にあるような目の前のガラスには、水滴は一滴もついてはいなかった。
 洗い場のシャンプーやボディーソープの類も、俺にはわからない高級そうなものが並んでいた。
 良い香りがしたが、金髪モヒカンの俺から薫るとちょっとなぁ、という香りだった。でも、この香りが、今の美枝子の香りの一部なのだと気づき、それに包まれているのだと思うと、いつの間にやら硬くなっていた。
 頭を切り替える。檜の香りが旅の疲れをとってくれているのだ。
 湯船に浸かりながら朝見た週間天気予報を蘇らせた。俺は何夜この檜風呂に浸かることになるのだろうか?それとも、今夜だけ此処に泊って、明日からはまたホテル暮らしになるのだろうか?
 それの方が俺には都合が良いのかもしれない。此処ではティッシュに出してもゴミ箱には捨てられない。あの淑女には必ずバレる。もしかしたら美枝子の耳に伝わるかもしれない。
 どうせなら、雨の降っていない時にこの屋敷から出たかった。カッパを着て街中を走るなんて嫌だ。
 それで、晴れたら何があろうと駒ケ岳・大沼を走り、その夜は函館山に登って夜景を見るのだ。そして、次の朝、津軽海峡を渡る。
 俺はそう決めて、一度頭の天辺まで全身を湯の中に沈めた。
 今来ている客は、どんな奴なのだろうか?そして、こんな広い風呂場は真冬の朝、目覚めのシャワーを浴びる時にはとても寒いのだろうなぁと思った。 
 溜まっていた洗濯物を淑女に言われたとおりに籠に入れて、温まった身体を部屋の窓を開けてクールダウンさせながら、俺はPCを開き天気予報を見ていた。
 こんなことってあるのか。この先一週間、函館近辺は曇りか雨の予報が並んでいた。北の大地は、俺をこのまま函館に取り込んだままにしたいのだろうか?
 不意にドアが開いた。ノックもなしにだ。
 「久し振りだね、誠。生きてて良かった」
 俺が最後に記憶している美枝子よりも若返っていた。茶髪のアシンメトリーなベリーショートの髪型になっているからだろうか?それとも、俺が次元の狭間にでも飛ばされただけなのだろうか?
 「お腹空いたでしょ、準備出来てるから食べよう」
 そう言って美枝子は部屋を出ていった。
 俺は言葉が一つも出てこなかった。初めて逢った時よりも、俺は美枝子を美しいと思った。
 慌てて俺は、PCを持ってあとを追った。
 さっき閉まっていたエントランスにある大きなドアから美枝子は顔を出していた。今まで見たことのない悪戯っ子のような彼女の姿に出くわし、俺は立ち止まって見惚れてしまった。
 「何してんのよ。ボケたの?」
 「はい。すみません」
 足を踏み入れた広いリビングの大きな窓からは、広い日本庭園が見えていた。壁にある暖炉を囲むように大きなL字のソファーが置かれていて、その左手にはまだ大きな空間が広がっていた。
 十人ほど座れそうなダイニングテーブルがあって、その上には、二人では食べ切れないと思える数の大皿が、ラップをかけられ並んでいた。奥には広いキッチンがある。俺の部屋の隣はキッチンなのだ。
 「ビールで良い?」
 多分高級ブランドであろう、とても柔らかそうな生地の薄紫色のジャージ上下を美枝子は着ていて、首まで上げていたジッパーを下ろしながら俺に言った。
 「はい。あっ、手伝います」
 「いいよ、お客様は座ってな」
 俺は、小皿と割り箸、コップが裏返して置かれている席に座った。向かいには、割り箸の代わりに赤い塗の箸が置いてあった。
 驚いたことにキッチンにはビールサーバーがあるようで、「何よー、泡ばっか出てくるんだけど」と美枝子は愚痴っていた。
 俺は立ち上がり「大丈夫ですか」と駆け寄った。
 こんなにも細く小さかったのだろうか?綺麗に刈り上げられた真っ白なうなじを見ながら、俺はそう思った。
 振り返った美枝子から視線を逸らすようにして、俺は樽の前にしゃがみ込んだ。ふわふわなスリッパからはみ出ている白い肌に目がいったが、慌てて樽に視線を向かせた。銘柄は俺の好きないつものヤツだ。北海道最後の街で、これを口にしない手はなかった。
 樽を持ち上げ残量をチェックし、サーバーの横に張り付いていた温度計を使い正確に樽の温度を測り、その温度に合わせてガス圧を調節した。
 美枝子は黙ったまんま、俺の動きを傍で見ていた。
 ホースに残っていた泡を出し切ると、ノズルから綺麗な琥珀色が流れ始めた。旨そうなホップの香りが漂った。
 俺は、重量感あるビアグラスに丁寧にビールを注いでいき、最後に良い割合で泡を注ぐ。昔取った杵柄、それがこういう時に生きるとは、不思議なものだと思った。
 「へーっ、上手いもんだね。あっそうか、誠は飲食もやってたんだったね。じゃ、あとはヨロシク」
 軽い感じで美枝子は席に戻った。
 グラス二つを持ってテーブルに向かった。美枝子はジャージの上を脱いでグリーンのTシャツ姿になっていた。Tシャツの下にロンTを着ていたので、肌の白さが余計に青い龍を浮き上がらせている姿は拝めなかった。
 畏まった姿勢のまま乾杯して、喉の乾いていた俺は一気に飲み干した。美枝子は三分の一ぐらい呑んだところでグラスを置いた。
 俺は「失礼します」と言って、自分でお代わりを注ぎに行き、また戻ってくると背筋を伸ばして椅子に座った。
 テーブルの上に並んだ料理は、刺身盛が大量なだけで、あとのザンギや煮物や酢の物は、皿が大きいだけで盛られた量は少なかった。
 流石、金持ちの家のテーブルだと、俺は何故だか思った。
 「何、緊張してんの?リラックスしなよ。もう沢木は死んだんだし、それに、私は沢木とはサヨナラして、笹森美枝子に戻ったの」
 「けど……」
 「けど、何?」
 「わかりました」
 俺が姿勢を崩すと、美枝子は「よし、それでいい」と笑顔になった。
 何を話せばいいのか戸惑う。だから、「美味いですねぇ」と言いながら、俺は刺身盛でいつものの生をグビグビやった。美枝子もそれに釣られたのかグビグビとやった。
 案の定、美枝子は旅の話を聞いてきた。そうくるだろうと思って俺はPCを用意してきたのだ。美枝子も、俺との空白の時間をどう埋めようかと思案していたのだ。
 PCの画面に撮り貯めた写真を映しながら、俺は丁寧に話して聞かせる。
 写真を見ながら美枝子に説明していると、全てが昨日のことのように鮮明に、俺には思い出すことが出来た。
 暗闇に包まれていた敦賀港からスタートした旅は、襟裳岬に近づいて、やっと北海道を走っているのだという確かな手応えを得た。
 十勝平野では果てしない大空と広い大地に包まれて、浦見恭平に親切にしてもらい。釧路にエスケープした時には徐さんと出会った。そして恭平の双子の弟・正平とも出会った。
 道東には異次元の世界が広がっていて、俺は小さなことで悩むことが馬鹿に思えた。無音の続く釧路川下りは、邪まな心を無にしてくれた。
 道北へ向かうオロロンラインの素晴らしさも間違いなかった。道北の島々も、猿払のエサヌカ線も然りだ。
 やはり美枝子には言えないことがたくさんあった。帯広で殺人犯に間違われたことは未だしも、化学兵器テロに託けた仇討を防げなかったことは、思い出すと今でも悔しい思いがぶり返す。だが、仲野の言葉を思い出した。「今回は厳重注意ということにしておきましたよ」という言葉だ。親子水入らずでオホーツクの街で暮らしているのだろうか?と思う。
 それに、二人の女性の過去の清算に一役買ったこと、ましてや、そのうちの一人とはこの函館でイカ釣りをしようと約束していることは、口が裂けても言えなかった。
 やはり、三国峠のダイナミックさは写真には入り切れてはいなかった。
 色んなことが起きたこの旅も、自ら課した全市町村制覇も全道の駅制覇も成し遂げて、あとは天気の良い空の下、大沼や駒ケ岳を走り、函館の夜景を見て青森へと渡るのだ。
 そして、俺は死に向いて走って行く。
 「ねぇ、日本酒にしようか。冷でね」
 無邪気な言葉だった。
 俺は立ち上がり、キッチンにラップをかけて並べられていた十本ほどのお銚子から二本と、猪口が盛られた竹籠を持ってテーブルに戻った。
 当たり前のように、俺の猪口まで美枝子が決める。美枝子の猪口には稲穂が、俺の猪口には蜻蛉が描かれていた。
 竹籠をキッチンに戻しにいくと、美枝子に「お寿司を持ってきて」と言われた。
 ラップがかけてある小振りな桶が二つ重ねられてあった。
 それを持って戻ると、美枝子が二つとも受け取って自分の前に置いた。チラリとラップ越しに見たあと、ラップのかかった上の桶を俺に手渡した。
 「ありがとうございます」と受け取った俺は、何か違うのだろうかとラップ越しに俺の桶と、美枝子の前に置かれた桶を見比べた。
 なるほどな光景だった。
 俺の桶には各種握りが並んでいたが、美枝子の桶には、ウニとイクラとアワビ以外は全部ピンクの大トロで埋め尽くされていた。
 美枝子は大トロが大好きだったのを、俺は思い出していた。
 「さっさとお刺身食べないと乾いちゃうよ」
 そう言うと美枝子は、美味そうに小振りの大トロを口に入れた。
 俺は残った刺身を平らげることに専念する。
 「そうそう、さっきね、ちょっと頼まれごとされちゃってさぁ。誠、ちょっと動いてくれないかしら」
 昔から、美枝子の頼み事は何度も受けてきた。他の組のイカれ頭の姐さん方とは違って、どれ一つ、無茶や無謀な頼み事はなかった。そして頼み事をこなすといつも、「ありがとう」と笑顔で言ってくれた。
 「はい、わかりました」
 聞いてからでも遅くはないのに、俺は言い切ってしまった。

よろしければ、サポートお願い致します。全て創作活動に、大切に使わせていただきます。そのリポートも読んでいただけたらと思っています。