ロング・ロング・ロング・ロード Ⅳ 道南の涙 編 2
空がだだっ広い北海道感を醸し出している風景にも、俺の中にある感動指数の針は振り切れそうにはなく、こんなものか道南は、という感想だけが俺の中に増え続けていく。これなら、函館に上陸して北上すれば良かったのかもしれない、とすら思った。
それはもしかすると、ちゃんと別れを告げることが出来なかったせいかもしれなかった。抱き締めて眠った時の、あの安らぎのようなものを手放すのは、正直惜しかったのだと俺は思う。
観覧車が出迎えてくれた登別市が終わり、現れたクジラがサッカーボールを噴き上げている室蘭市のカントリーサインは、斜面から伸びた夏草に半分埋もれていた。
少し走ると、遠くにこんもりとした蒼の丘が見えた。今までの経験上、これは先っちょが近い印だった。
信号待ちで地図を確認すると、確かに室蘭の街はL字の半島風で、地球岬やトッカリショ岬やイタンキ岬など小さな先っちょがあった。
進んで行くと、何とも好きな異風景が現れた。左の蒼がイタンキ岬で、正面の草の蒼だけの禿山のような丘は何だろう?道はその丘にポカンと開いたトンネルに続いていた。
(本当にここに入って大丈夫なのだろうか?)そんな気にさせる穴だった。
先を走る、少し前までうしろに俺を映していた銀色ピカピカのバラ車も、たまには洗えよと言いたくなるような白より灰色に近い2tトラックも、スピードをそのままにトンネルに吸い込まれていく。
俺も倣って、自然要塞の城門のようなトンネルにアクセルを開けた。
トンネルの暗さの中で、ふと、北竜町の道の駅にあった門を思い出した。そして、丘の右側には平地が開けているのに、何故この丘に態々トンネルを掘ったのだろうか?そんな疑問が何処かに引っ掛かった。
バックミラーに映った丘には木々が鬱蒼と茂っていた。表裏の差に驚いた。人の顔のようだと思った。
国道37号線には折れずに真っ直ぐ進む。
高架道路の上から見えた周りの山にも、木々が青々と茂っている。何故、あそこだけ?と、また軽い疑問が生まれた。
防音壁に囲まれた道を進み、やっと視界が開けると、鋸屋根の大きな工場と煙突が目に飛び込んできた。そこからは線路と工場に挟まれた中を行く。
室蘭の街は住宅と工場と自然が密着した、まるでゲームの中に作られた街のようだった。
俺は取り敢えず、室蘭駅を目指した。
人気のまったくない駅の広場で荷を解き、PCを取り出して今夜の宿を探した。けれど、空きのある宿は東室蘭にしかなかった。今夜行きたい店はこの近くにあるのだ、今更戻るのは御免だった。
中に観光案内所でもあるかと思い、近代的で小さな駅舎に足を踏み入れた。
舎内にも人気はなかった。ガランとした中を改札に向かい、駅員に観光案内所はないかと尋ねたが、ここから600メートルほど行ったところに移築された旧室蘭駅舎に観光案内所はあると教えてくれた。今時、列車で室蘭まで観光にやってくる人も少ないのだろうと俺は思った。
しようがないのでそこまで行くかと気を重くしながら出口に向かおうとした時、ふと目をやった売店の陳列棚に『母恋めし』があるのを発見した。母恋でなくても売っていることにも感動した。
北寄貝の貝殻に入った北寄貝の炊き込みご飯のおにぎりと、燻製玉子にスモークチーズと漬物、そして何故だか薄荷飴が入っているという代物だ。
何処で知ったのかは憶えていないが、これも俺の旅の目的の一つであった。ここへ来る途中で母恋の文字を見つけたのだが、その時はすっかり頭の中から抜け落ちていた。少し大仰に言うと、運命という巡り合わせというものが、俺にこのピンクの包みを引き合わせてくれたのだ。
勢いついでで売店のおねえさんに今夜の宿のことを相談してみた。すると、丁寧に何軒かホテルを教えてくれた。そして「空いていないかも?」と言い、「ダメだったら、観光協会の方へ行ってみて下さい」と付け加えた。
俺は彼女に謝辞を述べた。
相棒のセルを回してアイドリングを調整しながら、教えてもらった数軒の中から直感で、ノックスビル通りの終わりにあるホテルへ向かった。
当たりだった。一部屋だけ空きがあった。
直ぐにチェックインをし、部屋で荷物をセッティングした。ピンクの包みを見ながら、やっぱり母恋めしだけでは今夜の晩餐が貧弱に思えた。
室蘭といえば焼鳥だ。入れない時はカレーランにすればいい。どちらにしろ、初めての室蘭の夜は部屋に戻って母恋めしで〆呑みだ。
目的だった『鳥辰』には意外とスムーズに入れた。一人だったのが幸いだった。
まるごと冷やしトマトサラダで先ず中ジョッキを一杯いって、高清水と男山でザンギと焼鳥という名の豚を、腹八分目まで食した。
旨い。旨いのだ。素材の良さがガツンと味蕾を刺激する。〆の鮭茶漬けまで堪能したかったのだが、ホテルに残してきた母恋めしを思いながら店をあとにして、ホテル近くのコンビニでニセコの酒を買って帰った。
ピンクの紙風呂敷を解いた。“ああ いとしの 母恋めしさん”と書かれた紙があった。勿体ぶってやがった。厳重な包装は昨今を鑑みると安心感があったが、酔っている俺には面倒臭さが先にたった。
けれども旨かった。スモークチーズも何とも言えない良さがあった。ホッキの炊き込みおにぎりの味にマッチしていた。
喰いながら、彩香の姿が頭の片隅に浮かんだ。俺はそれを打ち消しながらPCで天気予報を見た。明日は内浦湾の西側、北海道の持つところ辺りの日本海側が雨予報だった。夜にはこの辺りも雨になるという。明後日の雨を何処でやり過ごそうかと考えた。
来る途中で心惹かれた登別を検索した。昨日一昨日と、年甲斐もなく頑張ったのだ。温泉で身体を休めることに決めた。
母恋めしは酒と一緒にあっという間に消えていった。
荷物は夕方までロビーで預かって貰えることになった。とてもありがたかった。
雲が多い空の下、まだ動き出したばかりの街には、色んな匂いが流れていた。
中央東線・道道919号線で地球岬を目指した。狭い山道も、荷を積んでいない状態なら楽勝だった。
展望台は淋し気が漂っていた。売店らしきものも開いている様子がなかった。
地球岬からは文字通り、まぁるい水平線が綺麗に見えたが、如何せん空模様が残念だった。空さえ良ければ、もっと感動出来ただろうと思う。
戻り際、“地名由来板”が立てられていた。地球岬はアイヌ語で「ピリカ・ノカ」というらしい。ピリカは美しいで、ノカが形。釧路の『ピリカヌタイ』を思い出し、恭平と正平の浦見一卵性兄弟の顔が思い浮かんだ。
そして、このL字の半島は絵鞆半島ということを初めて知った。
道道919号線を進み、金屏風を見て、トッカリショで異風景に心が躍った。送電線と鉄塔が邪魔だった。
そのまま進んで行くと、多くの場所で室蘭の街が見渡せた。斜面にまで家が連なって建っていた。なかなか大きな街なのだと知った。けれど、俺の頭の中では、ゲームのような街という言葉が張り付いて離れなかった。
昨日走った国道36号線を通って戻り、今度は道道844号線を走った。測量山の展望台へ向かったのだが、工事中らしく道は閉ざされていた。仕方がないのでそのまま進んだ。
マスイチ展望台から追直漁港辺りを眺め、ここにもあったローソク岩を見て、ハルカラモイでU字に窪んだ谷を眺め、銀屏風を見て、半島の名前がついている絵鞆岬で、少し青空が見える空と海しかない風景を眺めた。
そこを出ると、白鳥大橋が日差しに照らされて輝いて見えた。
祝津公園展望台に行って、輝いて見えていた白鳥大橋を時間潰しに眺めた。
開いたばかりの道の駅・みたら室蘭でスタンプを押して、しまなみ海道に架かる橋のような白鳥大橋を渡った。
国道37号線に乗り、伊達の兜が描かれたカントリーサインに出逢い、交通量の多い道を、車の流れに乗って道の駅・だて歴史の杜へと向かった。
伊達の街も結構な賑わいがあったが、道の駅・だて歴史の杜もおばさま達でごった返していた。
直ぐにスタンプを押して、朝飯代わりにハンサム焼の餡子とクリーム、それとハンサムソフトクリームを食った。
落ち着けなかったので直ぐに出て先に進んだ。
国道453号線を右折して洞爺湖を目指した。
暫く走ると、道央自動車道の日本一長い高速の高架橋が現れた。なんとも長い高架橋で、思わず何枚かカメラに収め、俺の心に走ってみたい気持ちが芽吹いてしまった。
壮瞥町のカントリーサインに出逢ったあと、昭和新山が綺麗に姿を見せていて、なんともそそられたのだがグッと我慢して、真っ直ぐ道の駅・そうべつ情報館iへ向かった。
スタンプ押すと少し道を戻って道道2号線に右折した。エッって思うほど直ぐに洞爺湖の湖面が姿を見せた。
いきなりの洞爺湖の上には、気持ちの良い青がいて白が浮かんでいる。
俺は湖畔の道道132号線へ右折した。
湖畔の木々の隙間から湖らしきものが。開けた所では湖面に浮かぶ中島が綺麗に見えた。だが、全部を見ながら走れれば、もっと気持ちが良いだろうと思った。木々で湖面が見えないところで洞爺湖町のカントリーサインと出逢った。
湖畔を半周し道道578号線に名前が変わるところで、札幌・函館と標識が示していた道道66へ登って行った。
国道230号線に出ると左折し道の駅・とうや湖を目指す。
何と可愛い道の駅だと思いながらスタンプを押した。スタンプブックをよく見ると、ここはまだ道央エリアだと区別されてあった。
まだ道央なのだ。何故だか感慨深かった。でもどうして俺は、この辺りが道南だと勘違いしていたのだろうか?
そんなことを思いながら、ゆっくりと展望台へ向かった。
展望台からの洞爺湖は、木々が生い茂っていて全貌は見えなかった。直ぐに諦めて引き返した。行きはまったく気がつかなかったが、目の前には今日も顔を隠した羊蹄山が綺麗にボディラインを見せていた。
相棒に火を入れて、サイロ展望台へ向かった。ここは海外からの観光客で賑わていて、展望台から洞爺湖の姿が綺麗に見渡せた。
すぐさま来た道を引き返し道道578号線へ向かう。やはり羊蹄山は俺に惚れているみたいだった。
道道578号線は湖岸ギリギリに走るところもあって、琵琶湖の海津大崎や京都の久美浜の画が頭に過った。 道的には、国道477号線の京都府亀岡市の三俣交差点から三俣川沿いに走る細くくねった道のようで、途中、対向車も数台行き違い走行に注意がいった。荷物を預かってもらえるのはありがたいことだと再認識した。
ほぼ一周回って洞爺湖温泉街も流して、充分に洞爺湖を堪能したので室蘭に戻ってカレーラーメンを食べようと考えた。
長いトンネルが二つもある国道230号線を走り、国道37号線を右折して道の駅・とようらへ向かった。カントリーサイン収集とスタンプ集めのためだ。
豊浦町の名産は苺らしかった。だからカントリーサインに、海岸線をバックに二粒の苺が描かれていたのかと納得した。
とんぼ返りして道の駅・あぷたへ向かった。これで明後日の行程が楽になった。空模様次第では、黒松内まで道央道を飛ばせばいいのだ。
あれ?何処まで道央道は続いているのだろうか?やはり俺の認識は間違っていたのだろうか?
スタンプを押したあと、うに丼が五十円引きの文字を見つけてしまった。腹が空き過ぎていたので誘惑に負けた。ここのうに丼も、何処かのうに丼のようにセパレートタイプだった。これは丼ではなく、うに定食だ。変な気分のままうに丼という名の定食を平らげた。何処かの有名店よりもうにの量は多かった。それでも、満腹にするには、あと二杯ほど食べなければいけない量だった。やはりオロロンラインや稚内で食った雲丹が懐かしかった。
食い終えると俺は、国道37号線をまた引き返した。どうしてもあの高架橋を渡りたくなったのだ。地図には日本一長い高速道路高架橋で、1770メートルもある長流川橋。おさるがわという、何とも北海道らしい名前が書かれてあった。
道道578号線を右折。虻田洞爺湖ICから道央自動車道へ乗った。腹の減りも一応治まっていたので、伊達ICで降りてあとは国道37号線を戻ることにした。
高速は貸し切り状態だった。下から首が痛くなるほど見上げたあの長い高架橋を、法定速度でじっくりと、ウキウキワクワクしながら堪能する。馬鹿な俺は時々、ステップの上に立ち上がって周りの景色を眺めた。高いところから見下ろすのはとても気持ちが良かった。
気持ち良く渡り終えられそうだと思っていると、いつの間にか近づいてきていた黒いRVの外車が、俺の直ぐうしろにピタリとついた。
ミラーで確認したが、どんな奴が運転しているのかはわからなかった。少しイラっときた俺は、アクセルを回す右手を放しうしろを向いて、その手で中指を立てた。外国人でもわかるようにだ。降りかかる火の粉は自分で振り払うのが俺の流儀だ。そこは変らない。
アクセルが戻った相棒は、急激に速度を落とした。すると黒いRVの外車は、そんなに下がらなくてもというぐらいに車間距離を開けた。きっと、自分よりもヤバイ奴に出会ってしまったと、少しだけ後悔したのだろう。
二車線になってのんびり走っていても、その黒いRVの外車は俺の右を抜いて行くことはなく、ずっと距離を開けて俺のうしろを走っているのが、ミラーの中にチラチラと映った。
伊達からは、車が連なった交通量の多い国道37号線で室蘭まで走った。途中、ネズミ捕りをしていたが、車が多くて飛ばせるはずもなかった。パイプ椅子に座った計測係の警官も、暇過ぎて欠伸を噛み殺していた。
ホテルで預かってもらっていた荷物を積み込んで、『味の大王 室蘭本店』へ向かった。さっき食べたうに丼は何処かに消えてしまったようだった。
初カレーラーメンはカレーだった。汗を噴き出しながら完食した。思っていた以上に旨かった。夏でも旨いが、雪積もる冬ならもっと旨いのだろうと想像出来た。
汗が引くまで店の前の相棒に跨ったまま、地図を開いて宿までの道をもう一度考えた。道道2号線を上がっていくのが良いようだった。
道道2号線は洞爺湖温泉街が終わる国道230号線まで続いていた。あの道を辿れば、今夜の宿まで行けたのだなぁと指先で確認した。
やっと汗が引いたので、満腹の俺は相棒を走らせた。
裏から見ると普通のトンネルに見えた国道36号線の自然要塞の城門も、バックミラーで見ると、やはり異世界感が満載だった。
線路沿いの道を走っていると、登別温泉にあったであろう旅館の消えかけの古い看板を見つけた。
ガキの頃、隣の家でいれてもらった風呂の湯が真っ白で、俺が洗い場で入るのを躊躇していると、「登別の湯やでぇ。はよ入りやぁ。温まるでぇ」と言ったおばちゃんの言葉がずっと頭の片隅にあったんだ。それ以来、街で店の棚に温泉の元を見つけると、どうしても登別の湯を探してしまっている俺がいた。ババン・バ・バンバン・バンだ。
そんな昔のことを、海沿いの道が終わるまで思い返していた。
道道2号線へ折れる交差点を通り越し、その先にあるガソリンスタンドで相棒に食事を飲ませた。
Uターンする場所を求めて次の信号の右折レーンに入った。ついでに昨日迎えてくれた観覧車と相棒の記念撮影をしようと右折した。
空の色も、雲の量も、形も、相棒の赤いタンクも、申し分なかった。
道道2号線を上がっていく。舗装状態が道道にしては格段に良かった。洞爺湖温泉・カルルス温泉と書かれている道道2号線は左折し、登別温泉は真っ直ぐに道道350号線を進む。
もう空には青がなかった。
温泉街に入って今夜の宿を確かめた。なかなか立派なホテルだった。それを通り越して温泉街をゆっくりと流した。途中にあったコンビニで寝酒をタンクバッグに入るだけ買った。
チェックインして荷物をセッティングすると、俺は直ぐに温泉に向かった。
壁際に張り付いている洗い場で身体を丁寧に洗って、先ずは真ん中にドンと広がっている丸い湯船で身体を温めた。それからグルッと周りに掘られた温度や源泉の違う色違いの湯船に順番に浸かった。ここの内風呂はローマ風なのだ。やっぱり俺は白色が一番心に響いた。
ひと通り浸かり終えてから、檜風呂の露天へ向かった。
空はまだ暗くなる時間でもないのに暗かった。
露天には父親と兄弟の親子連れと、老人と呼ぶにはまだ元気そうな二人が並んで入っていた。
元気にはしゃいでいる兄弟を必死に注意している親子の横を通って、俺は二人が並んでいる近くに身体を沈めた。思わず「あーっ、気持ちええなぁ」と声が出てしまった。
「関西から、お一人ですか?」
すかさず一人が話し掛けてきた。これも何かの縁だと捉えて俺は返事をした。
「はい。バイクで北海道中を走っています」
俺も随分と人間らしくなったものだ。そう自賛した。
「へーっ。私はね、埼玉から夫婦旅行です。新婚旅行もここの登別温泉だったんですけどね。随分様変わりしてますねぇ。で、こちらの方は函館からお一人で。お兄さんと一緒だね」
二人組だと思っていたもう一人が、迷惑を隠さずに愛想笑いを浮かべて会釈した。俺は満面の笑みを浮かべて会釈を返した。男が細めた奥の目ん玉には、何か違う次元のものがあるのに気がついた。
「それでお兄さんは、何処を周って来たの?」
「十勝行って、道東周って、オロロンラインで道北に行って、あっ、道南以外全部です」
「ええーっ」
ここは他人の二人の声が揃った。
「なぁんヵ月いるのよぉ?」
訛り言葉で、函館の男が驚いたように目を見開いて言った。
「五月の終わりから……二ヵ月とちょっとですね」
「テントで泊ってるの?」
夫婦旅行の年寄りが言う。
「いいえ、これがあってテントはちょっと……」
俺は胸の正中切開の痕を指差した。
「はぁーっ」
これも二人揃った。
「何をしたの?」
「ああ、大動脈解離ですわ」
「まだおお兄さん若いんでしょ?」
「それでもねぇ……」
埼玉の男はまだしも、函館の男は、何でこうなったかを正直に話せるような相手ではなかった。
そんなこんなの会話をしていると、埼玉の男が、明日、夫婦で向かうという富良野・美瑛から十勝で何処が良いかを尋ねてきた。
俺は詳しく行程を訊いた。思ったとおり、明日の朝、ホテルで朝食を食ってから登別を出発して、高速を飛ばして富良野へ行って、有名なドラマのセットが残る麓郷へ行って、中富良野でラベンダー畑を見て、美瑛の丘を堪能して、十勝にある温泉に泊まるのだと言った。
「無茶だよ。どんだけ距離があると思ってんのさ」
俺が言う前に、縁に座って身体を冷ましていた函館の男が言った。年の割にはガッチリとした身体だった。
「そうですよねぇ。でも、かみさんが言うもんで……」
そう情けなさそうに埼玉の男は笑った。どうも、無謀な計画は重々承知だったようだ。
「食事の時に、奥さんに話してみたらどうですか?地元の方からアドバイスを貰ったって」
俺が助け舟を出した。
「そうしてみます。かみさんが予定立てたんですけどね、またいつ来れるかわからないんだからって言うもので。あっ、そろそろ私はお先に……」
そう言って埼玉の男は露天風呂から出ていった。いつの間にか親子もいなくなっていた。残されたのは俺と函館の男だけだ。
「まったく、これだから内地の人間は」
函館の男がそう言って縁から腰を上げて湯に浸かった。代わりに俺が立ち上がった。
「そうですよね。俺も旅の準備をするまで、ここまで街と街の間が離れているとは思いませんでした」
俺は言い終わったあと、ずっと後頭部側にあった外の景色に、流れがあるはずのクスリセンベツ川を探した。
「その傷……」
函館の男のその言葉で、暖まって傷が赤らんでいて目立つのだと理解した。失敗したと俺は目を瞑った。余りにも湯が気持ち良くて、すっかり函館の男の笑った目の奥を忘れていた。
俺は、男が胸の傷のことを指しているのだと、自分に勘違いさせてから振り向いて、「はい、これですか?」と惚けながら縁に腰を下ろした。
「いや、背中の……」
そう言葉を吐いた男の目は、笑ってはいなかった。
「それ、貫通射創っしょ」
俺は言葉にせずニヤケ面で返した。
「あんた何してる人?」
まるで疑うことしか知らない人間の目付きだった。
「旅人です」
「それはわかってる」
「いや、ホンマです」
「ああん?からかってるの?」
「いや、からかってどうするんですか。ホンマに旅人なんです」
「だから、職業を訊いてるの。普通の人間が腰道具で弾かれたりせんでしょうが」
「いや、ホンマに旅人なんですわ。もしかしてお兄さん、警察の人ですか?」
俺がそう言うと、函館の男の目から急に力が失せた。
「もう随分前に退官しとる。……すまん。昔の癖がなかなか抜けんのさ。そろそろ、俺も出るわ。すまんかったな。気をつけて旅してな」
函館の男は露天風呂から姿を消した。俺は初めて、肩を落として歩く人を見たのだと思った。折角、函館のお勧めを尋ねようと思っていたのに残念だ。
俺は湯上りに温泉街を散策した。浴衣姿の人もチラホラ歩いている。
取り敢えず極楽通りを坂の上まで行って、サツドラの前でUターンして、昼間スルーした焔魔堂で閻魔が声を出すのを待った。顔まで変わるのには少しだけ「やるなぁ」と思った。
あとは何処の店にも入らずに、タクシー屋とバスターミナルの間の寂しくなった道を曲がった。
部屋で一休みして、晩飯の時間になってビュッフェに向かった。
大きなホールにウジャウジャと人が蠢いていた。
こんな時の一人は落ち着かない。俺は、さっさと食って部屋でゆっくりと飲もうと思った。
生ビールが届いてサラダ尽くしでやっていると、急に肩を叩かれた。そこには赤ら顔で浴衣姿の函館の男がいた。
「獅子王さん、津田がお世話になったようで、ありがとうございます」
そこで繋がったかと、俺は辟易した。
「では、ごゆっくり」
気分が良さそうな感じで函館の男は去っていった。
妙な感じのまま食べ始め、海鮮系を終えたところで気分も変わり、最後の肉を噛み締めて、デザートをどうするか考えていたところで、俺を見つけなくてもいいのに浴衣姿の埼玉夫婦がやって来た。
「さっきはどうも。妻のヤスエです」
「あっ、どうも」
「さっきもね、こいつと話していたんですが、もう少し詳しくかみさんに教えてもらえませんか?」
図々しく埼玉の男が言った。俺の登別の一夜目は、面倒なことになってしまったようだ。
デザートとコーヒーで〆て、俺は部屋に戻り、晩酌用の酒とツマミとひしゃげた紙コップ、それとPCと地図をドライバッグに入れて、上階にある埼玉夫婦の部屋に向かった。
俺の部屋とは違う広々とした作りの部屋だった。
ソファースペースに通されて、俺がビニール袋に入った晩酌セットを広げると、埼玉のヤスエは「まぁ、そんなにお飲みになるんですか?」と言った。流石に「そうやけど何か?」とは返せなかった。
先ずは地図を開いてヤスエから何処と何処へ行きたいのかを詳しく訊いた。それからPCの東京都との比較地図を見せて、それがどれだけ無謀な行程かを説いてみた。
たった二ヵ月チョイだが、使い古された地図と俺の経験談を聞いたヤスエは、自分が立てた計画が無謀だったことを理解した様子だった。
その上で、俺はPCの画面に明日の天気予報を出して見せた。明日、道北以外は雨で、明後日は道東以外、曇りか晴れの予報だった。そして、内浦湾全域が曇りの予報が並んでいるのが俺には凄く気になった。
ヤスエは呑気に「あらっ、新婚旅行と一緒ね」と言って笑った。
埼玉の男・ハイダモイチが言った。「そうだね。あの時も一日目の函館は晴れて、二日目の札幌は雨。それで最後の日は、また晴れたんだったね」と。
そして二人は顔を見合わせて笑った。俺は、お前達が雨を呼んだのだろうと思うぐらいの仲の良さだった。
「それで、どうしますか?明日の宿は、もう押さえてあるんですよね?」
「そうなのよ。お肌にいいって聞いて、十勝のモール温泉に」
ハイダ夫妻が予約している宿は俺が泊まった宿ではなかったが、同じ十勝川温泉のモール泉の温泉宿だった。
雨の中、ヤスエが希望する場所で、俺がお勧め出来る場所は思い浮かばなかった。何たって俺は、雨の中を無理して走ることがなかったのだ。
雨が降る白い紗に包まれた、美瑛の丘も富良野の花畑も、広大な十勝の雄姿も、俺の見た晴天の下の景色には及ばない気がした。
それでも、二人が一番希望しているのが、六郷にあるドラマのロケセットだとわかった。
俺は素早くそれを検索した。何ヵ所かあるようだ。それらをPCのマップに印をつけ移動時間を出して、それぞれの平均見学時間などの資料を提示した。
ヤスエもモイチも食い入るように見て、ああだこうだと楽しそうに話し合っていた。
最後に俺は、明後日の曇り時々晴れの旭川・旭山動物園を止めて、中富良野の花畑と美瑛の丘に行けばいいと提案した。
笑顔だらけになったハイダ夫妻は、態々、俺をエレベーターまで見送ってくれた。
扉が閉まり一人になって、いったい俺は一銭にもならないのに何をやっているのだろう?という疑問が風船のように急速で膨らんだ。けれど、二人のウキウキした姿を思い出すと、俺もこの旅で、多くの人達に優しくされたのだから。そう思った。
部屋に戻ってビニール袋に残っていた開いていないウィスキーとひしゃげた紙コップ、そして食べかけの干し貝柱の袋を取り出した。
ウィスキーを開けてひしゃげた紙コップに少し注いだ。
チビチビやりながら“俺がもし結婚していたら”などと戯けたことを頭に浮かべた。覚えている過去の女が色々と登場し、彩香が浮かんで、最後に美枝子が浮かんだ。何故だか伽奈は浮かばなかった。
微かに紙の香りと味がするウィスキーを飲み干してベッドに寝転ぶと、俺はいつの間にか眠っていた。
よろしければ、サポートお願い致します。全て創作活動に、大切に使わせていただきます。そのリポートも読んでいただけたらと思っています。