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ロング・ロング・ロング・ロード Ⅲ 道北の蒼 道央の碧 編  エピローグ

 広く青い空と綿のように浮かんだ白い雲がいて、時折吹く丁度いい風が日差しの熱さを和らげる。目一杯に開いた黄色は東の空を向き、風に揺れる葉は蒼々としている。
 こんなにも心躍らない向日葵畑は初めてだった。

 喧騒にまみれている空港を出たところでうしろから呼びかけられた。声から道上だと直ぐにわかった。俺は無視して歩みを速めた。雨が降ったのかアスファルトには、水溜りが幾つも出現していた。
 「すみません。止められませんでした」
 走ってきた道上は、俺の前に立つなりそう言って深く頭を下げた。
 「ちゃんと止めたやないか、三宅雅和を」
 「でも……」
 「袋には入ってたんか?」
 「はい。中には手入れが行き届いて小さくなった出刃包丁が入っていました。なんでも弟からのプレゼントだと言っていました」
 「三宅和幸からの……」
 「そのようです。でも、あの男は止められなかった」
 「木村勇作か」
 「どうしてそれを?」
 「偶然や。偶然。今日ここに来たのも偶然や。何か知らんけど、厄介が降りかかりよる。それより、こんなとこで遊んでんと、現場に戻らなあかんやろ?」
 「いえ、四人共確保して本部に送ったので、私は帰って報告書の作成です」
 「そうか。で、J-Rowanの方は?」
 「えっ、そんなことまで知っているんですか。やっぱり怖いなぁ、獅子王さんって」
 「で?」
 「そちらも全員、確保しました」
 「撹拌機とⅠ液は?どっちも無事に押収出来たんか?」
 「ホントに何者なんですか、あなたは?」
 道上は周りに人がいないことを確かめた。
 「Ⅰ液と撹拌機はまだ発見されていません。丘崎の持っていたⅡ液は押収出来ましたので、これで一応、多くの人が死ぬことは遠のきました」
 道上の正義はそうなのだと確信出来た。やはり公安向きの正義なのだ。
 「そうか。でもそのⅡ液は、真っ赤な偽物かもしれんで」
 「えっ」
 「いや、はなっから丘崎を殺すために仕組んだんかもしれん。そう思っただけや。忘れてくれ。ほな」
 俺は道上をそのままに相棒を停めている駐車場に向かった。すると、まだ何か用でもあるのか道上がまた追いかけてきた。
 「獅子王さん、仲野室長からの伝言です。この件は他言無用。もう忘れて下さい。今回の事件が大きく報道されることはありませんが、キッチリとケツを拭かせて頂きます。と仰っていました」
 仲野は、俺が去り際に言った言葉を引用していた。
 ――自分のケツは自分で拭くもんや――
 紳士面した仲野の口から直に聞きたかった。そう思った。
 国道36号線をのんびりスピードで流した。この前逆向きで通った時には、寄り道して工場出来立てのビールを飲みたいと思った曲がり道も、今日はそっちに気持ちが引っ張られることは一切なかった。
 道道790号線に左折して信号のない道を進んだ。
 相棒を走らせながら、丘崎殺害の計画はどういったものだったのかを考えずにはいられなかった。
 だが、なかなか整理立てて考えることも出来なかった。久し振りに俺の目の前で人が殺されたのだ。僅かに興奮している自分がいるのだ。俺を撃った浅井は、刑事に撃たれても俺を撃った喜びの笑みは、苦しみへと変わることはなかった。それより以前の、古い記憶が蘇った。
 何年経っても、弟を殺されたことへの怒りは消えてなくなりはしなかった。濁った感情を心の奥底深くに沈め隠したまま三宅は、周りの皆を愛し、また逆に愛されて、日々日常をずっと生きていた。今回の結末は、その根本がなければ成しえることが出来なかった現実だった。
 ロシアでの抑留を経験した七人は、本当の家族のような関係だったのではないだろうか。もしかすると、それ以上の絆が形成された。そして里中昭夫、木村勇三の二人が死に、残された五人はより一層、その絆が深まっていったのだ。篠原三郎、木村勇作、本宮直樹……。岡田清は、本当に里中の葬儀の時に、皆から金を借り捲ってガラをかわしたのだろうか?もし、それが偽装で、今回の計画の一端だったとしたら……。嫌な気分になる。
 今さら俺が知りようのない疑問が一つ、ポトリと頭の隅に着床した。
 二段構えになったのは、紋別空港での仲野の接触で、俺との約束を破ることとなった船本が、三宅に告白したからなのだろう。いや、もしかすると仲野自身が船本にけしかけたのかもしれない。俺が会ったあの時点での三宅は、丘崎が弟・和幸殺害の犯人だとは、露も知らない様子だった。それに三宅と本宮が、急な計画への合流だったことは、三宅に付き添っていた本宮が、道上に制されて浮かべた安堵の表情が物語っていた。
 では篠原と木村は、はなから丘崎を殺害するつもりで近づいたのだろうか?そこを知るには、俺の知らない何かがまだあるような気がする。
 また一つ、俺の頭の隅にポトリと着床した。
 俺は堪らず歩道に相棒を乗り上げて、大阪府警の時任に電話した。
 着信音が鳴る中、丘崎が殺されたことを話そうか話すまいか決めかねていたが、あとでわかって時任から馬鹿デカい声でボロカス言われるのも酌なので、素直に話すことにした。そして、丘崎の周りに岡田清という男がいないか調べてくれるよう頼んだ。最初、驚いた様子の時任だったが、二つ返事で引き受けた。時任の中でも興味深い問題だと思ったのだろう。
 楽しかったはずの北の大地を巡る旅も、今は何とも言えない気分に吸着されて、つまらない先行きになるのではないかと、俺は少しばかり危惧した。
 結局、最後の札幌の夜は、ホテルの部屋で過ごすことになった。外に出るには気力が足らなかった。

 こんなに咲き誇った向日葵が、手向けの花のように思えてしまう。嫌な気分だった。
 向日葵を見ている俺以外の人々は、昨日、千歳空港で起きた殺人事件を知っていたとしても、その裏側までは知らない。普通、人は、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、肌に触れられるものの情報だけを素直に受け入れて、その日その日を精一杯に生きている。さぞやこの黄色が広がる風景は圧巻だろう、空の青と雲の白の下で黄色が輝き、さぞ美しいと心が震えていることだろう。けれど昨日、日常の裏にあった日本という国の危機を乗り越えたのだ。俺の予想とは違いⅡ液は本物だった。早朝、道上が態々電話をくれた。あのまま丘崎が持ち去り、何処かへ消えていたらと思うとゾッとする。何処かで必ず何かが起こっただろう。
 今は素直には楽しめなかった。だから俺は、切り取った風景をカメラに収めるだけ収めた。少し時間が経てば画面の中の向日葵畑も、この旅の楽しさの象徴となっているかもしれない。そう微かな希望を込めたんだ。
 こんな時は何かスタンスを変えればいいと思って、帰りがけに向日葵畑協力金募集中の看板を挙げているテントに立ち寄り、協力金を払って見返りのガラガラを回した。赤玉がポトンと皿の上に落ちた。特賞の北竜町のお米「ひまわりライス」が当たった。けれども、これ以上相棒に積んで走るわけにはいかない。俺は、持っていけないからと辞退した。すると、テントの中のおじさんが、「無料で送ってやるから。住所書いて」そう言った。俺は東京の徳永の住所と名前を書いて、そこに送ってもらうことにした。俺は、青を一枚、協力金としてもう一度納めた。
 旭川のぎんねこの狭いカウンターに座り、チャップ焼きで鳩燗のぬる燗をやっている時に、時任から間の悪い電話があった。やっと今までどおり俺の旅を続けられるかなと、半分ほど思っていたところだったのに、肉と酒が冷めるのを気にしながら店を出て、トラッキーのテーマをキリの良い所で切った。
 ――おい、岡田おったぞ――
 「おったか」
 ――おお、おった。けど、もう、ガラ躱しとったわ――
 「なんやそれ」
 岡田清は名前を変えることなく、二年前から恒星会の幹部・伊藤が経営している観葉植物のレンタル会社に勤めていた。時任は、岡田が住む京都市右京区嵯峨野のアパートに向かった。だが昨日の夕方、マンションの向かいに住む主婦の話では、黒いワンボックスカーに自ら乗り込んで何処かへ行ったそうだ。そのあとは行方知れずだという。
 ――もうこうなったら、お前も事件のこと忘れぇ。俺もさっき、雲の上の人に呼ばれてな、『関わるな。忘れろ』そう言われたわ。俺は、まだここ辞める訳にもいかんからのう。ほな、気ぃつけて旅せえや。――
 時任は一方的に電話を切った。
 席に戻ると、肉は冷め、酒も冷めていた。やはり岡田は、トンズラではなかった。岡田は、三宅和幸を殺した奴らを調べるために京都へ移り住んだのだ。
 冷たくなったチャップ焼きを平らげ、グッと酒の残りを喉に流し込んで勘定を済ませた。今日は新子焼きを食べていなかった。明日の晩、また来ればいいかと思った。

 昨日とは打って変わって、空は重い灰色に包まれていた。
 国道39号線を環状1号線で右折して、永山で2丁目・3番線道路線に出ると、北海道らしい風景が重い灰色に押しつぶされそうな中を進んで行く。
 突き当りまでの直線路を、何も考えることなく相棒を走らせた。
 一旦停止した時に、今日はカッパを着る羽目になるのではないかと思った。
 左折して右折して、また直線路を行く。道はそのうち森へと入り、丘を登った。追いついてしまったダンプのうしろについて左折して、道道140号線へ出て左折、愛別ICから上川層雲峡ICまで旭川紋別道に乗った。
 国道へ下りた交差点にあるコンビニでツナサラダのサンドウィッチとホットコーヒーで朝飯を済ませ、直ぐに相棒を走らせた。
 この世に俺一人しかいない。そう思わせた国道273号線・国道333号線との分岐をやり過ごし、国道39号線を進んだ。
 切り立った崖に挟まれた層雲峡辺りは気持ちが良かった。
 長いトンネルと短いトンネルを抜けると、直進は北見・留萌、右折は国道273号線、帯広・ぬかびら温泉郷の標識が現れた。右折した先には思い焦がれている三国峠があるのだ。
 待っていろ三国峠と直進する。
 留辺蘂で国道242号線へ右折する時に、このまま行けば伽奈の住む北見なのだなぁと思いながら曲がった。
 相変わらず空は灰色だった。トンネルで何ヵ所か空が見えなかったが、かなり巨大な雲に覆われているのだと感じた。
 道道50号線で左折して、残っていた置戸町と訓子府町のカントリーサインをカメラに収めた。
 これで残りは道南だけだ。俺の北海道の旅も四分の三終わった。
 留辺蘂に戻って相棒に飯を飲ませた。俺はまだ食欲が湧いてこなかった。
 来た道を戻り、再び、待っていろ三国峠と直進する。層雲峡温泉が少し気になった。
 温泉街の外れのコンビニに寄ってホットコーヒーを飲んだ。このコンビには有名なアスリートの実家が経営しているらしく、大きなパネルが飾ってあった。
 旭川に帰り着いたのは十三時を過ぎた頃だった。腹が減っていた。
 食ってみたいと思いながら、休みだったり営業時間外だったり、彩香がいたりで食べられなかった『花ちゃん』でゲソ丼を食った。
 山盛りのゲソ天がのった丼なのだが、甘じょっぱいタレがかかっていて、なかなか美味だった。
 ホテルに戻ってPCで天気予報を見た。明日、朝のうちは晴れて、昼前から雲がかかり、午後には雨になる。雨は明後日の昼まで残り、その後は三日間晴れ予報だった。
 頭に浮かんだのは、層雲峡温泉で疲れをとることだった。そして、そこなら明後日の午後、晴れたら三国峠を走れるかもしれない。そんな思いだった。
 直ぐに調べて温泉旅館を二泊予約した。思っていたよりも料金が安かった。
 シャワーを浴びてから呑みに出掛けた。
 宮下通から平和通買物公園に入り、彩香と歩いた記憶が蘇った。あの柔らかく小さな手が懐かしく思えた。
 一条通を越えたところで呼び止められた。会社の制服姿の伽奈だった。手には和菓子屋の名前が入った紙袋を下げていた。直ぐに昨日の三宅の姿が脳裏に浮かんだ。
 「誠さん、この前はありがとうございました」
 「ん?ああ。解決出来た?」
 「えっ、彩香ちゃんから聞いていないんですか?」
 「う、うん」
 「そうなんですか……。ちゃんと謝って、許しの言葉はもらえました。誠さんのお陰です」
 「いやいや、俺は何もしてないよ。でも良かった、許してもらえて。これで先に進めるね」
 伽奈はそれには答えず躊躇いがちに笑い、そのあと時間がないのか腕時計を気にし、言葉のスピードを速めた。
 「いつまで旭川に?」
 「今夜まで」
 「明日は何処へ行くんですか?」
 「明日明後日と層雲峡温泉に宿を取った。明日昼から雨でしょ、だから」
 「そうですか。あっ、私、これクライアントに届けないと、また連絡します。すみません」
 そう言うと伽奈は走って行ってしまった。
 なんだか、あっという間だった。
 札幌駅で見たやつれ顔は消え、儚げの美人から少し陰のある美人に戻っていた。
 新子焼きでビールをやって、焼鳥とチャップ焼きで男山をいった。
 隣に座った札幌から来たという二人組の女性客と旅の話で盛り上がり、片方の女性から、せたな町にある『わっかけ岩』という店のうに丼が美味しいと教えてもらった。そして会話は他のお客さん達にも広がっていった。
 楽しかった。
 やはり俺は旅を楽しむのだと、気持ちが和らいでいった。
 串鳥に移って一人、ギンナンとウズラ玉子とヤゲンなんこつと新生姜の豚巻きでハイボールを何杯もやった。しみじみと最後の旭川を感じる。三国峠に思いを馳せながら。

 昨日走ったルートで層雲峡へ向かい、途中、上川で相棒に飯を飲ませた。
 少し雲が多かったが青空は見えていた。
 九時を過ぎた頃、宿に着いた。荷物を預かってもらい、昼までなら黒岳へロープウェイで上るのも良いと教えてもらった。
 その言葉に倣ってロープウェイに乗った。層雲峡がこれほど深いものだと知り驚いた。リフトに乗り換え七合目まで行き山小屋でコーヒーを飲んだ。
 小屋の人に勧められてあまりょうの滝展望台まで山道を歩いた。今の俺の身体には酷だった。途中で苦しくて動けなくなって休憩した。それでも素晴らしい景色が見れるのだろうと思って、展望台へ向かった。けど、そこには俺の思うような景色はなかった。こんな所へ来るのではなかった。遥か遠くに薄っすらと見える滝は小さく、ただ山の木々が見えるだけで視界も開けてはいなかった。一気に力が抜けて柵にもたれたまま動けなくなった。
 ヒップバッグに入れ直したお茶で喉の渇きを癒しながら、身体が動いて良いと言うのを待った。
 ニ十分ほどかかってやっと身体がGOを出した。
 時々休みながらゆっくりと山小屋まで戻り、少し休憩をしてから山を下りた。
 調子の悪くなった身体は重かった。相棒がいて良かった。走らせるのにはそれほど支障はなかった。やはり、こんな身体にした朝井を恨んだ。三宅はまだ相手が生きていたから、遣り返すことが出来て羨ましいと思った。
 銀河の滝、流星の滝を堪能して、やっと朝から何も食っていないことに気がついた。コンビニでも良かったが、ロープウェイ乗り場近くにあった食堂街でゆっくりと食べようと思った。
 何軒か見てみたが、どれも気になる店はなかった。だが動くのが億劫になったのでそのうちの一軒に入って腹を満たした。
 喰い終わっても、まだ調子悪い感は消えなかった。
 空は灰色が覆い始めていたが、まだ降るには時間がありそうだ。
 チェックインまでの時間をどう消費しようか考えて、ロープウェイから見た時に広がっていた牧草地帯に行ってみようと思い立った。もし降り出したら直ぐにホテルに駆け込めばいい。
 方向だけわかっている状況で相棒を走らせた。すると、朽ちそうな看板に牧場の文字を発見した。俺はその方向に道をとった。
 山を登り、荒れた舗装の小径を行く。道は森を貫き伸びていた。その先には広大とまではいかないが、緑に育った牧草が広がっていた。綺麗な山並みがあって、その上には、青空とドス黒い雲が共存するこの世の現実みたいな空があった。
 俺は何故だか何枚も写真を撮った。今の俺の心境に近かったからかもしれない。
 キタキツネが二匹、ダンスをするようにじゃれ合っていた。
 気づくともうチェックイン時間を過ぎていた。
 寝酒やお茶をタンクバッグに入るだけ買い込んで宿へ向かった。
 部屋に通され荷を解き、俺は温泉に向かった。
 夕飯の時間までゆっくりと湯に浸かり、身体の調子悪さを整える。この宿の露天風呂は湯衣着を着ての入浴だった。ここでも色んな国の言葉が飛び交っていて、ちょっとした海外のスパ気分を味わえた。
 部屋に戻り、Wi-Fiが飛んでいないことに気がついた。道理で安いはずだった。明日、晴れる方向へ行って、道南へ向かうための帯広の宿を押さえなければならない。それまではPCは使えない。これで事件からも遠ざかれる。
 食事を済ませ部屋に戻った。
 もう寝ようかと思った時にガラ携が鳴った。仲野からだった。折角事件から離れることが出来ると思っていたのに、
 ――無事にⅠ液と撹拌機が、旭川の外れにある五十川興産所有の牧場地跡のコンテナの中から発見されました。これで完全にテロを防ぐことが出来ました。あなたからの情報がないと、こう上手くは解決出来なかったと、私は思っています。感謝します――
 鼻につく物言いだった。
 ――三宅雅和の殺人未遂の件ですが……、今回は厳重注意ということにしておきましたよ――
 これで俺の口を黙らせるつもりのようだ。
 「岡田清は、どう関係しているんや?」
 仲野は少し黙った。
 ――紅海丸で三宅達と一緒に抑留された方ですね。こちらでは関係ないものとみて把握していませんが……――
 嘘だと思った。
 ――無事に解決出来ました。礼を言います。ありがとうございました。これから先、無事に旅を終えられるのを祈っています。では――
 仲野が電話を切ったあと、無性に苛立ちが湧き上がってきた。
 怒りという感情が、俺の身体の違和感を消していった。
 怒りは、俺の寝入りも悪くさせた。

 朝飯のビュッフェも充実していて腹一杯詰め込んだ。調子の悪さも少しだけ楽になっていた。 
 雨が止んだのは、十一時を過ぎていた。
 これほど早く雲が流れる様は見ていて痛快だった。そのくせ谷間だからか、地上に風は吹いていなかった。
 湯衣着を脱いで部屋に戻った。
 路面もお天道様の登場で半分乾き、舗装状態が良かったのか水溜りを気にすることもなかった。
 国道273号線へ初めて右折した。
 気持ちの良い道が続いている。何という名前の山かは知らないが、七月も後半に入っているというのに、雪を被っていたりする。
 雲がなくなった日本晴れの中で、お天道様が笑っていた。
 これだよ、これ。これが俺の旅なのだ。心地良いカーブや時折開ける視界、そして白樺の姿が俺の脳味噌を蕩かせる。
 知らなくていいことは、この世に五万とあることを俺は知っている。だから、真実は知らなくても良いのだ。そう決めた。
 あっという間に三国峠覆道が現れた。我慢して先に進むと、出口が輝いて見えた。覆道の先も晴れ渡っているようだ
 出るといきなり視界が開けるのかと想像していたのだが、白樺が並んだその先に、三国峠の展望台の駐車場があった。空が見えるだけの駐車場の手前にはログハウス調の土産物屋とカフェがあるようだった。
 駐車場の端まで進むと一気に視界が開けた。これでもかと言われている気がしてならない、圧倒的な景色がそこにはあった。
 俺は堪らず相棒と風景の記念写真を撮った。遠くの山並みの上にポカポカと白い雲が浮かんでいた。
 興奮していた。これでは浮足立って事故でも起こしかねない。俺は一旦抑えるためにカフェで一休みしようと向かった。
 建物の近くには帯広ナンバーのバイクが三台停まっていた。
 扉を開けた瞬間に、カレーの匂いにやられてしまった。席に着いて見渡すと、バイク乗りの三人だけでなく、他にいた一組のカップルもカレーを食っていた。
 腹は八分目なのに俺はカレーと食後に深煎りのコーヒーを注文した。
 運ばれてきたカレーは、目の前に置かれるとかなりボリュームがあった。朝飯を食っていなければ簡単な量だったが、八分目の腹具合の今は、押し込むようにして完食した。旨かった。だから完食出来たのだと思った。
 食後のコーヒーは本格的で、満足いく一杯だった。
 はち切れそうな満腹感が、俺の興奮を抑えてくれた。
 ゆっくりと相棒を走らせた。
 しかし、収まったはずの興奮は直ぐにぶり返してきた。何処まで見ても道路以外の建築物が見えない、これほどの緑に埋め尽くされた下界を俺は見たことがなかった。これが自然なのだ。
 橋の上に来ると、眼下に架かる松見橋が途轍もなく美しかった。 
 明石海峡大橋を初めて見た時と同じように、人間の力というものは凄いものなのだと感じた。
 人が入ったことのない原野、樹海が広がっている。行っては返し、行っては返しを繰り返し、入りきれない俺の感動を千切ってカメラに収めていった。
 樹海の中を走る感覚は、富士の比ではなかった。俺は相棒を止めることなく走らせ続けた。
 興奮状態のまま、随分下まで走って来ていた。白樺林が続く直線路も気持ちの良いものだと思い返せていた。
 そのうちタウシュベツ橋梁へ続くあの凸凹道の入口を通り越し、糠平湖を左手に感じながら相棒を走らせた。青空はずっと俺の真上にあった。
 そのうちに、たった一月ほどなのに懐かしいと感じる風景が続いた。
 上士幌の街で相棒に飯を飲ませて、また見たかったナイタイ高原牧場からの景色を見に行った。
 道産カボチャのソフトクリームを舐めながら、夏の十勝を堪能する。匂いも色もすべて、前に来た時のものとは違う。俺は新たな夏の十勝を取り込んだ。
 最後になる風景を充分に堪能して、俺は街に下りた。
 何処かで明日の宿を探さねばならない。俺は街をウロウロと流して、ジェラート屋の『DREAM HILL』を見つけた。相棒を停め、Wi-Fiのルーターを取り出して、大丈夫なのを確認してから店に入った。
 新しい匂いがする店内で、関西から移り住んだという女主人と会話しながら、お勧めのジェラートを頂いた。どれも旨くて、何故この前に出逢えなかったのかと思ったぐらいだった。
 コーヒーを飲みながら明日の宿を探した。いつもの駅前の定宿が取れてホッとした。
 気分良く店を出て、念のためにもう一度、相棒に飯を飲ませてから層雲峡のホテルへ向かった。
 行きとは違う景色が俺を呆けさせた。また明日、この道を走れるのだと思うとゾクゾクした。
 温泉に浸かってから、昨夜と代わり映えのしない晩飯で腹を満たした。
 エレベーターを待っている時にガラ携が震え鳴った。伽奈だった。
 俺は列を外れて電話を取った。
 ――もしもし、今大丈夫ですか?――
 何かあったのかと俺は思った。
 ――どうしても最後に会いたくなって来ちゃいました――
 頭の中に疑問符だけが浮かんだ。
 上下スウェット姿の俺は、ホテルの前の駐車場に停まっている伽奈の軽自動車を見つけた。風が吹いているからか、夜は流石に寒かった。急いで乗り込むと、微かに香水の良い香りが漂っていた。
 「今夜は星が綺麗だと思って」
 伽奈は躊躇いがちに言う。
 俺は伽奈の運転に任せてホテルを出た。旭川方向へ車を進めた。
 話が長くなるようだと思った俺はコンビニに寄るように言って、寝酒用にといつもの一缶にペットボトルのお茶を一本と、伽奈が選んだ缶コーヒーを一本買った。
 伽奈は、何処に車を停めればいいものか思案しているようだった。だから俺は、昨日見つけたあの空間へ助け舟を出した。
 林を過ぎた所に車を停めてライトを切ると、俺が初めて見る北海道の星空が広がっていた。いつも街に泊まっていたので、俺は星空に出逢えていなかったのだ。
 伽奈は「わぁー凄い」と漏らした。
 俺はドアを開けて車外に出た。寒さは感じない。車の前に立って空を見上げた。今にも降り落ちて来そうな無数の星が瞬いていて、俺は怖さを感じた。
 伽奈は俺の右腕にしがみつき「綺麗」と言った。
 俺はそのままに星空を見ていた。だが、伽奈から薫る香水が俺を能動的に変える。
 キスは伽奈からだった。
 降り注ぐ星の下で、程好い温かさの軽自動車のボンネットはベッドに変った。
 隔たりのない伽奈は、俺を何処までも包み込み、何度も何度も歓喜の声を上げ震えた。そして最後は、朦朧とした伽奈に吸い取られた。
 その時俺は、伽奈が全裸でいることに気がついた。星の光にぼうっと白い肌が光っていた。
 お互いに身繕いして、アスファルトの上に並んで腰を下ろし、怖いぐらいの星空を見上げた。
 「あのね、今の設計会社の社長が、私と結婚を前提に付き合って欲しいって言われているの」
 伽奈の言葉は唐突だった。なら、何故、俺に今抱かれたのか理解に苦しんだ。
 「私ね、誠さんに抱かれて、何か全部、自分を開放したくなっちゃったの。だからね、彩香ちゃんのことを誠さんに話したの」
 俺が知らなくていいことを知った夜のことを思い出した。
 「彩香ちゃんと寝たよね」
 俺はただ夜空を眺めるだけだった。
 「別に、私と出逢う前だったし、彼女じゃないんだからいいの。それに私も彩香ちゃんと別れたあとになって気がついたから」
 伽奈は俺の肩に頭を擡げた。
 「いいの。私の中でずっといた彩香ちゃんへの申し訳ないと思う気持ちが、やっと彼女に直接会って言葉に出来たのだから、誠さんに抱かれなかったら私、多分ずっと変われなかったと思うの」
 そう言って伽奈は、俺の腕を掴んだ手に力を加えた。

 流石に昨日のような感動はなかったが、十二分に感動した。三国峠を最大イベントに残しておいたことに自画自賛した。今日もまた写真を撮りまくって先に進んで行く。
 糠平湖に差し掛かると、もう一度タウシュベツ橋梁を見ておこうと思い立った。
 広い路肩に相棒を停めた。森を抜けた先の展望台には一組の老夫婦がいた。旦那さんが三脚を立ててタウシュベツ橋梁の写真を撮り、奥さんはそれをにこやかに見守っていた。俺が進むことを止めた先にある幸せの形だ。
 俺に気づいた奥さんが「こんにちわ」と言った。俺も「こんにちわ」と返した。すると旦那さんが振り向いて「こんにちわ」と言い、俺も返した。
 「ああ、ちょっと退きましょうか」
 俺がカメラを提げているのを見て旦那さんが言った。
 「いえ、大丈夫ですよ。こちらからでも撮れますから」
 俺は隣で何枚か対岸にあるタウシュベツ橋梁の姿をカメラに収めた。
 「今年は水がないからねぇ」
 「そうなんですか?」
 「いつもはこの時期、橋梁は上だけ残して水に浸かってるんだ」
 「へーっ、その姿も見てみたいです」
 「また来ればいいさ」
 「はい」
 俺は流れ上そう返した。もう二度と訪れることなど出来ないくせにだ。
 奥さんはにこやかに黙っているだけだった。
 俺は「さようなら」を言って二人と別れた。旦那さんが「良い旅を」、奥さんが「お気をつけて」そう声に出した。
 十勝平野に下りると真上の太陽に輪っかがかかっていた。天気予報は当たらない。
 定宿のホテルへ荷物を預け、昼飯は白樺に行ってジンギスカンを食べ、清水円山展望台へ行って最後になる十勝を眺めようと考えた。
 十勝大橋を渡って帯広に入る。国道38号線を横断する時に、脳裏にチラリと津田と川口の顔が浮かんだ。左折すれば川口がいる帯広署だった。
 そのまま街の中心を進んで行く。
 ホテルの入口近くに相棒を停めて、借りた台車に荷物を載せてロビーに運んだ。
 腹も空いてきた。さぁ出発だ。キーを回し、右親指でセルボタンを押した。
 「ん?」
 もう一度キーを回し直し、ライトやランプ類が点いているのを確認してからセルボタンを押した。セルモーターが回らない。
 とうとう相棒が拗ねてしまったようだった。
 俺は冷静に相棒の横でHOGに電話してレッカーを手配して貰った。帯広のバイク屋はすぐそこだ。あとはレッカーがいつ来るかが問題だった。
 ジリジリと照りつけるお天道様を避けて日陰に相棒を移動させ、俺は近くのコンビニへ冷たいお茶を買いに行った。
 レジでお金を払っているとガラ携が鳴った。急いで店を飛び出して電話に出た。三十分でレッカーは着くという。そして、帯広の店も受け入れ態勢が整うと担当者は言った。
 お茶が充分温くなった頃レッカーがやって来て、俺も手伝って相棒を載せた。
 一緒に乗り込みバイク屋へ向かう。
 俺が「三国峠で止まっていたらと思うとゾッとする」と言うと、レッカーの運転手は「そっちのほうがウチは近いから一時間ぐらいで行けるよ。こっちには普通、二時間ぐらいかかるから。今日は帯広で会合があって戻る途中だったから。あんたツイてるよ」と言った。ツイているのだろうか?
 俺の顔を見るなり店員は「本当にまだいたの」と言い「古いバイクだからあるかどうか」と言いながら部品を探し始めた。しばらくして「あった」と声がして、手にしたレギュレーターを俺に見せた。「今日は泊まるの?」と訊いてきたので、「ホテルをとってある」と俺が言うと、「他も見とくから明日の朝取りに来て」と店員が言った。
 俺は相棒を任せて、地図だけを手に白樺通りを歩いてホテルへ向かった。
 炎天下なのでタクシーを呼んでもらえば良かったと、根室本線の日陰で一休みしながら思った。
 部品があって安心出来たのか、腹の減りを思い出していた。もうジンギスカンの腹ではなくなっていた。
 インデアンのまちなか店まで、ビルの影を伝いながら歩いた。
 インデアンルーのカツカレーを食うと、より一層汗が噴き出してきた。やっぱり何度食っても旨かった。
 喰い終えると甘い物を身体が欲した。六花亭へ向かいカフェでかき氷を食べ身体に籠った熱を冷ました。
 ホテルに戻ってチェックインして、急いでシャワーを浴び、早速洗濯に取り掛かった。
 ここで彩香に再会したことを思い出す。昨日出したのに熱くなった。
 部屋に戻ってPCを開けた。天気予報が気になった。三日間の晴れ予報がいつの間にか明日は雨の予報に変っていた。雨の中、相棒を取りに行き、先に進む気にはなれなかった。
 もう一泊出来ないかここのホテルを検索したところ空室はなく、フロントへ電話をかけて延泊出来ないか尋ねたのだが、「あいにく満室でして」と断られてしまった。
 急いで近くのホテルを検索し、一番近いホテルの部屋を予約出来て安心した。
 洗濯物を乾燥機に入れ直し、俺はアラームを九十分後にセットしてベッドで眠った。
 もう一晩、帯広の夜を楽しめると思うと眠りもスムーズだった。
 俺は、左右に草しか生えていない真っ直ぐな道を走っている。この旅で走ったことのない道だった。いや、北海道の何処にもこんな道はないのだ。何処を走っているのか見当もつかなかったが、不安な気持ちにはならず、ただ気持ち良さだけが俺に纏わりついている感覚だった。
 急に俺は誰かの部屋に座っていた。置かれてあるものからすると女性が住んでいる部屋のようだった。庶民的な家具があって、動物だろうか何個かのぬいぐるみがピンク色のベッドの枕元に並んでいる。
 ふと俺は振り返った。すると周りの部屋の様子が変わり、調度品といえるような高級な家具が並んでいた。俺が座っているのも高級そうなソファーの上だった。
 「会いたかったよ」
 誰もいないのに俺の耳に女の声だけが聞こえた。
 そして、ピッピピ、ピッピピと、けたたましいアラーム音が声の代わりに飛び込んできた。
 アラームを止めて大きな欠伸をした。
 乾燥した衣服をビニール袋に入れながら考えた。夢の意味は分からなかった。
 十七時の屋台の開店を待って俺はホテルを出た。銀座通りに入ったところでガラ携が鳴った。バイク屋からだ。
 「レギュレーターだと思ったらオルタネーターのコイルが焼けてたわ。どうせ直んないと駄目でしょ。部品が日曜日に来るから、月曜日に取りに来て」
 そう言われた。
 それでも直ると聞いてほっとしている自分がいた。道南に向かう前に膿を出し切った気分になった。
 先ずは呑みにいくか。そう思って前を向いた。



    ロング・ロング・ロング・ロード Ⅲ 道北の蒼・道央の碧 編

                          fin


          東京都千代田区霞が関2丁目の話 あり

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