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ロング・ロング・ロング・ロード Ⅳ 道南の涙 編   5

 小さな街に生活音が飛び交う中、それに混ざり込むように相棒を暖機しながら荷物を積み込んだ。
 折角この旅のために買ったステンレスシルバーの予備タンクは、一度も使うことなく津軽海峡を渡ることになりそうだった。
 山積みになった荷物は今日も安定している。本当は、もっと早く出発する予定でいたのだ。 
 昨夜の居酒屋には食いたいものがなかったので、少し飲んでから近くのコンビニで酒とツマミを買って帰り、部屋でPCを開いて久し振りに情報収集に努めた。
 明日、森町を起点として時計回りで進む亀田半島の天気予報に、二泊分の宿を取った函館での晩飯のこと、最後に道の駅の情報を調べると、とんでもない現実を突きつけられた。残る四つの道の駅の内二つが、明日は休館日だったのだ。
 これでは明日、道の駅スタンプ全制覇とはならない。それに北海道全市町村完全制覇とも成らないのだ。
 仕方がないことと直ぐに気持ちを切り替える。それよりも、北海道の持つところと呼んでいた部分から南を含める渡島半島が、“としま”ではなく「おしま」と読み、底の二つに分かれた所をそれぞれ、「松前半島」と「亀田半島」ということを知り、俺は少し賢くなった気分がした。
 天気予報にはずっと曇りが並んでいて、全ては明後日以降に持ち越しになった。
 ならばと、函館観光の予習を念入りにと考える。だが、気掛かりなことが頭を過った。万が一、呑気に観光している俺の姿を、美枝子に見られたりしたら……。
 そんな思いが過りながらも、朝の目覚めは良かった。といっても、基本的には“悪いながらも”の言葉がつくのだが。
 朝飯は、窓から見下ろせる駅前の小さなロータリーにある、昭和感漂う柴田商店で名物いかめしを買い、表に置いてあるいかめしの販促用に作られた古いベンチに座って食べた。
 昨日食ったものよりも段違いに旨かった。それに作り立てで、ほんのりと温もりが残っているのも良かったのだ。
 二個入りのがもう三個ほど腹に収められそうだったが、これから先のことを考えて自重した。
 国道5号線に出て八雲町の方は如何なものかと向かったのだが、海沿いの道にも心躍らず、そのうちに海霧が上がってきて俺はUターンを決めた。
 森町の道の駅を過ぎ、今日の駒ケ岳は雲にすっぽりと覆われていた。
 大沼公園の表示どおりに道道43号線へ左折する。その道は爽やかと感じる森深い道だった。そのうちに小沼沿いを道は進んでいく。
 大沼と小沼の間を通っている道道338号線を右折する。直ぐに現れた橋の上からは、霞がかった中に小さな島々が幻想的に浮かんでいる大沼の姿に心を奪われた。
 ぼうっとしている間に腹が鳴った。身体の調子は良いようだ。
 相棒を発車させると直ぐに、貨物列車が向かってきた。車が走っていなかったので、俺は相棒を反対車線の路肩に寄せた。手を伸ばせば触れるぐらいのところを貨物列車が通過していく。凄い迫力だった。
 道道338号線は、大沼公園駅の手前で線路沿いを離れて左へカーブする。
 カーブが終わったところで目的地に到着した。元祖・大沼だんごの『沼の家』だ。
 朝っぱらから人で賑わっていた。数ある沼の家の中でも此処でしか売っていない胡麻餡と醤油餡が入ったものと、旨そうに並んでいたレジ横の牛乳を俺はチョイスした。
 軒先に置かれた大きなテーブルに陣取って、喉が渇いていたので牛乳を一気に飲んでから、団子の包み紙をテーブルの上に広げてみた。
 牛乳は旨かった。北海道に来てから、薄く不味いと感じたことはなかった。俄然、団子に対する期待が膨らんだ。
 醤油餡と胡麻餡が一対二の割合で箱一面に張られていた。醤油餡の下には、大沼に浮かぶ小島を模した串団子ならぬ串なし団子が、びっしりと沈んでいるのが見えた。団子はまん丸ではなく、俺の知っているところでいうと、大阪・十三にある喜八洲のみたらし団子に似た円柱状に近い形をしていた。
 竹串を手に戦闘開始だ。
 真っ黒な胡麻餡に竹串を突き刺した。スッと先が入ったあと、しっかりとした手応えを捕らえた。
 黒を纏って現れた団子の白い肌が輝いていた。そのまま口に運んで竹串を引き抜いた。
 何ともほんわかとする味だった。旨さが身体の隅々まで、じんわりと行き渡っている感覚を覚えた。団子の歯応えも良い感じだ。
 ふと、俺は思った。こんな身体になる前の俺は、もっと慎重に行動していたなぁと。
 今だってそうだ。先ずはオーソドックスな醤油餡の味を確かめてから限定の胡麻餡にいくべきか、限定という希少価値を先ず堪能してからオーソドックスを味わうべきかを考えたはずだった。それなのに、黒の奥にある白が見たいと思う、そんな単純な好奇心が思考を上回ってしまっている。
 醤油餡も旨かった。
 確かに、白しかない病室で目覚めて現実に戻され、何もかもを失くした俺は、それでも色々と模索し考えた。昔は出来ないことよりも出来ることの方が多かった。それなのに、出来ないことがほとんどで、出来ることが限られているとわかった途端に、考えることも減るのだと知った。
 醤油と胡麻を一緒に食べると、これはまたこれで旨かった。
 それでも、短絡的思考にはならなかった。チョイスの数が減った分、イエス・ノー・チャートを先読みするようになっただけだった。だから今、北海道という大地の中を巡る選択肢が少なくなって、脳味噌がぼやけているのだろうか?
 胡麻餡の中の団子が減り過ぎていて、餡の量とのバランスが崩れた。
 どうでもいいようなことを考えながら喰っているから、こうなった。やっぱり脳味噌がぼやけている。
 最後は残った胡麻餡を、串刺しにした団子をスプーン代わりに使って舐めるように食べ終えて、〆にその団子を、みたらしの餡よりも甘さが少ない醤油餡に絡めて食べ切った。
 ゴミを捨ててもらうついでに、もう一本牛乳を買ってその場で飲み干してから、大満足で店を出た。
 ヘルメットを被りながら、醤油餡がもう少し甘ければ、牛乳と一緒に頂くのもアリだと思った。
 大沼を一周した。湖はほとんどが木々で覆われていて、湖面を眺めながら走れるところは少なかった。一度だけ相棒を停めて水辺まで歩いてみたが、霞んだ景色に感動はなかった。その代わり、力強く咲いていた蓮の花が、とても美しかった。
 団子屋の前を通り越し、城岱方面へ向かおうと右折した。
 目の前を観光バスが走っていた。抜こうかと思って先を見ると、バスは何台も連なって走っていた。
 空も悪いのにバスのうしろで排ガスを浴びながら走るのはまっぴらだ。
 坂を下りると視界が開けた。先に見えているはずの山々が霞に埋もれていた。
 この先は勘弁だと思い、俺は引き返し、道道43号線を左折して国道5号線を目指した。
 大沼駅の交差点を道道338号線へ左折する。
 俺は、小沼の湖面と函館本線の線路と並んだ道を、急ぎ気味にアクセルを開けて走った。空が暗くて、のんびりと走っている気にはなれなかったのだ。
 国道5号線を昨日とは逆に走って行く。
 道道96号線との交差点から先は、まだ見ぬ道だった。
 空は随分明るくなった。それがわかると俺は腹が減っているのに気がついた。
 ラッピの峠下総本店の看板を見つけ、吸い込まれるように左のウインカーを焚いた。
 流石に夏休み、緑色の山小屋風の外装とは違う華やかで賑やかな内装の店内には、多くの家族連れが注文の列をなしていた。
 どうせ今日は函館のホテルまでがゴールだ。俺は素直にその行列に並んだ。
 今日はラッキーチーズバーガーにオニオンリング、それにラッキーシェイクのバニラを買って、満席に近い騒がしい店内のソファー席を避けて、まだ空きのあるテラス席で一人ニヤケながらそれらを掻き込んだ。やっぱり旨い。俺の好きな味だった。
 帰り際、注文の列に並んでいる時に、凄く気になっていた『財宝の椅子・ビッグ レッド チェア』に恥ずかしげもなく座った。なにせ、旅を終えた俺に待っているのは、宝くじにでも当たらない限りは終焉だけなのだ。
 赤い大きな椅子に座っている金髪モヒカンは、まるで通天閣のビリケンさんのようだと、他人の目には映っただろう。
 国道5号線はこの先、一般国道とバイパスに分かれていた。チェックイン時間までは随分時間があった。下長万橋の交差点で右に逸れて、バイパスではない方の国道5号線を進んだ。
 少し走ると松並木が現れて、そのうちに道は少し幅を狭め、両側にある松並木の存在感が一層増していった。赤松街道の名前の通りの道だった。
 蒜沢川・ニンニクザワガワという変わった名前の川があって、そこに架かっている小さな桔梗橋を渡ると、北の大地・最後の街になるはずだった函館のカントリーサインに出逢ってしまった。カントリーサインには、カモメと教会が描かれていた。
 途切れながらも続いていた松並木も、道道100号線の交差点の手前まで終わり、その先は電柱が立ち並ぶ普通の道へと変わっていった。
 五稜郭駅が見えて、やっと函館という街を走っているのだと思えた。
 しかし、何処にも五稜郭タワーは姿を見せなかった。
 兎に角真っ直ぐ進んで行く。やはり街中の混み混みした街を走るのは非常に疲れる。信号に三つ引っ掛かって、やっと函館駅前に着いた。
 この街も札幌と同じように、街に余裕がないような気がした。せせこましさが俺に圧をかける。
 駅のロータリーに相棒を入れ、端に停まってPCからガラ携に送ったメールを開きホテルの場所を確認する。
 ホテルは函館市電・松風町の駅から徒歩と書いてある。松風町駅は駅前交差点からまっすぐ伸びている国道278号線上にあった。
 雨は降りそうになかった。兎に角ホテルに行って荷物を降ろしてから、これからどうするかを考えることにした。
 ホテルは安い割にはイイ感じだった。部屋も悪くなかった。
 急いでいつものように、ドライバッグから出した荷物をセッティングし、PCを開いて函館の観光地図を出した。俺の持っている地図では観光するには不十分だ。
 荷物を積んでいない相棒は軽やかだった。
 市電と並んで走るのも悪くなかった。札幌では何とも思わなかったことが、函館では違って感じるのだ。俺の中の知らぬところで、名残惜しい気持ちが生まれているのかもしれなかった。
 それにまだ北海道最後の鹿部町と四つの道の駅が残っている。全てが綺麗に終わって函館に入る。それが俺の予定だったのに、何とも上手くいかないものだ。
 思い出した。いや、ずっと思考の片隅にいたのだが気がつかない振りをしていたので、思い立ったとした方がいいのだろうか?俺はガラ携で美枝子の番号を画面に出した。
 「はぁー。どうしよう……」
 久し振りに口から出た声は擦れていて、自分の耳で聞いてもツッコミたくなるような口調だった。
 手に持ったガラ携の、このボタンを押せば、勝手に美枝子を呼び出してくれるのだ。
 そう思いながらも、ボタンの上に指を載せたまま躊躇した。
 今さら美枝子に会って、人生の終わりを静かに迎えようと生きている俺に、何の得があるというのだろうか。現世への未練が増して、残りの人生を自暴自棄にさせるのではないだろうか。それ以上に、死を覚悟した俺が、積年の思いを遂げる行動に移すことが怖かった。
 しかし、函館に来たら美枝子に電話すると約束したのだ。いくら組が解散して親子の縁は切れたといっても、姐さんの美枝子には不義理は出来ない。
 「ヨシ」
 声に出さないと押せない気がしたんだ。腹を決めてボタンを押した。
 着信音が頭の中まで鳴り響いている。
 突然、音が途切れた。覚悟を決める。
 「もしもし、誠です」
 ――社長、ご無沙汰しております。門倉から改名しました角脇です――
 俺は言葉に詰まった。何故、美枝子の番号に角脇が出る?
 「姐さんは?」
 ――笹森様は只今、エステをお受けになっておられます――
 笹森?ああ、結婚する前の姓に変えたのか。
 ――終わり次第、社長にご連絡差し上げると申しておられます――
 「なぁ、その社長はやめてくれるか。おちょくられてる気分や」
 ――失礼いたしました。では、獅子王様とお呼びすれば……――
 「様もやめてくれ。普通にさんでええよ。それより、君には入院中、世話になったみたいでありがとうな」
 ――いえいえ、他の方々は急な会社整理と、従業員の次の職探しに奔走されていましたから――
 なるほど、そういうことか。俺は帯広での松村殺害事件の事は口に出さなかった。
 「俺は今から動くから、今夜にでもこっちから電話すると伝えてくれるか」
 ――はい、わかりました。お伝えしておきます。笹森様は現在、東京にいらっしゃいまして、函館には明後日の昼に戻られる予定です――
 「東京に……」
 ――獅子王さん、お身体の方は大丈夫ですか?――
 「うん。調子悪いまんま、平行線や。気にしてくれてありがとう。じゃぁ」
 肩透かしを喰らった気分だ。

 函館の街を知るために、市電沿いに走って五稜郭タワーに向かった。
 ぐるりと見渡した函館の街は、何とも窮屈な街のように俺の目には映った。海と海に挟まれた狭い土地に人の生活が圧縮されている。
 しかし、五稜郭だけは特別で、とても立派で美しい五芒を大地に咲かせていた。
 街の形がある程度頭に入っている状態で、俺は相棒と函館の街を流した。ただ、北海道の街にしては道が複雑怪奇だった。まるで無計画に継ぎ足し継ぎ足し造られ、徐々に街を広げていったように思えた。
 道道100号線・外環状線という中央分離帯のある広い道沿いには、日本各地、何処にでもあるチェーン店がいっぱい立ち並んでいた。だが、全ての店舗が北海道らしくないスケールの小ささだった。やはり狭い土地に詰め込むと、こうなるのだと勝手に理解した。
 適当に彷徨っていると住宅街の中で俺は、自分が今何処にいるのかわからなくなってしまった。お天道様でも昇っていれば方角がわかるのにそれもなかった。
 何も目標物がない手探りのまま暫くウロウロ走る。何度もUターンしたり、同じ道を行ったり来たりしながら、俺はやっと外環状線に戻ってきた。そして走ってきた反対方向へ相棒を走らせ、やっと知っている地名に辿り着いた。
 湯の川温泉には市電の終着駅があった。
 温泉街をゆっくりと流して行くと国道278号線が出てきた。本当ならこの道を通って函館市に入るつもりでいたのだ。国道沿いが温泉街のメインストリートのようだった。もっと情緒ある温泉街だと思っていたのだが、そうではなかった。
 海沿いを走る国道278号線で函館駅を目指した。
 駅前からは市電に沿って今度は函館山を目指す。路面電車のある港町らしい景色が、札幌とは違う函館らしさを醸し出している。
 函館山は雲で覆われていた。金森倉庫や八幡坂、旧函館区公会堂や立ち並ぶ教会群、情緒ある全ての景色を、俺はカメラの中に収めていく。
 元町の通りでソフトクリームを梯子した。どちらも旨く、微妙に食感や舌触り、そして味が違う。
 車では入れない細い坂道を相棒で進み行った。観光客はここまでは入ってこないようだった。
 教会の屋根越しに函館湾を望み、その先にある北斗市や七飯町の霞の中の山々を暫く眺めていた。
 ポケットでガラ携が鳴った。徳永だった。
 ――函館に着いたんだってな。もう北海道も終わりか?――
 「いや、まだ鹿部町を走れていないんだ」
 理解出来ない様子の徳永に俺は、先ずは鹿部町の位置の説明をして、それから、道の駅のスタンプも集めていることと、今日が道の駅の休館日に重なってしまったことを話して聞かせた。
 「ところで、俺が函館に着いたことは誰に聞いた?」
 ――美枝子さんから電話があった。今夜一緒に飯を食うんだ。――
 どういうことになっているのか理解出来なかった。
 ――それで美枝子さんからの伝言だ。明後日からはウチに泊まるようにってことだ――
 「どうして?」
 ――それは知らねぇ。美枝子さんにはOKだと伝えておくからな。ああ、それと、今夜、電話は要らない。明後日帰ったらこっちから電話するって――
 そう言って徳永は電話を切った。
 ドッと疲れが出てきた。今日は交通量の多い道をずっと走っていたからか、それとも明後日のことを想像したからか。抑えきれるのか自信がない。せめて無残に太り倒していて欲しいと願う。
 ホテルへ向かう途中、ハセガワストアのやきとり弁当をアテにセコマの泡で今夜は部屋呑みしようと決めた。

 初めてのハセストは楽しかった。
 ラッピの隣に、大阪・道頓堀にあるような、大きなやきとり弁当の造形看板が入口の上にドカンと掲げられていた。
 店内に入るとやきとり弁当の調理スペースやイートインスペースが広く取られていて、ハセガワストアのストア部分は奥の方に押し狭められていた。これではさながらやきとり弁当屋のようだった。
 弁当以外の単品串のメニューも数多ある上、塩以外にタレの種類も四種類あって選ぶのに苦労するほどだった。
 オーソドックスなやきとり弁当の中をタレで、野菜串ととり砂肝串、とり軟骨を塩で、豚タンと豚ハツを味噌ダレで、全て二本ずつ注文した。
 焼き上がりを待つ間、俺は店内をウロウロとした。
 奥の陳列棚には人気があまりなかった。やっぱりやきとり弁当屋だ。
 次のシマに移動すると、食玩の箱が並んだ棚の前で小学生らしき男の子が一人、小さな箱を手にしたままキョロキョロと不審な動きをしていた。
 俺はピンときた。今から万引きという犯行に手を染めるのだと。だが、何か嫌な気配がした。他の商品を見る振りをして気配を探した。
 いた。このシマの奥にある飲料の冷蔵庫の前に、あの函館の男が何気なく立っていた。元警官ならば、万引きGメンを定年後の職にしているのか。
 俺は、食玩の箱を手にした小学生に近寄って、しゃがみ込み、そいつに声をかけた。散々着込まれ色褪せたTシャツに薄汚れた長ズボン、靴は一番酷く傷んでいて、身体の成長について行けない靴の踵が潰されていて、裸足の踵が随分とはみ出していた。まさに貧乏を絵に描いたようだった。
 「それが欲しいんか?」
 小学生の男の子は俺に顔を向けると、目を泳がせ、身体を硬直させ小刻みに震え出した。
 「パクる……。万引きするつもりやろ」
 俺が小声で言うと、男の子の顔から血の気が失せた。
 「それが、どうしても欲しいんやな?」
 震えながらも、しっかりと俺の目を見てコクンと頷いた。顔を上げた男の子の目には涙が浮かんでいたが、歯を喰いしばり涙が零れないように頑張っていた。
 俺はその様子を見て、コイツがただ普通に食玩を欲しているのではないことを悟った。
 「今日は俺が買うたるわ」
 男の子は驚いて目を見開いた。そして、それは駄目だと言いたげに、無言で首を振った。
 「かまへん、かまへん。そやないと、あそこのオッサンに捕まるで」
 そう俺が言うと男の子はうしろを振り返り、こちらを伺っていた函館の男の顔を見た。
 一瞬男の子の背中に緊張が走った。それから男の子は商品を放り出して、その場から走って逃げた。
 俺は男の子が放り出した食玩を棚に戻そうと手に取った。同じシリーズの箱が沢山並んでいる中で、男の子が手にしていたヒーローの乗り物が描かれている箱は、その一つしかなかった。
 俺は立ち上がり、男の子を探した。
 「あんた何をするの」
 函館の男は俺の背中でそう言った。
 振り向いた先にあった瞳には怒りが浮かんでいた。
 「そんな目先だけの優しさは、あの子には毒だ」
 遠くで俺の弁当が出来上がったことを店員が告げている。俺は無視して弁当を取りに行き、手にしていた物を買った。
 函館の男は俺のあとをついて来る。
 入口を出た大きな弁当の造形看板の下で、函館の男は俺の肩を掴んだ。
 観光客が多く行き交う中で口論も乱闘も勘弁だ。それより早く帰って食わなければ、折角のハセストのやきとり弁当が冷めてしまう。
 ヘルメットを被っていると、函館の男が胸ぐらを掴んできた。
 「まだ、話は終わってねぇ。間違ってることは間違ってると、大人がちゃんと教えてやらないといかんのだ。そでねぇと、あんたみたいな大人になっちまう」
 カチンときたが、俺はそれには言い返せない。だが、アイツには小さいながらもプライドが芽生えたのだ。
 「オッサンこそ、間違ってるんとちゃうんか。生きていくためには、ちんけなプライドでも、守らなあかん時があるんやで」
 俺はそう言って、さっき買った小さな箱が入ったビニール袋を函館の男に手渡した。
 「知ってるんやろ、あの子の家。これ、届けたってくれへんかな」

 ホテルの手前のセコマで酒類を鱈腹買って、ホテルの軒先に相棒を買った。
 両手いっぱいにビニール袋を提げて部屋に戻ると、俺は急いで晩酌の準備に取り掛かった。
 スパークリングワインで口を湿らせてから、俺はやきとり弁当の蓋を開けた。綺麗に三本の豚串が並んでいた。やきとりといっても鶏ではなく、豚なのだ。
 弁当の入っている“やき弁容器”には溝がついていて、ここから串だけを出して再び蓋を閉め、蓋を押さえながら串をクリクリと回し引っ張れば、綺麗に串が外れるという寸法だ。
 まだ温かいやきとり弁当を一口いった。甘辛いタレが疲れた身体に安らぎをもたらした。豚は臭みがなく歯応えも柔らかかった。旨い。
 泡を呑むのも忘れて半分ほど掻き込んだ。なくなりそうになるのに気づいて、俺は慌てて箸を止めた。
 他の串焼きの包みを開き、簡易の皿にした。
 どれも旨かった。北海道は本当に旨いものが揃っていると思った。
 弁当がなくなり、とり軟骨と野菜串、それに豚ハツが一本ずつ残ったところで、泡がなくなった。
 PCで明日の天気予報を開けてから、冷蔵庫の中のウィスキーの小瓶を取り出しグッとやる。
 明日の亀田半島には霧が出るらしかった。
 一気にテンションが下がり、夕方、ハセストで会った男の子のことを思い出した。ああいう玩具を持っていないがために、周りから攻められ馬鹿にされ、芽生えたばかりの小さなプライドを意味もなく傷つけられる。
 俺はそんな奴らを、いつも力で押さえつけてきた。だが、その先で、自分の力では敵わない奴らの存在に気づくのだ。打ちのめされて、ちんけなプライドまでもが砕け散るのか、もしくは刀を鍛えるが如く、そのちんけなプライドがもっと固く強いものへと変化していくのか。それは、その時の運が左右した。俺の場合はだ。
 嫌な古い昔が蘇ってきた。もうすぐ死ぬのだから、楽しいことだけ考え生きていけばいいと、俺は素直に思っている。
 とり軟骨の歯応えと塩加減が堪らなかった。冷蔵庫からいつものを一本取り出して、リングプルをプシュッと引いた。

 荷物がないのは本当に取り回しが楽だった。
 今朝は国道5号線のバイパスを通って七飯町へ出た。天気予報にあったガスはかかっていなかったが、灰色の重苦しい空は何処を走ってみても変わらなかった。
 それに、冬用のパーカーを着てきたのだが、それでも少し涼しさを感じるほどだった。
 昨日も走った道は、初めて走った昨日よりも短く感じるのは何故だろうか?
 国道278号線に右折すると、極端に通行量が減った。
 右手に見えた駒ケ岳は、動きの速い雲がまるで龍のように絡みついていて、何故かその真上にちょっとだけ青空が見えていた。それは恐れを覚える景色だった。
 道の駅。つど~る・プラザ・さわらには開店丁度に到着した。スタンプを押して建物の中をひと回りした。
 生のブルーベリーや、噴火湾で上がった美味そうな海産物の加工品が売られていた。その中で、『森町特産・さわらの帆立めし・限定20食』というポップを見つけた。
 イートインスペースで弁当を開けた。帆立出汁で炊き上げたご飯の上にベビーホタテを煮付けたものがゴロゴロと載っている。
 やっぱり旨かった。ご飯だけでもパクパクといける。ベビーホタテの煮付けも、ホタテそのものの味がちゃんと残されていて旨かった。瞬殺でなくなった。
 まだ腹が減っていたので、地元のブルーベリーを使ったソフトクリームをデザートに食べた。駒ケ岳の牛乳を使ったというミルク感とブルーベリーの酸味の合いまった、甘さもさっぱりとした後味で旨かった。
 店員のおねえさんに、気になっていたことを質問した。噴火湾と内浦湾の違いだ。すると、言い方が違うだけで同じだと教えてもらった。
 スッキリして建物を出ると、さっき食ったソフトクリームが余計だったと思い知らされた。
 今日はただ目的のためだけに走るのだ。
 見える景色も灰色の下では感動も何も感じられなかった。ともすれば、自分が今、憧れた北海道を走っていることを忘れるほどだった。
 最後の市町村の鹿部町のカントリーサインと出逢った。石のキャラクターが温泉に浸かっていて、その前で間欠泉が吹き上がっている。
 179市町村の終わりを迎える達成感がそれほど湧かなかった。なんとなく流されているような気分だ。まだ先に東北を巡る旅が待ち構えているからだろうか?それとも、明日待っている美枝子との再会が気になり過ぎているからだろうか?釈然としない。
 普通に走りながら、俺はこの旅を振り返っていた。
 北海道の旅のピークは、やはり三国峠だったのだと思った。あの時の感動は、最後の鹿部町のカントリーサインと出逢った時の感動とは、全く比べものにならなかった。
 惰性で先へ進んで行く。
 道道43号線に折れて鹿部町の道の駅に向かう。
 海辺に近づくと途端寒さが増した。八月だというのに恐ろしい。
 道の駅・しかべ間欠泉公園に着いて、堪らずトイレに駆け込んだ。身体が冷えて膀胱が破裂しそうだったのだ。
 長々と止まらない小便を垂れながら、何か温かい物を食べて身体を温めようと考えた。
 先ずはスタンプを押して、何か温かいものはないか探してみたのだが、自慢らしい食堂はまだ開いていなかった。
 自販機にもホットドリンクは売っていなかった。そらそうだ。八月だもの。と心の中で言葉にした。
 表にある温泉蒸し窯は、中で商品を買えば無料で使えるらしいのだが、食べて直ぐに身体が温まりそうなものはなかった。
 自販機に戻って缶コーヒーを一本買った。それを持って温泉蒸し窯に向かい、釜の蒸気が漏れ出る場所に缶コーヒーを置いて温めた。
 温まるのを待っている間、硫黄臭のする蒸気に囲まれていた。そのうちに身体も随分と温まってきていた。
 時々缶を触ってみて、外が熱くなっているのでバンダナを手に缶を軽く振って確認してみたが、なかなか中身まで温まることはなかった。
 身体はだいぶん温まってきていた。最後に程好く温まった缶コーヒーを一気に飲んで先へと急いだ。
 直ぐに函館市に入った。本当は昨日、此処で感動のフィナーレを迎えるつもりでいた。どうも上手くいかないようだ。はるばる来たぜ函館、とはならなかったのだ。
 道の駅・縄文ロマン南かやべがある、山の中を進む新しい国道を走るか、それとも臼尻漁港と書かれている海沿いを行く昔からの国道を走るかを悩んだが、俺は何故か真っ直ぐ古い国道に入っていった。
 狭い道は路面が悪く、その代わりに海ギリギリに通っているところがあって、白い波が岩に砕けて空高くに舞って綺麗な姿を見せてくれた。
 遠くに見える山々には、予報通りガスが薄っすらとかかっている。そして、両側に人家が建つ漁師町の集落の中を走ることになった。
 そろそろ飽きてきたのと身体も冷えてきたので、川汲で右折し新しい国道278号線へ出た。右折して来た方向へ後戻りした。
 道の駅でスタンプを押して直ぐに出発した。
 こっちの道の方が広くて路面状態も良く、何より暖かかった。だが、直ぐに道は海沿いを進むことになった。
 ひたすら最後の道の駅へ進んで行く。
 走りながら、こういう目的を作って北海道を旅して良かったと思った。そうでなければ単なる観光ツーリングになってしまい、北海道の文化に少しも触れることもないまま、もっと早くに津軽海峡を渡っていたことだろう。そう思うと、この旅で出会った人達の顔が次々に浮かんできた。
 そうだ。彩香との関係に、どう終止符を打てばいいのだろうか?
 そうこうしているうちに、最後の道の駅・なとわ・えさんに辿り着いた。
 スタンプを押してから売店に行き、店員の女の子に全駅完全制覇のチェックを受けた。
 名前の記載されていない全駅完全制覇の認定書にするか、後日、申込用紙を北海道地区「道の駅」連絡会事務局に送り、名前の記載された認定書を送ってもらうか選択出来ると説明を受けた。
 俺は後者を選択して申込用紙に道の駅確認印を押印してもらった。
 全駅完全制覇は感慨深かった。スタンプブックを見せると10パーセント引いてくれる昆布ソフトで、一人乾杯した。浜辺の風は強く祝福してくれた。
 コーンまで綺麗に腹に収めて、俺は震えながら相棒を発進させた。
 国道278号線を四十分ほど走って函館空港を目指した。ここなら何か俺の身体を温めてくれるものがあるはずだと踏んだのだ。
 だが、街に入るとそれほど寒くはなく、空港手前で目に飛び込んできた、写真入りのトラピスチヌ修道院の看板に釣られた。
 左折して、あとは現れる指示標識に従って進んで行った。
 何故、俺は、其処に行こうと思ったのだろう?
 次の指示標識が出てくる手前で、そう思った。
 道道83号線に出て右折する。この道は……。ああ、あそこに繋がっているのか、と、納得する。
 帰り道がわかればこっちのものだ。
 何故?と思ったことなど忘れて、意気揚々とトラピスチヌ修道院へ向かった。
 道の端に相棒を停めて、俺はレンガ色のタイルを貼り付けた門を潜り、フラリと敷地の中へ入った。
 足を踏み入れた瞬間、俺が行きたがったのではなく、俺は此処へ呼ばれたのだと思えた。
 修道院は、なだらかな斜面の上に建っていて、出迎えてくれたのは大天使聖ミカエルの像だった。
 ゆっくりと坂道を登って行くと、聖母マリアが大きく両手を広げていた。
 そのまま庭園のような中を進んで行き、一番奥の聖堂まで辿り着いた。
 人気がなくなり、俺一人取り残された感覚に陥ったが、それが何故だか心地良く、何か見えぬものに包まれているような安心感が生れていた。
 もう少し、頑張って生きなければならない。と、俺の何処か隅っこで響いていた。
 ちょっとイラっとした。
 神も仏もクソ喰らえの俺なのだ。どうしたことか此処へ呼ばれて、生きろという幻聴を隅っこで言いやがった。
 だが、イラっとした癖に、心が穏やかなのは変わりなかった。
 そのうちに雲の切れ間が現れて、頭上にだけ青空が小さく姿を見せていた。
 ムカつくが、頭の片隅に置いておこうと思った。

よろしければ、サポートお願い致します。全て創作活動に、大切に使わせていただきます。そのリポートも読んでいただけたらと思っています。