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ロング・ロング・ロング・ロード Ⅲ 道北の蒼 道央の碧 編  9

 『今日未明、小樽運河で男性がうつ伏せで浮かんでいるのが発見されました。死亡していたのは大阪からの観光客とみて、警察では事件事故両面で捜査を進める模様です』
 たったこれだけの記事だった。写真は小樽運河の写真でイメージと注釈されていた。
 「ニュースはたった三行で、名前も載ってないぞ」
 ――そりゃそうだろ、第一報だ。それに最近のネットニュースはそんなもんだ。これは俺の客からの情報だ間違いない――
 「丘崎はまだ入院しているはずや」
 ――丘崎が入院?――
 「ああ、札幌で外国人らしい集団に襲われて入院中や」
 ――今、北海道で何が起きてる?――
 「わからん。俺には、さっぱりわからんのや」
 そこからは、三宅雅和の家であった出来事や、船本から聞いた話を、俺の感想を絡めて全て徳永に吐き出した。勿論、今の俺には手に負えない事案だと吐露もした。
 話しながら、徳永がいてくれて良かったと強く思った。特別、独りで生きているのだと感じている訳ではなかったが、そう強く思ったんだ。
 そうやって話していくうちに、俺の中である仮説がぼんやりと姿を見せていた。
 ――まぁ、お前がそう思うなら、少し距離を置くのもいいかもな――
 徳永はそう言って電話を切った。

 窓の外は雨も降らず、意外に明るかった。
 取り敢えずシャワーを浴びた。
 髪を洗いながら、三宅雅和の力強い目力が瞼の裏に浮かんだ。
 シャワーを止めて水音が消えたバスルームに、微かにガラ軽の着信音が鳴っているのが聞こえてきた。
 バスタオルで身体を拭いていると着信音は鳴き止んだ。
 素っ裸のまんまバスタオルを肩にかけてバスルームを出る。作り付けの壁際のテーブルから椅子の座面の上に、ガラ携が移動していた。
 持ち上げた途端ガラ携は、小さな画面に時任の文字を繰り返し流しながら、着信音のトラッキーのテーマを吐き出した。着信ボタンを押して手を目一杯に伸ばした。
 ――早よ出んかい、ボケ――
 いきなりのヒートアップに、俺は戸惑いを感じた。こっちに来てから喧騒に身を置くことが少なかったからか、たった一人で大阪の悪い所を背負って立っているような時任を、なんて馬鹿げているのだろう、ナンセンスだと冷ややかに思った。
 ――オイ、お前。高峰が殺されとるやないけ、お前。どないなっとるんじゃい、ええっ。ワレ、しばくどボケ。こっちは振り込め詐欺で高峰をパクる段取り組んどったんじゃい。台無しやないかい。ドアホが――
 なるほど、こっちがメインだったのか。それでスッキリ腑に落ちた、それにしても、この人も奇特な人だ。これほど自分の感情を何の衒いもなく、他人におっぴろげる人間も珍しい。
 「何をごちゃごちゃ喚いとるんじゃい」
 ――そやかて、そうやろ。いったい北海道で、何が起こっとるんじゃい。言うてみぃ――
 「知らんがなそんなん。公安の人間に訊いたらええやろ」
 ――それが出来んから、オドレに電話しとんじゃい。ボケが。北海道におんねやろうが?――
 「俺?俺は北海道おるけど、紋別やで」
 ――紋別?小樽からスッと行けるとこちゃうんかい?――
 出た。これが北海道を知らない人間の考え方だ。
 俺だって北海道を走る予定を立てだして、初めて北海道は広いのだと知り、実際に走ってみて、これほど広大なのだと気づかされたのだ。
 「高速使っても四時間以上かかるで」
 ――四時間も?北海道やろ?どんな田舎におんねん――
 大阪で住んでいる距離感との違いに頭が混乱しているのだろう。
 「で、どんな状況やの?」
 素直に理解出来ない事象に脳味噌を使ったせいで少し落ち着いたのか、巻き舌が収まった時任は話し出した。
 一時間半前に道警の札幌方面小樽署から問い合わせがきた。偶然、時任と小池が当番だったので電話に出たところ、高峰の死を聞かされたという。
 元々二課と合同で進めていた振り込め詐欺事件の捜査本部には、上から高峰に触るなの指示が下りていた上に、その高峰が殺されたのだ。頭にくるのは仕方がないと時任は言った。
 遺体は、指紋と紋々と左頬の傷から高峰だと完全に判別出来たのだが、何の為に小樽に来たのか、何か情報はないかと電話してきたらしい。
 時任は、公安案件だとは口に出さずに、逆に色々とツッコんでみたのだが、まだ発見されたばかりで何も情報は訊き出せなかったと言った。
 電話を切って直ぐに、花押会の事務所に乗り込んだのだが、事務所番しかおらず、組長他主だった面々を無理やり呼び付けたのだが、誰も高峰が何をしているのか知らず、北海道で殺されたことを話しても、皆、何故、北海道で?と首を捻るだけだった。そして、誰一人嘆き悲しむ者はいなかった。
 組長の鳴宮だけは意気消沈していたらしく、時任と部屋で二人っきりになった時に、高峰はいい金儲けの話が来たと話していたが、誰と組んでどう儲けるかは聞いていないと話した。そして、「あんな奴でも死んだら淋しいな。早く犯人を見つけ出して欲しい」と時任に言ったという。
 ――二次団体の花押会も少数高齢化が進んでてな、あれじゃ今の時期、自分達だけでは犯人をよう捜し切れんのやろう。お前もええ時期に足洗ったもんや。沢木の親分は、よう先を読んでたんやなぁ――
 かもしれないが、マル暴が口から出すセリフではない。
 「丘崎のことを訊かへんかったんか?」
 ――公安案件は、俺にはどうしようもない。悔しいしムカつくけど、俺らの口から高峰と丘崎の関係を漏らすことは出来んねや。けど、京都府警の奴から丘崎の情報は集めとる。恒星会の会長の吉見が引退して、丘崎が跡目継ぐんや。京都三乃組はまるっぽ恒星会に吸収や――
 「吉見が?」
 ――そうや、どこもかしこも老齢化に人手不足や。分裂してからは特にそうや。吉見も年やからなぁ。丘崎は、西銀盛会系の四次団体の組長から、三次団体の組長へ格上げや――
 「友根組の前川が、よう許したな」
 友根組は恒星会の上部組織だ。そこの組長・前川は、昔気質の男だった。
 ――かなり金が流れたそうや。少なくても五億は動いたらしいで――
 このご時世で五億は魅力的だ。皆、金の前には平伏すのだ。たとえ前川といえどもヤクザなのだ。
 ――おい、お前、公安から何か情報もろてないんか?――
 「残念ながら蚊帳の外や。高峰が殺されたんはツレから連絡貰った」
 ――へーっ、お前にも友達おったんかい――
 「ほっとけ。あっそうや、丘崎が襲われたんは知ってるなぁ?」
 ――いや、知らんど。どういうこっちゃ?――
 道上から聞いた話をそのまま時任に伝えた。
 ――ほな、その外国人集団に高峰も殺られたってことか――
 まだ時任にはJ-Rowanのことは話していなかった。が、これ以上踏み込んで、また徳永に迷惑が掛かるのは非常に不味い。俺は黙っておくことにした。
 時任の電話を切ったあと、予報が外れて青空が広がっていることに気がついた。急いで天気予報を調べた。今日の道北の雨は明日に持ち越され、空調が効いているのでわからなかったが、気温も夏らしい温度に上がるようだった。
 マップを開けて何処に向かうかを決める。
 直ぐに瞰望岩が頭に浮かんだ。
 あの巨岩の上でゆっくりとお茶をしたいと、旅立つ前から思っていたのだが、前回行った時には上り道がわからなかった。暇を見つけて調べ、頂上まで上れる道を見つけた。もう大丈夫だ。
 室内電話で隣にかけた。しかし、道上は出なかった。シャワーを浴びているのか、それとも、俺への金魚の糞役を解除されたのか。
 ヘルメットとタンクバッグとクリーニングに出すタンカースジャケットを持って部屋を出た。
 道上の部屋をノックしてみたが何の反応もなかった。
 エレベーターホールでエレベーターを待つ間、何となく窓から外を見下ろしてみた。車寄せにタクシーが入って来た。誰が乗るのか見ていると、道上に支えられた船本がタクシーに乗り込んだ。エレベーターがやって来たのだが乗れなかった。タクシーが出発すると、道上は電話をかけた。俺は少し嫌な感じがした。
 エレベーターは、まだこの階で扉を閉めたまま停まっていた。ボタンを押すと直ぐに扉が開いた。
 俺は入って一階のボタンを押した。箱が降下し出すと、何だか向けどころのない怒りが湧いてきた。
 ドアが開くと道上が立っていた。
 俺は機嫌の悪いまま無視してフロントへ向かった。別に道上が悪い訳ではないのはわかっていた。
 「何処へ行くんですか」
 道上は俺のうしろについて歩きながら訊いた。
 ロビーで鍵を預け、タンカースジャケットをクリーニングに出してくれるように頼んだ。
 俺は振り返り、「瞰望岩」とだけ声にした。
 道上はエレベーターホールへ走り出した。

 国道239号線をいつもどおりにのんびりと行く。前に走った時の記憶が蘇り新鮮味はなかった。
 雲は多いものの切れ間から覗くお天道様はギラギラと俺を照りつけた。Tシャツに薄手のパーカーで走っていても丁度良かった。
 一人で走るのがとても久し振りのように感じられたが、そんな俺だけの旅も湧別町に入る手前で二人旅に戻ってしまった。
 国道242号線へ右折する。この先の景色もハッキリと思い返せた。曇り空だった。伽奈を抱いた日だ。北見から道の駅おんねゆ温泉へ行って留辺蘂に戻り瞰望岩へ。そこからサロマ湖へ行った道程で通った道だ。あの日、置戸と訓子府のカントリーサインを撮りに行けばよかったのだ。
 遠軽町の街に入っても瞰望岩は見えない。大通南2の交差点を右折して踏切近くまで行ってやっと姿を拝めた。
 前よりも蒼が濃くなっていた。
 ぐるっと回って瞰望岩を登る。駅の蕎麦屋のお婆さんの言葉は間違いではなかった。相棒を停めてタンクバッグを担いで山道を登った。やはり息が切れる。こんな身体でこの先を生きれるのか不安が過る。だが、残り少ないので安心もした。可笑しかった。
 東屋風の屋根が見えた。テーブルも見えた。やっと頂上に登りついた。風が温かった。
 タンクバッグを東屋のテーブルに置いて、俺は端っこまで行って下界を眺めた。
 ここから落ちれば確実に死ねる。ここが旅の最後でなくて良かった。道上は高い所が駄目なのか、心配そうに「落ちないで下さいよ」と声をかける。
 俺は端に座って脚を宙に下した。遊園地の回転ブランコに初めて乗った時のような気分だった。
 昔のアイヌの人達のことを思いながらボーッと眺めていた。灰色の空が広がっていた。置戸と訓子府には行けるだろうか?このまま雨さえ降らなければ、三国峠を走ってみるのもアリなのだろうか?どちらの空も灰色で埋め尽くされていた。
 そのうちに、頭上だけ雲がなくなって、ジリジリと露出している肌を焼いていった。今日は風もない。
 東屋に戻ってコンロをセッティングして湯を沸かす。念のためにと入れてきた変形しまくった紙コップも取り出した。
 「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
 道上はコーヒーを選んだ。お金を払うとは言わなかった。俺は、入院中に売店で偶々出会った物語の中の探偵に倣って、プリンスオブウェールズを淹れることにした。
 先ずは道上のコーヒーを淹れる。紙コップで飲むコーヒーも、この景色を見ながらだと美味しいかもしれなかった。
 俺はアルミカップでプリンスオブウェールズの香りを堪能する。これでいいのかどうかはわからないが、これがプリンスオブウェールズなのだと認識は出来た。だが、この炎天下の下でのホットドリンクは最悪だった。一口飲むごとに体温が上がって、汗が一筋二筋ともみあげや襟首あたりを流れた。それでも瞰望岩から下界を眺め飲むプリンスオブウェールズは旨かった。
 十二分に堪能して下りた。
 取り敢えず国道242号線で置戸町へ向かったが、佐呂間へ向かう国道333号線との分岐まで行ったところで諦めた。その先の空は真っ黒だったからだ。
 引き返し、今度は旭川方面へ向かう国道333号線で三国峠に向かうことにする。途中から無料の旭川紋別自動車道に乗ったのだが、白滝の手前で雨がポツリと落ちてきた。そのずっと先に見える景色は明らかに雨で霞んでいた。
 白滝で降りてそのままUターンした。湿気を含んだ空気は冷たかった。青空の丸瀬布で降りて道の駅で昼飯を食べることにする。
 じゅんさいのざるそばに興味を惹かれたが、タンカースを着ていない身体は冷えていたので、温かい野菜天蕎麦を食べた。甘めの汁で身体は暖まった。
 店を出て紋別までどう帰ろうかと地図とにらめっこした。
 道道305号線に『金八トンネル』というものを見つけた。そして、その道は紋別の街の中を通る、俺達がホテルまで走った道の続きだった。
 のんびりと山の中へと進んだ。金八トンネルが直ぐに現れたが、何の変哲もないトンネルだった。
 トンネルを抜けると道は、小さな川に沿うように作られていた。晴れ渡ってきたので気持ちは良かったが、山間部で、あまり北海道らしさという感じではなかった。
 途中の上藻別にあった旧上藻別駅逓所で休憩した。流石に古い建物は如何にも北海道らしい。これがあるだけで開拓の香りが漂っている。国の登録有形文化財と表記されている臙脂色の建物を写真に収めて出発した。
 なんでこっち方向だけ晴れてるんだ。そう文句を言いたくなるほどに晴れだした。袖口の肌が赤く焼けている。紋別まで快適に走り着いた。
 恵美との待ち合わせまでには随分と時間があった。
 地図を眺めてオホーツク森林公園にあるオホーツクスカイタワーを見つけた。そこへ行ってみる。
 流氷展望台の時よりも晴れていたからか、街がとても美しく見えた。そして、気持ちがスッキリしていることに気づかされた。
 旨いコーヒーが飲みたくなった。
 前に通った時に見つけた国道沿いの喫茶店でコーヒーを飲む。周りは喫茶店なのに旨そうな蟹チャーハンを食べていた。
 持ち込んだ地図をテーブルに広げた俺は、前に座らせた道上から、道北の山間部に残る町々の情報を仕入れようとした。
 「国道40号線はトラックやダンプの交通量が多くて、走りにくいらしいですよ」
 道上もあまり詳しくない様子で素っ気なく言った。
 急にコーヒーまで素っ気ない味に変わる。
 ホテルに戻り温泉に浸かった。道上とは会話がなかった。
 時間まで部屋でゆっくりと過ごし酔興亭へ向かった。
 足取りは軽かった。俺には温泉というものが合うようだった。
 酔興亭ははまなす通りにあるビルの二階にあった。
 白木のドアを開けると若い女性店員が現れ、俺が三宅恵美の名前を告げると「承っております」と言って中へ通してくれた。だが、次にドアを開けた道上は満席らしく断られてしまった。
 店は活気があり大盛況だ。テーブル席に陣取った団体客は、聞き取れないような北海道弁を飛び交わせていた。
 恵美はカウンターの奥に座っていた。その横が一つだけ空いている。
 「ごめんね。仕事が早く終わって、もう呑んでるのよ」
 恵美はビールジョッキを掲げてそう言った。お通しの小鉢が空になっていた。
 俺もビールを頼み乾杯した。
 「あれが、直ちゃん」恵美が手で指したのは、カウンターの中で店員達に指示を出しながら包丁を揮っている三十代ぐらいの短髪の男だった。「私、直ちゃんのおしめ替えてたのよ」と付け加えた。
 なるほど、本宮直樹もここ紋別の出身で、本宮の親の代からの付き合いがあるようだ。
 「お任せにしたからね」そう言って笑った恵美は、今日は綺麗に化粧していて昨日よりも美人だった。
 刺身から始まったお任せは全て美味しかった。だが、素材が良いのだからあまり手の込んだ物は要らないと俺は思った。
 道上がいないのが俺の心を軽くしたのか、恵美とのざっくばらんな呑みはとても楽しかった。別に特別なことを話す訳でもないのに会話のキャッチボールが止まらなかった。ただ、三宅和幸の話をした時、恵美は涙をおしぼりで拭った。
 結局今夜の本宮は忙しなく、視線が時折合うもののあまり会話が出来なかった。
 お会計を頼むと、あれだけ呑んで食べて二人、一万円でお釣りがきた。
 帰り際に本宮が、「明日もお待ちしています」と言って見送ってくれた。
 階段を下りると向かいの電柱にもたれた道上が立っていた。俺に気がつくと、左手に提げたコンビニのビニール袋が侘しく揺れた。
 恵美がもう一軒行こうというのでついて行った。通りの外れにあるバーだった。
 道上は少し距離を置いてついてくる。
 恵美は常連らしく、カウンターの中に一人いるバーテンが、「あれぇ、恵美さんが男連れてるなんて……雪でも降るんでないの」と言うと、恵美は「うるさい、幹夫」と返した。
 俺はドライマティーニ、恵美はハイボールを注文した。
 道上は、俺が女連れなので気を遣ったのか店には入ってこなかった。
 最初は俺達の相手をしていたバーテンの幹夫だったが、観光客らしき標準語の老夫婦が来るとそちらの相手をした。そのうちに若い客も増えてきた。
 「幹夫の爺ちゃんも、ウチの船に乗ってたのよ」
 「へぇ、あのロシアに拿捕された時も?」
 「そう。昭夫さんっていってね、よく可愛がってもらったの」
 昭夫、二年前にガンで亡くなった里中昭夫だ。
 「そういえば、雅和さんが『サブには悪いことをした』って言うてはったけど、何かあったんですか?」
 「ああ、うん。サブちゃん、ロシアに捕まったの二度目だったの。だから、五年前も父さんに『無理するな。GPS見て気をつけろ』って言ってたらしいの。けど、探知器の画面に映った蟹の大群を確認した父さんが、欲を出したから捕まったらしいのよ。それに他にも何かあるらしいけど、私には話さないのよ。直ちゃんに尋ねても、女の私には言わないのさ」
 そう言ってお代わりを頼んだ。
 それから一時間程馬鹿話に花を咲かせて、恵美はタクシーで帰っていった。
 俺は消化不良な気分を抱えたまま、夜の紋別を歩いた。道上がいないことに気がついたのは、ホテルに着く手前だった。
 道上のバイクは停まっていた。何かあったのだろうか?
 フロントで尋ねてみると、道上は少し前に戻ってきているそうだ。
 鍵と一緒に受け取ったクリーニングを終えたタンカースジャケットは、透明なビニール袋で包まれていた。ジャケット前面の汚れは綺麗に消えていた。
 事件は解決を見たのだろうか?エレベーターに乗り込み考えてみたが、俺の中では何も解決しないので道上の部屋をノックした。
 「はーい」と声がしてドアが開いた。
 「今、お帰りですか?」
 「うん。道上君おらへんからびっくりしたわ」
 「すみません。お声掛けしようか迷ったのですが、お連れの方と楽しく飲まれていたので遠慮させていただきました。実は、先ほど連絡がありまして、獅子王さんの警護の解除を言い渡されました」
 「ああ……、そう」
 「それで明日の朝、札幌に戻ることになりました」
 「それは、それは、ご苦労様でした」
 「短い間でしたが、一緒に走れて良かったです。事故には気をつけて、旅を楽しんで下さい」
 笑顔で道上は言った。俺が「ありがとう」と言うと、「あと、後タイヤにスリップサインが出ていますから交換して下さいね」と言ってドアを閉められた。益々消化不良が蓄積していった。
 自分の部屋に入ると、拍子抜けしている自分に気がついた。最後まで道上とは心が通わなかったのだ。
 いつものをプシュッと開けて、心の中の足りない部分を琥珀色の液体で満たすように喉から流し込んだ。
 PCを開けて天気予報を調べた。明日は道内全域、一日中雨予報だ。道上は雨の中札幌へ帰ることになったのだ。それだけは可哀そうだと思った。
 それから後タイヤを何処で交換するかを考えた。明後日の旭川で交換するには時間がない。もう一泊連泊するか?
 一缶では満たされはしなかった。ウイスキーをグラスに注いだ。
 明日は、また温泉三昧の一日だ。そう思うと今夜は酔っても構わない。小樽を出てからずっと酔えないでいたのだ。雄武町のホテルでは、眠るために呑んでいただけだった。
 久し振りにEAGLESを流した。
 久し振りに喰うポテトチップスはウイスキーによく合った。
 久し振りに一人でいることがとても淋しく感じた。肌の細胞が欲している。
 何も考えずに酔おうと思っているのに、次から次へと疑問が湧いて、酔いを邪魔していく。
 EAGLESの二枚組が終わったところで、こんな時にはと思い、部屋を出てエレベーターホールにあるプリペイドカードを買いに行った。
 呑みながら、画面に流れている行為と、スピーカーから漏れる音や声を、俺は只々受け止めた。
 酔いが少し回り始めた頃、画面にはタイプではない熟女が汗みどろになって乱れていた。恵美はどうやって喘ぐのだろうか?そう思うと何故か硬くなった。

 雨の一日は酒と音楽と温泉で時は流れて、紋別最後の夜はスッキリと始まった。
 結局タイヤは、明々後日の14時に札幌のショップまで行かなければならなかった。そこ以外ではニ、三日預かりになるところばかりだった。そして、天気予報は札幌に着いた次の日からぐずつく模様だった。宿も余裕を見て五泊押さえた。前にも泊まったホテルだ。もっと中心地のホテルにしようと思ったのだが、すでに夏料金に変っていて倍以上の値上がりになっていた。だから値上がり具合がまだマシなそこに決めたのだ。温泉があるのも身体には都合が良かった。
 開店と同時に酔興亭へ入店した。
 今日は、カウンターの出入り口に近い隅の席に通された。
 「昨日はありがとうございました」
 その出入口に立って本宮は礼を言う。
 「いえ、ご馳走様でした。今日もご馳走になります、楽しみにしています」
 「今日は貝を出そうと思うんですけど、貝は大丈夫ですか?」
 「大丈夫です。北海道に来てから貝が大好きになりましたから」
 「それなら良かった。今日は昨日ほど忙しくないと思うので、お相手出来ると思いますよ」
 そう言っていたのだが、地元民らしき客が次から次へとやって来て、テーブル席が全て埋まった。それでも今夜は、昨晩見なかった板前が一人いて、本宮と二人並んでテキパキと注文をこなしていった。
 ツブとホタテと昨夜もあったカレイの刺身を突きながら、旭川の鰊御殿をやった。ひと通りツマミが運ばれて、“スズキのムニエル・炙り雲丹とともに”がやってきたあと、本宮直樹は俺の横に立って相手をしてくれた。
 何気ない会話から始まって、俺は五年前の拿捕の話を尋ね、三宅雅和が篠原三郎のことを気遣っていたことも話した。
 「ああ、それね」
 何かあったのは間違いないらしい。
 「恵美さんが言ってましたよ。お父さんも直ちゃんも話してくれないって。女だから言わないんだって」
 「恵美ちゃん、サブさんのこと良く思っていないし。恵美ちゃんに話すと、オヤジさんにもねぇ……」
 そういって言い淀んだのだが、俺は呑ませて喋らせた。
 本宮の話では、恵美は漁期の途中で突然辞めた篠原三郎のことをよく思っていないのだという。だが篠原三郎は、拿捕された紅海丸の乗組員にとっては救世主なのだと言った。
 ロシアでの拘留が二ヵ月を過ぎた頃、三宅が話していた日本語が話せるロシア人とは別の日本語が話せないロシア人に、「俺の言うことをきかなければ無事には返せない」そう脅されたのだという。それを最初に通訳したのが篠原で、副船長の勇作の父親・木村勇三に伝えたのだった。その頃三宅は体調を崩して別室に隔離されていた。ロシア語の話せない勇三は、大学でロシア語を専攻し堪能だった息子の勇作と、二度目の拿捕で度胸のあった篠原の二人を通訳にして、一人話を進めていった。「船長には何も言うな。俺に任せろ」の勇三の言葉に従うことにした本宮も里中昭夫も、それがどんな交渉条件で、どう進んでいるのかはわからなかった。けれど、一週間ほど経った頃、一度だけ篠原が声を荒らげた。「これじゃあ、いつまでたっても帰れない」と。それを聞いていたのは里中で、心配になって三人が戻って来た時に尋ねたのだが三人とも無言だった。すると、篠原が「俺がやるから。したら帰れるべや」と言った。そのまま篠原は部屋を出て行き、心配そうに勇作があとをついて行った。そうすると急に待遇も良くなって、一週間後に無事に日本へ帰ることが出来たのだという。結局、本宮はロシア人からの交換条件が何なのかはわからずじまいだったが、篠原が紋別を去り、勇作まで去った今は、二人には感謝しかないと本宮は締め括った。
 どういうことだ?
 あっ、そういうことか。
 少しだけ、かかっていた靄が薄くなったのを俺は感じた。
 「雅和さんは、皆さんに愛されているんですね」
 「それは違う。オヤジさんが、俺ら皆を大きな愛で包んでくれただけだ」
 本宮は爽やかに言った。
 三宅雅和は、情の深い、立派な男なのだと再認識した。だからこそ、丘崎のことは知らない方が良いのだ。船本に吐いた俺の言葉は間違っていなかった。
 今夜は昨夜以上に安かった。そして帰り際、今日の話は恵美ちゃんにはこれでと、口の前に指を一本立てた。
 俺は、昨夜と同じコースを辿った。足らないものを補う為に。
 里中幹夫は若い女性客三人組の前で、俺が入って来たのも気づかないほどにはしゃいでいた。
 俺がスツールに座りタンカレーのジントニックを待っていると、ドアが開いてガヤと共に三人組の若い男性客が流れ込んできた。どうも先客の女性達と待ち合わせだったらしい。
 幹夫は俺の前にジントニックを置いたあと、男達のビールを注ぎ終わると俺の前に戻って来た。少し名残惜しそうなのが面白かった。
 俺は幹夫にも酒を勧めて、乾杯のあと直球を投げ込んだ。
 幹夫は木村勇作とは幼馴染の同級生で、自分とは違い、勇作は子供の頃から秀才だったと言った。
 勇作は、中学まで紋別にいたのだが、高校からは札幌にある三宅恵子も通った進学高へ入学したのだという。本当なら高校へ行けるような裕福な身分ではなかったのだが、雅和が金を出していかせたのだそうだ。
 幹夫は、雅和のことを人が好過ぎると言った。何でも、勇作の祖父・又三が作った借金の保証人に恵美の祖父・木村双一郎がなり、又三は借金を返す前に死んでしまったのだ。借金の肩代わりで傾いた会社を立て直し、その上、借金を被せた男の孫の高校どころか東京の大学まで面倒を見るなんて、人が好過ぎるのにもほどがあると言い切った。
 時々、若者達の酒を作るのに離れたが、幹夫は戻って来て俺の相手をしてくれた。そして、俺の中の空間を埋めていった。
 死んだ自分の父親も含めて紅海丸の乗組員は皆、いや、その息子の自分だって雅和の優しさに救われてきたのだと言いながら幹夫は遠くを見た。
 最後に俺は尋ねた。
 「明日、興部から内陸に入って、国道40号線沿いの市町村を巡ろうと思うんやけど、何か良い所はないかなぁ?」
 「なして、そんなとこ行くの。蕎麦以外何もないよ。新蕎麦の時期に行かなきゃ」
 「市町村のカントリーサインを撮って回ってて」
 「どうでしょう?か」
 そう言って幹夫は大笑いした。
 ホテルに戻ってまた温泉に入った。やはり今夜も酔えなかった。
 スッキリと始まった夜は、気持ち良く過ぎた。
 明日は道北最後の日になるのだろうか?いや、置戸町と訓子府町が残っている。最後の三国峠の前に終わらせなければならない。道央の方が先に終わるのではないだろうか?
 そんなことを思いながら、ゆっくりと眠りについた。

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