ロング・ロング・ロング・ロード Ⅳ 道南の涙 編 エピローグ
長年の憧れだった北の大地での長い旅も、あとはこの船に乗って、出航の汽笛を聞くだけとなった。
勿論のことだが、車に比べ、二輪車の乗船台数は極端に少ない。少し前なら毎日、予約一杯の×マークが並んでいた青森行きのフェリー。だが、盆も開けた平日の待機場には、相棒以外に二台しかバイクは並んでいなかった。
俺は相棒に跨ったまま、乗下船口から流れ出てくるトラックの数珠繋ぎを、ボーッと見ていた。
何か、思っていた旅とは随分違う旅になってしまった。
インケツの始まりは、何処までも続く長い海岸線を走り、行き着いた先にあった風が吹きすさぶ、“何もない”と唄われた襟裳岬だった。
そこでアイツ等に出会しさえしなければ、俺の旅も、もっと違ったものになっていたはずだった。
十勝の大地の広大さに真正面から圧倒されまくり、富良野・美瑛の佳麗ともいえる景観に酔いしれて、道東のかくも壮大な地球の丸みを見せるパノラマに打ち震え、異界の地を行くようなオロロンラインを良い気分で満喫し、オホーツクのエサヌカ線でホッとするよりも感動そのものに包まれて、札幌、釧路、旭川、帯広の街では、浴びるほどの酒池肉林を堪能出来たはずだ。もしかしたら、何気ない道でさえ感動出来たかも知れないのだ。
そしてもっと、179市町村のカントリーサイン制覇と、道内・道の駅制覇で得もいえぬ達成感に包まれ、もっと腹の底から込み上げてくる感慨深さを味わえたはずだった。
どれもこれも、その合間に起きた出来事で、素直に受け止めきれない旅になったのだ。
朝市と倉庫街の途中にあるホテルを出て、曇天の海沿いを走っていると、まだまだ走り足らない気もしたのだが、今更、十勝や道東、道北まで行く気力も体力も財力もなかった。
久保奈生美捜索のギャラの前金の残りは、笹森家を出てから今朝までの四日間でなくなってしまった。本来、美枝子が払わなければならない類の金ではないのだが、俺はそれを少し当てにしていて、長谷さんとの最後の別れ際、気前良く両手を折り畳んで胸ポケットに差し込んだんだ。それほど、長谷さんの張り付きには感謝したのだ。
だが、美枝子に痛い思いをさせてしまい、自分から成功報酬の催促は出来なかった。それに、あの朝、屋敷に戻って美枝子と成功の酒盛りをしたあと、部屋に戻って明日からの予定を彩香にメールした俺は、疲れからか、次の日の朝、美枝子が沢木の三回忌へ出るために丹後半島へ向けて屋敷を出たあとまで、アラームも無視して一切目を覚まさなかったのだ。
だから、静江さんにはちゃんと礼を言えたのだが、美枝子には世話になった礼も別れの挨拶も言えていなかった。
「こちらからまたかけるから。電話してくんな役立たず。との託を、お嬢様から伺っております」
そう静江さんに真顔で言われ、美枝子はかなりご立腹なのだと少し落ち込んだ。
「それと、よくやった。ご苦労さん。誠はエライ。と付け加えてくれと」
最後の美枝子らしいメッセージを聞いて、少しは気持ち良く笹森家をあとにすることが出来た。
そんなことももう、とうの昔のような気がしていたんだ。
「よおっ」
聞き馴染みのある声がうしろから聞こえた。振り向くと、お節介にもハネさんが一人見送りに来てくれたのだ。
「ああ、ハネさん。態々見送りに来てくれたんですか?」
「好きで来たんじゃないぞ。静江さんに頼まれたから来たんだ」
俺は直ぐには理解は出来なかった。
「お嬢さんが、あんたに渡し忘れたものがあるからっていうから、俺が預かって来ただけだ」
何だろう?元警察官が運んでも大丈夫な物なのか?それよりも疑問が湧いた。
「よくこの船やって、わかりましたねぇ」
「津田に聞いたから。これ。ほれっ」
なるほど、合点がいった。
ハネさんが手渡してくれたのは、棒二森屋と書かれた小振りな紙袋だった。もしや成功報酬か?と思ったのだが随分軽く、紙袋に入っていた茶封筒で包まれた物を取り出すと、その中でカタカタと音がしていた。
「何ですか?」
「さぁ、わからん。青森の街が見えたらそれを開けろっちゅうことだ」
「青森ですか?」
「そうお嬢さんが言ってたって、静江さんが」
「は、はぁ……。わかりました。青森が見えたら開けるんですね」
「じゃあ気をつけてな」
「えっ、見送ってくれないんですか?」
「なして、俺が男のあんたを見送るんだ?用は済んだから帰るよ」
何とも味気ない。
でも、それもそうだと俺は思った。あの朝、相棒を停めていた、あの建物のシャッター側の道まで俺を送ってくれた時に、ハネさんが俺のことを嫌いなのだとわかったんだ。
“あんたが久保奈生美を見つけ出してくれたのには、とても感謝している。でも、やっぱり俺は、元警察官だ。だから、あんたのやり方を認められねぇし、気に入らねぇ”
そんな言葉を言われたのは、もう明るくなった街で、赤灯を回し、道を封鎖しているパトカーの鼻先に、加齢臭が染みついた黒い軽自動車を横付けした時だった。
「ハネさん、お元気で」
「ああ」
そう言うと踵を返して駐車場の方へ歩いていく。
ハネさんは、とても強い人だと俺は思っている。一人娘が死んでいた現実を突きつけられても、久保奈生美を助け出すことに最後まで全力を尽くしていた。俺はその背中に最敬礼した。
頭を上げると、ハネさんが急に振り向いた。何だろう?
「また函館に来たら、電話しろよ。今度はちゃんとした店、呑みに連れてってやるから」
それだけ言って背を向けた。
「はい、電話します。呑みましょう」
そう、遠ざかるハネさんの背中に投げかけた。
ハネさんがいなくなると、それまでなかった微かな淋しさが、下腹の当たりから胃の辺りまでせり上がってきていた。
乗船が始まった。
福井の敦賀から乗り込んだ船よりも小さく低いのと、荷物が随分小さくなったお蔭で、乗船用の鉄の道はそれほど気を遣うこともなくスムーズに乗り込んだ。
相棒を停め、ヘルメットを右ミラーにかけ顎紐で固定して、船室への階段へ向かう。
途中、上がってきた乗船口の、ぽっかり空いた空間から見えている最後の北の大地の風景が目に入った。
もう北の大地とはサヨナラかと思うと、素晴らしかった風景が矢継ぎ早に浮かんでは流れ、またちょっとだけ後ろ髪を引かれた。
船室にはコンビニで買ったお茶とシュークリーム、それと、ハネさんが届けてくれた美枝子からの贈り物だけを持って上がった。今日はこのまま青森駅近くのホテルに直行だ。地図も見る必要がなかった。
甲板に出ると、さっきまで何日間も過ごしていた函館の街並みがあった。
天気予報どおりに厚く黒い雲が函館山を隠し、空港がある方向にいくほど色を増していっていた。
一人になると、思い出したくも考えたくもない、避けていた嫌なことが頭に浮かんでくる。
旅の終わりに待つ死と、朝井が俺を弾いた理由だ。
どちらも抗うことの出来ない事実なのだ。今の俺は一分一秒が貴重で、大切に俺の中に刻み込まなければならないのだ。
それなのに昨日の俺は、悲しさや淋しさよりも、身体の疲れの方が上回っていた。彩香を駐車場で見送ったあと、直ぐに部屋に帰り、津田からの電話以外、一日中ベッドで眠っていた。
やはり何かが抜け出た身体は、元には戻らないのだと再確認をすることになった。よくもまぁ、この長旅を続けていられるものだと率直に思う。
だけど、こんな俺でも、生きている喜びや俺が知らなかった感情に幾度も巡り逢えた。久保奈生美と翔の親子のあの涙は、特に俺の心を揺さぶった。
旅の途中で心配したとおり、死ぬために必要がないものが積もっていっているようだった。それに、俺を撃った朝井さえ、愛するが故の銃撃だったというのだ。それ以来、美枝子の身体を思い出すと、背中の弁天が毘沙門天に変わり、振り向いた顔が凜に変わった。
汽笛が鳴って、俺の最初で最後の北の大地・北海道は終わりを告げた。
ゆっくりと舐めるように動く景色にも、俺の心は微動だにしなかった。
甲板で少し風を感じ始めた頃、夏用のパーカーのポケットに入っているガラ携が震えた。
彩香だった。もうメールもしないから安心してって言っていたのに。
『もう青森ですか?函館は、すごく、すごく、すご~く楽しかったです。ありがとうございました。気をつけて関西まで帰って下さいね。 彩香 』
そう書かれたあと、何行も開けて『大好きでした』と、過去形で締め括られていた。
確かに楽しかった。
笹森家からホテルまでは相棒で十分ほど。荷物を積み下ろしするのが面倒だと思うような距離だった。
ヘルメットを被る時に髪が随分と伸びているのに気がついた。が、カットに行っている時間はなかった。
玄関の車寄せにバイクを停めて、ドアマンに名前を告げて荷物を預けたいと話すと、広く取られた障がい者用駐車スペースの脇にある、黄色い斜線が引かれた場所に停めて待っているように言われた。
暫くすると先程のドアマンが他の従業員を連れて戻って来た。従業員は荷物用カートを押していた。
俺は従業員に手伝ってもらいながら荷物をカートに積んだ。この旅のために買ったのに一度も使うことがなく、美枝子を乗せるまではずっとタンデムシートの荷物の下で鎮座していた、車体の一部、車体の守り神になりそうだったシルバーのステンレス携行缶も降ろした。
津軽海峡を渡るにあたり、必要なくなる北海道の地図や防寒服と一緒に、東京の徳永のところへ送るためだった。
引き換えに23と書かれた荷物札を受けとって、裏の駐車場へ相棒を回した。
相棒を駐車場に停めていると、ホッケーと湖が描かれている苫小牧の図柄入りナンバープレートをつけたブルーのスズキ・ジムニーが入ってきて、プッとクラクションを鳴らした。待ち合わせ時刻よりもニ十分も早かった。
相棒に一番近い枠の中に、彩香は何度も切り返して、ジムニーを丁寧に停めた。
下りてきた彩香は、ピンクのラインが入ったグレーのパーカーに、薄いブルーのストレートジーンズ姿だった。久し振りに見る活動的な出で立ちだった。
驚いたのは、手に西瓜柄のヘルメットを持っていることだった。
「久し振り、一度うしろに乗せて欲しくて……。借りて来ちゃった」
彩香はもじもじしながらそう言った。
それにしても、西瓜柄が流行っているのだろうか?確か静江さんも美枝子にプレゼントしていた。
頼みごとの最後に着く“駄目?”が出る前に俺は答えた。
「今日は天気ええし、俺も走りたかってん。借りてきてくれてありがとう」
「ホント?駄目じゃなかった?」
やっぱり“駄目?”を繰り出すつもりだったのだ。
「うん、全然。大沼でお団子食べようか?」
「やったぁ」
彩香は満面の笑みを浮かべて喜んだ。やはり、俺はこの笑顔が好きなのだと思った。
慣れない顎紐に苦戦していたので、俺が顎紐を留めてやった。そして被りの深さを調節してから、無防備な唇にキスをした。
最後に、タンクバッグの中から取り出していた予備のサングラスを、ドギマギしている彩香に俺がかけてやった。
バイクに初めて乗った彩香は、俺の身体にずっとしがみついたままだった。慣れた美枝子とは違う感触と温もりだ。
大沼へ向かう前に、昼飯をラッピの森町赤井川店でテイクアウトして、大沼の湖畔に並んで食べることにした。
砂利道の路肩に相棒を停めて、睡蓮が咲く湖畔までの道中、彩香は「バイクって楽しいね」「バイクって気持ちが良いね」と、子供のように興奮しながらはしゃいでいた。
今日は、大沼越しの北海道駒ケ岳が、綺麗にその雄姿を見せていた。
タンクバッグから取り出して持ってきたビニールシートを敷いて、二人並んで湖岸に座った。やっと日の目を見た道具の一つだ。
彩香はラッピのハンバーガーを食べるのも初めてだそうで、チャイニーズチキンバーガーとラッキーエッグバーガーを三分の一ずつとポテトSを、「美味しい」「美味しい」と言いながら食べて、「苫小牧にもあったらいいのに」と言った。
勿論、残りはすべて俺が平らげた。
それにしても今日はとても良い天気だ。これで風がなければ、もっと綺麗に湖面を鏡のようにして駒ケ岳を映したのだろうが、時折強く吹く風が、アロハ姿の焼けた素肌には心地が良かった。
腹ごなしに島巡りの路を散策したが、美しい景色と観光客の多さからか、それほど会話はなかった。ただ、この時を謳歌し、握った手が離れないようにしっかりと力を込めていた。
団子は、大沼をのんびり一回りしてから食べることにした。
この前とは逆、時計回りにのんびりと相棒を走らせた。太陽と風が心地好かったが、綺麗に見せる山や空とは違い、何とも言えない彩香の複雑な感情が背中から侵食してくるようだった。
次に来た時は餡子の団子をと思っていたのだが、彩香が初めてだったので胡麻餡の団子にした。
店の軒先にあるテーブルに並んで座った。一人で食べた時のことが脳裏に浮かんだが、それも随分昔に感じられた。
「胡麻も美味しいけど、醤油も美味しいね。何といってもお団子が柔らかくて美味しい」
ニコニコと気分良さげに口に運んでいる姿を、俺はもっと見ていたいのにと思った。まったく、らしくない。
前は、天気の悪さと連なる観光バスに諦めた城岱スカイラインを走った。
舗装の悪さに気を遣いながら、バックミラーに綺麗に映る駒ケ岳を見て、団子を牛乳と一緒に食べようと思っていたのにと思い出した。
木々に覆われていた道も牧場地帯に入ると一変し、空と下界が広がった。
彩香はうしろで「ワァー、凄い」とはしゃいでいた。俺も心の中で叫んでいた「わぁ、凄い」と。
一段とスピードを落とし、ゆっくりと進んだ。
夜になれば函館の裏夜景が見れる、砂利を敷いただけの駐車場で休憩した。
他に車が二台停まっていたが、どちらも海外からの旅行者らしく、大声で喚くように話していた。
俺はガードレールに腰掛けて、眼下に広がる街並みと函館山を見下ろした。
彩香は堪らなくなったらしく、俺に濃密な接吻をした。
「ねぇ、函館に戻っちゃダメ?」
唇を放すなり彩香は言った。
「美味しいマダレナとクッキーをプレゼントしたいねんけど、いかが?」
「えっ、本当」
俺は急くでも暢びるでもなく、安全第一で城岱スカイラインを下った。
バイパスを使って赤川まで行き、道道100号線と83号線でトラピスチヌ修道院へ向かった。
道道100号線を走っていると、翔の泣き顔が脳裏に浮かんだ。あの、淋しさと、悲しさと、怖さと、嬉しさと、安らぎと、楽しさの全てが入り混じったような泣き顔だ。元気でいるだろうか?
彩香はここも初めてだと言った。そして、「私みたいなのが入っていいのかな?」と呟いた。
俺は、「大丈夫。俺でもちゃんと迎え入れてくれたから」と言って、笑って見せた。
手を繋いで門を潜る。
彩香はぎこちなかった。俺は少しだけ握った手の力を強めた。すると彩香は俺の顔を見て、無言で頷き笑顔を見せたあと、チョコンと頭を下げ潜った。
彼女の生き様は、どんな神も手を広げ、温かく迎え入れて癒してくれるだろう。俺はそう思ったんだ。
青と白がハッキリとする空の下で、ゆっくりと時間を過ごし、目的のマダレナとクッキーを買った。
彩香のヘルメットの顎紐を俺が締めていた時に、「マコチンが内地に帰ったら、私、此処に入ろうかな?」と、真顔でポツリと言った。
聞こえなかった振りをして顎紐を締め終え、俺は無言で相棒に跨った。何もその言葉に返せる答えを、持ち合わせていなかったのだ。
国道278号線に出て海沿いを走った。
松風町からは市電と並走になったので気を引き締めた。
駐車場に相棒を停め、彩香のジムニーからキャリーバッグを降ろし、俺はタンクバッグをその上に乗せた。
俺のヘルメットは彩香が左手に持ち、右手で俺の手を握った。西瓜柄のヘルメットはジムニーの後部座席に置き去りにされた。
チェックインを済ませ、俺は23と書かれた荷物札を渡す。預けた荷物は部屋に運ばれていた。
二人は部屋に案内された。
テーブルの上には用意してもらったクリュッグと紅いバラの花が一輪、美しいバランスで飾られていた。
ドアが閉まると彩香は飛びついてきて、激しいキスをした。
俺は彩香を抱きかかえたままソファーに座り、一輪のバラを彩香に手渡した。
「ありがとう」
そう言葉を添えた。
フルートグラスで乾杯して、久し振りに飲みなれたクリュッグを喉に流した。ドライフルーツに良く合った。チーズは北海道産のミモレットだそうだ。これも旨かった。
彩香は早速、トラピスチヌ修道院で買ったマダレナとクッキーを開けた。随分気に入った様子で、シャンパンよりも美味しそうに喜んでいた。
俺にも勧めてくれたが、今夜のフレンチを考えて遠慮した。
すると彩香は「あとで食べよう」と言って封を閉じ、開いたまま置かれているキャリーバッグの上に乗せると、戻って来るなり俺の膝の上に座った。
それが合図で濃密な時間が始まった。
無我夢中で求め合い、全てを受け入れ、胸に刻み込んだ。
今夜は絶好の夜景日和になりそうだ。
ベッドの上で、カーテンが開け放たれた窓の外を見ながら腰を使っている時に、そう思ったんだ。
火照りが炎となり、昂りの痙攣を見せて鎮火する。
俺はここ最近の体調を考えセーブして、二人でシャワーを浴びた。
彩香は俺がイカなかったことに文句をつけたが、壁に手を突かせてうしろから突いて黙らせた。
ホテルから山麓駅までタクシーを使った。
黒岳以来になるロープウェイに乗って頂上へ向かう。山麓駅から頂上駅までは三分ほど。函館の街が徐々に広がっていくのは爽快だ。
気が急いていた俺は、彩香の手を引っ張るように階段を上がっていった。
そこには俺が見たかった景色が広がっていた。彩香も同じだと言った。
写真や映像でしか見たことのなかったこの景色が、夜になると一面に輝くのだ。
手摺に張り付いた彩香をうしろから包み込んだ。彩香の汗の匂いとシャンプーの香り、彩香自身の香りとあの時の少し淫猥な匂いが混ざり合った、何とも表現しがたい心地の良い匂いが、俺の鼻腔に流れ込んできた。
この香りとも、明後日になればオサラバだ。そう思うと、もっと嗅いで、もっと脳裏にインプットしないと、そう思った。俺は彼女に焦がれているのだと自認した。
「マコチン……」
彩香は顔を赤らめながら、首だけ振り向いた。いつの間にか腰のあたりに少し硬化したものが押し当てられていたのだ。
いい年こいて、恥ずかしかった。
展望レストランに移動して、そこで軽く飲みながら時間を潰した。ここからの景色も見事だった。
「今まで函館に来ることはなかったの?」
「あったと思うけど、小さい頃だったからあまり覚えていないの。昔の昔だから」
「でも、道の駅のスタンプラリーで」
「函館の街には道の駅がないから」
確かにそうだ。
そんな会話をしながら黒の訪れを待った。それが深まるにつれて、輝きは美しさを増していった。ガラス越しでも十分に迫力があった。
俺は、彩香とこの景色を見れて良かったと心から思った。独りで見るには味気ない夜景だったのだ。
外に出てじっくりと夜景を堪能した。周りはほとんど海外からの観光客のようだった。
気分が上がった彩香はキスがしたいと言った。
二人だけの世界に周りの多くのカップルも浸っていた。だから、恥ずかしげもなく何度もキスをした。
山を下りて、夜の坂の上の教会群を歩いた。やはりお互いに口数が少ない。
八幡坂から市電が走っている海峡通へ下りた。
そこで彩香は、俺にスマホの画像を見せてきた。やきとり弁当の看板だった。ここで弁当を買って帰り部屋で食べたいと言った。
「そう、じゃあ予約してるフレンチ、キャンセルしようか」
「えっ、フレンチってフランス料理?」
タクシーで戻ってホテルのフレンチレストランでディナータイムだ。ドレスコードもなかったので此処にしたのだ。
気づいた時には既にパーカーを着ていたのでわからなかったが、彩香は中に夏らしいフルーツ柄のノースリーブワンピースを着ていた。
何でも、柿谷さんのお母さんが昔着ていた服を、彩香のために柿谷さんがリメイクしてくれたものだと嬉しそうに言った。
柿谷さんは良い人だなぁと俺は思った。
前菜から始まってデザートまで、俺は久し振りで尚且つ、初の北海道フレンチを堪能した。ワインはバーン・オー・ブリオンの2005だ。
最初は緊張しながらも「美味しい」を連発していた彩香だったが、途中から何か浮かぬ様子でナイフとフォークを使っていた。メインの白老牛のステーキが運ばれて来た時に心配顔で俺に訊いてきた。
「ねぇ、お金大丈夫?柿谷さんが、“年が離れてるから、無理をしているんじゃないか?”って言ってたから」
義理のお母さんの介護をしていて、彩香に服まで仕立ててくれる、優しい柿谷さんは、余計な心配をしてくれたもんだ。
「あっ、大丈夫。昨日までバイトしてたから」
「バイト?危ないことはしてないよね?」
「うん。全然」
「もしかして、私のために?」
「いや、偶然舞い込んだから……」
本当のことは言えないのだ。
それよりも、柿谷さんの言葉があって、彩香はあの画像を俺に見せたのか。確かに、函館といえば、ラッピのハンバーガーにハセストのやきとり弁当、それに函館塩ラーメン。だが気を遣って、やきとり弁当を食う予定にしていたとは驚いた。
「だから、安心して召し上がれ」
「うん。私ね、さっきのお魚の料理、心配で味がわからなくなっちゃってたの」
そう言うとまた、「美味しい」「美味しいねっ」と口遊みながら美味しく食べ進んだ。
デザートのケーキはとても美しかった。彩香はスマホで写真を撮った。そして、「最初から撮っておけばよかった」と後悔を口にしていた。
その夜、彩香は俺の腕の中で泣いた。明日は泣きたくないからと言って泣いた。泣きながら、俺を飲み込み何度も頂点を迎えた。
俺はその涙を見て、やはり俺には愛情という感情が希薄だということを認識した。美枝子が言ったとおりだ。
次の朝は歩いて朝市へ行った。
彩香熱望のイカ釣りをして、目の前で捌かれたイカ刺し定食が朝食だった。
「ねぇ、やきとり弁当食べたんでしょ、美味しかった?」
彩香はホテルへの帰り道に訊いてきた。やはり、やきとり弁当が食べたいようだ。
確かに北海道に住んでいれば、旨い海産物など何時でも口に入れられる。それよりも、彩香は函館にしかない味を求めているのだ。その気持ちは俺にも理解出来た。
「朝市でイカ釣りしてイカ刺しを食べたでしょ。午前中に北島三郎記念館へ行って、それからお昼は、函館塩ラーメン。そして五稜郭タワーね」
「なぁ、ラーメンのあと、やきとり弁当を半分こしようか?」
「あっ、そういう手もあるか。マコチン賢いね」
こういう弄り方をされてもカチンとこないのは、俺が完全に心を許しているからか?
『まつり』を二人だけの会場貸し切りで見て、函館駅から少し歩いたところのラーメン屋で食べて、俺は二度目の五稜郭タワーに昇って、ハセストでやきとり弁当を買って五稜郭を見ながら弁当を食べた。
ハセストで函館中央署の玉木と、ハネさんから“三段”と言われていた柔道三段の田中重美に出会し二人から最敬礼を受け、彩香が驚いていたのはご愛敬だ。弁当を食い終え市電で湯の川温泉で足湯に入っていると翔に会った。
「おじさん、ママを助けてくれてありがとう。これ、大切にするからね」
そう翔は言って、俺が買ってやった食玩の玩具を見せて笑った。
金森倉庫へ向かう市電の中で、彩香に質問攻めにあった。俺は仕方がないので簡単に小声で説明した。
彩香は「ボディーガードって探偵さんもやるんだ」そう言って、何故か納得した様子だった。
俺達は函館のベイサイドを観光して、彩香はお土産を選びながら、「やっぱりマダレナをお土産に買いたい」というので、彩香のジムニーで買いに行った。
俺も、北海道用の荷物と携行缶を徳永のところへ送るのに、マダレナとクッキーを入れてやろうと思った。
今夜の彩香は泣かなかった。
SEXの序でにルームサービスの食事とワインを摂る感じだった。
俺の身体に疲労感が纏わりついていた。だが、明日、陽が昇ると彩香とはもう二度と会わないのだ。貪欲な腰使いから彼女も名残惜しいことは明白だった。
少し寝ては起きて求め合う。それを繰り返していた。この歳になって、この身体になって、本当に無茶だった。
駐車場まで見送って、ドア越しにキスをした。それが、彩香の最後の温もりだった。
眠りの中でも俺は、北の大地を相棒と共に旅していた。
走馬灯のような速さで北海道が流れていき、俺の中で、出会った人々の顔と感情がスライドショーのように流れ出すと、それは徐々にスピードを上げて渦巻いていった。
電話のベルで目を覚ました。
窓の外に、冷笑う森田由梨乃の姿が見えた。そんなことはないのだ。だが、彼女の思念は自由で、好きなように空間を浮遊しているように思えた
津田光一郎。そういえば徳永は光夫だ。光夫と下の名で呼ぶと本気で嫌がった。俺は、光とつく名前に縁があるのだろうか?
――もしかして、今、お目覚めですか?――
「何やねん。まだ寝てるわ」
――じゃあ起きて下さい。久保奈生美が監禁されていた森田由梨乃の部屋から、安田佳澄の毛髪と爪が発見されました――
安田佳澄?ああ。去年、七飯町から失踪した女性だ。
「殺されたってことか?」
――いえ、あの部屋にいたってことしか森田は話しません――
なるほど、なかなかのタマだ。
「あんたは、これからが大変ちゅうわけか」
――ええ、このままじゃ中途半端に終わるだけですから。心音さんのためにも、ハネさんのためにも、必ず真実の糸口を掴んでみせます――
「なぁ、そんな……、んー、そんな誰かのためみたいな思いは止めようや。視点が曇るで」
珍しく津田の言葉が出てこなかった。
――そうですね。少し考えてみます。獅子王さんは何時向こうへ?――
「明日の午後イチの船で青森に渡る」
――大間じゃないんですね――
「うん。大間は天気が悪そうやから」
――そうですか。お世話になりました。気をつけて残りの旅を走って下さいね――
どうしてだろう?涙が溢れて止まらない。
唯、悲しくて、淋しくて、切なくて……。
こんな複雑な気持ちが、この俺にもあるなんて……。
ボロボロと零れるのをそのままに、俺は、ハネさんが静江さんからお前に渡すようにと預かったという、何の変哲もないA4サイズの茶封筒に入れ丸められている中身を取り出してみた。
お菓子でも入っていたような小さな箱が出てきた。それは中でカタカタと鳴った。
美枝子は何を俺に託したのだろうか?
そんな思いを巡らせながら箱を開けると、印鑑と通帳が見えた。
周りに誰もいないこと確認してから中身を取り出した。
入っていたのは、メガバンク三行の俺名義の通帳が一冊ずつと、それらの銀行印だった。
中を開いて見て驚いた。
2のあとに0が八つ並んだ数字が、三つ共に記載されてあった。
これでどうしろというのだ?
こんな身体で、まだ生きろというのか?
死ぬことしか見ずに進んできた。
どうすればいいのか、頭の中がウニウニとしているんだ。
それでも涙が止まらない。
通帳の下にあった紙っぺらを掴み上げた。
何か書かれているみたいだが、滲んで見えない。
ハンカチ代わりのバンダナを取り出して、俺は初めて涙を拭いた。
書かれている文字を読んだ。
俺に何が出来るのだろうか?
新しい疑問が浮かんでくる。少しは生きることに前向きの疑問だ。
俺にはわからないから、兎に角、黒石にある高岡ちゃんの実家に行かねばと思った。
ロング・ロング・ロング・ロード Ⅳ 道南の涙 編
Fin
&
ロング・ロング・ロング・ロード 四部作 完
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