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ロング・ロング・ロング・ロード Ⅳ 道南の涙 編   11

 目が覚めると、寝返りをうつことすらひと苦労だった。
 やはり俺の身体に無理は禁物なのだ。
 今日を含めあと三日しかないのに、とんでもないことだ。
 俺は言われるまま身体を起こし、緑色した静江特製スペシャルドリンクを胃に流し込んだ。
 暫くすると、ニンニクのような香りがするなぁっと思ったところで、俺は眠りについていた。

 雨が降っているのだろう。
 俺は暗く湿った場所に、身動きすら出来ずに静かに横たわっている。まだ旅は続くというのに。
 そのうちに地面にしみ込んだ雨は、もう何処にも行き場を失っていた。我慢にも限度があるってことを、俺はあの世界にいた時に嫌というほど学んだ。
 だから相手を見て、攻め方を変えるのだ。
 もう直ぐだ。俺がこの暗いところから姿を現せるのも。纏わりついている水の粒子がそれを教えてくれている。
 川が流れて、息苦しさも徐々に軽くなっていく。
 やっと俺は俺であること知らしめた。
 見たことのある窓から見下ろす景色に、座り慣れたクッションの良いチェアー。キャスターを転がし、俺は座ったまんま背中の本棚に向かう。
 どうしてだか、ズラリと並んだ背表紙は、全て俺が読めるような文字ではなかった。また、朝井が悪戯でもしたのだろう。もしかすると全部中身はエロ本なのかもしれない。
 だけど、俺が手にしている薄っぺらい本は、記憶にないはずなのに、どうしてだか、持っているだけで懐かしさが込み上げてくる。
 表紙も裏表紙も背表紙も、全てが透き通る青で色付けされていた。
 開こうとした指は、少しだけ本の中へ沈み込み、開いたページからは嗅いだことのない、未知なる香りが匂いたった。
 “あおはどこ?”
 題名だろうか、文字が飛び出てユラユラ揺らいでいる。
 次のページを捲ろうとする指の触感はざらついていて、少し持ち上げただけで、暑い夏に嗅いだことのある香りが漏れ出てきた。

 “きのう なくした あおを さがしに うみへ きた”

 “キラキラしていて あおは みつからないよ”

 “すなはまで ゆれる なみを みていた”

 只其処には「あお」ではない砂浜色の上に、寄せて返す波が「白」を作っていた。北海道では嗅げない夏の海の沸き立つ匂いだ。
 此処は何処だ?水の色が須磨の色ではなかった。もっと透き通っている。日本海の田烏の浜辺だろうか?俺は一体、何をしている?
 次のページを捲ろうとすると、今度は指が引っかかることなく横滑りするだけだった。

 “なにか さがしているの?”

 “しろいなみ から でてきた くらげさん”

 “あのね きのう なくした あお を さがしているの”

 “へー あお を さがしているんだ”

 俺はまた白い部屋に閉じ込められている。
 無理やり機械から送られる空気が俺の肺を膨らませる。
 クラゲは本のページを飛び出して、白い壁をプカプカと泳ぎ周った。
 そして、大安売りの派手な色のギザギザポップが騒いでいる、松林のある砂浜に隠れてしまった。
 通りにある酒屋の店先のビール箱は、いつもどおりに積み上がったまんまだ。
 松林を抜けた先に広がる浜辺では、オクヌギの向こうで美枝子と凜が、優雅にシャンパングラスを片手に、楽しそうにお喋りしている。オクヌギって誰だ?
 偵察から戻ってきた大北は、事務所のドアを開け放ち入ってくると、「30万や、30万。一人30万や」と、目を血走らせて怒鳴っている。
 「五人やから……、お前の命は150万や」
 そう言って笑っているのは銀三さんだ。江戸っ子の癖に綺麗な関西弁を喋った。いや、声は息子の徳永だ。
 だけど徳永は、銀三さんのうしろで、店の黒電話の受話器を二つ両耳に当てて、とても忙しそうにしていた。探しても高岡ちゃんはいなかった。スマホを返そうと思っていたのに残念だ。
 ああそうだ。高岡ちゃんの実家に寄ると約束したのに、俺はこんな所にいるから、実家には立ち寄れないのだ。あれ?実家は何処だったのだろう?津軽海峡は?
 地響きのような拍手が突然沸き起こった。
 此処は何処だ?
 オペラカーテンの前にある一文字幕や水引幕と呼ばれる臙脂色に、『KIRAKU TEATRO』の文字が金刺繍で飾られていた。
 アコーディオンの音色にのって、オペラカーテンがゆっくりと引き上げられていく。
 畏まった燕尾服を着た七加瀬組の豊田が、車椅子に座った丘崎を押しながら、上手側からスポットライトを浴びてステージに現れた。
 だらしなく口と目を半開きにした丘崎の顔は死人の色をしている。真っ白いスーツに身を包んだ右腕は膝に乗せ、左腕はタイヤに擦れてカラクリ人形のようにピョコンピョコンと跳ね上がっている。その動きに合わせるように、朱に染まった白シャツの腹からは、子供が遊ぶ水鉄砲のように真っ赤な血が噴き出している。
 観客の皆は大喝采。
 「そうだよ くらげさん あお を みなかった?」
 津田が下手に現れて、抑揚もなく言葉を並べた。
 「きみが おとした あお は どんな あお なの?」
 舞台中央のセリが上がってきて、首からオクヌギと書かれた大きな札を下げた男が言う。
 「あお は あお だよ」
 川口が汚い声で返事した。
 「じゃあ いっしょに さがしてあげる」
 俺は、オクヌギを知っている。オクヌギは自分の快楽の為だけに、立ちんぼをさらっては、親から受け継いだ南港の倉庫街にある古いビルの三階に監禁し、自分の快楽を勝手に何度も吐き出して、飽きると快楽の終わりと共に殺した。最高のエクスタシーを得る為に、何人も何人も。だが、表沙汰にはなっていない。なにせオクヌギにさらわれたたのは、何時街から消えても誰も気にすることのない女達だった。そういう女を見分ける特別な能力を、オクヌギは持っていた。だから、辻堂組の溝口はチャカではなく、自ら抜いた匕首でオクヌギが息絶えるまで刺し続けたのだ。そんな女達の最後を憂いて。
 それは、仁侠というものだったのか?
 浜辺にいたのがそのオクヌギ本人で、首からオクヌギと書かれた大きな札を下げているのは、長万部の山中の温泉で、馬鹿みたいに自慢話をしていた男だ。一緒にいた男は何処だ?

 くらげさんに つつまれて うみの なかへ 

 うみには いろんな あお が あるんだよ

 死んでいった女達の明るい声がそう言うと、場面は暗転して、次にパッと明るくなった時には、浦見兄弟が釧路川の静かな流れの中に並んで立っていた。
 そのうしろにでは、アイヌ衣装を着た女性たちが、俺にはわからない歌を歌って踊舞っている。鶴が躍っているような動きだ。
 “サロルンチカプリムセ”とホリゾントに浮き上がっていた。
 二人の違いは服装を見て、恭平と正平の見分けをつけるだけで、俺の目にはどちらも恭平で正平だった。それが一卵性の双子というものだろう。
 「うみのなかは とうめいなあお」 
 「さかなさん の あお」 
 「ふかく もぐると くらいあお」
 「こんぶさん は みどりのあお」
 いろんな あお が あった。
 二人の声の違いは微妙だった。
 「きみが おとした あお は あったかい?」
 最後に早川芽美は宝塚の男役のようにセリフを吐いた。
 俺は深い海の底に立っている。また暗く湿った場所にいる。
 ハネさんは悲しそうに笑っている。
 「おとした あお は ないよ」
 翔が屈託のない笑顔で言った。
 そうだ、俺は久保奈生美を探し出さなくてはいけないのだ。そして、翔に母親を届けるのだ。
 俺が探しているのは“あお”ではない。久保奈生美だ。

 カッと目を見開いたが、其処は白い部屋ではなかった。ワインボトルやグラスが、好き勝手に壁や天井に浮き出て踊ることもなかった。俺はもう砂浜に戻ってきていたんだ。
 時計は午後二時を少し過ぎていた。
 朝の六時半過ぎに目覚めてトイレに行く途中、廊下で俺の身体が突然崩れた。そして、二人に支えてもらいながらこの部屋に戻ってきた七時前には、静江特製スペシャルドリンクを飲んで再び眠りについたはずだ。俺は七時間も眠っていたのか。
 サイドボードに置かれていたペットボトルの水をがぶ飲みした。腹が減っている。 
 足を床につけて立ち上がる。一切身体にブレるところはなかった。踏み込む力もいつもの調子だ。静江特製スペシャルドリンクが効いたのだろうか?
 ガラ携には、今朝から津田光一郎の名前が三つ並んでいたが、羽田の文字は一つもなかった。何かあったのだろうか?
 どういう状況になっているのかわからないが、動ける状態に戻るのが先決だ。俺が今着ているTシャツと、スウェットのズボンの中のパンツは汗みどろだった。着替えを持って風呂場に向かった。
 軽くシャワーで汗を流してから、湯気がほんわかと立っている檜の湯船にザブンと浸かった。
 無心になって金髪の鶏冠まで、たゆたゆの湯の中に沈めてみる。
 息が持つまでじっと我慢して、もう堪らなくなって俺は一気に湯面に飛び出した。
 目の前には美枝子と静江さんが立っていた。
 「誠、見つかったのは羽田さんの娘さんだそうよ」
 俺は、静江さんが顔を赤らめて背けながら手渡してくれたバスタオルを腰に巻き、風呂場の出口で、美枝子がもう一つ渡してくれたバスタオルで頭を拭きながら、その言葉の中身を整理した。 

 身なりを整えた俺は、ハネさんへではなく、津田に電話をかけた。美枝子が心配そうに椅子に座り、こちらを見ている。
 ワンコールで津田は出た。俺からの電話を待っていたかのようだった。
 ――笹森美枝子さんから聞いて頂けましたね。お身体大丈夫ですか?――
 「おお、もう大丈夫や。美枝子さんから聞いたわ。ハネさんは?」
 ――事実が判明して落ち込んではいますが、こういう可能性は、ずっと頭にあったそうです。十年前に心音さんがいなくなった時から、ずっと――
 津田の声に力が無いのが気になった。
 羽田は流石、元警察官だ。といってもダメージは相当なものなのだろう。俺に新子沙月のことを連絡してこない。もしかすると、新子沙月にはまだ会えていないのかもしれない。
 昨日美枝子が言ったように、俺には親も子もなかった。翔が感じている淋しさも、ハネさんが抱えてしまった、我が娘を誰かに殺られた時の、ありとあらゆる気持ちなど、想像することすら出来なかった。俺はずっと一人だった。
 だけれども、俺の身内が誰かに傷をつけられたら、それに対する俺のやり方は決まっている。
 只じゃ済まさない。
 「なぁ、首の何やったっけ、ぜ、ぜっ……」
 ――舌骨ですか?――
 「そうそう、馬乗りになって首絞めたら折れる奴」
 ――何故、そんなことを知っているのですか?――
 「ええから。それは折れてなかったんか?」
 ――ええ。どの部位にも骨折の個所はありませんでした――
 「ほな死因はなんやねん?」
 ――白骨化している為、確かな死因が判明しないのです。病死かもしれません。ですから、死体遺棄事件として捜査本部が帯広署に設置されました――
 「病死?死体遺棄?何やそれは」
 俺の不満が爆発しそうだった。帯広署と聞いたからより一層だ。
 美枝子は椅子の上で体育座りして、こちらを茶色い瞳で心配そうに見ていた。そんな感じも美しい。
 その視線に俺は、そうや、俺は翔のオカンを探すのが、今の俺の仕事や。それに警察は、取っ掛かりを死体遺棄事件として捉えただけなのだ。そう思い直した。
 「なぁ、津田さんよ。心音ちゃんの情報を全部教えてくれるか?ハネさんから聞くのは、俺が辛い」
 ――わかりました――
 白骨遺体が心音だと判明したのは歯の治療痕からだった。心音が死亡したのは五年前から、いなくなった十年前の間。白骨化するのには地上で一年から二年、水中で二年以上。地中は一番長くて五年から八年はかかるそうなのだ。だから、行方がわからなくなった十年前から最短の五年という範囲になる。雨による地滑りで露出したので、周りの土中にいる微生物の環境が違う為、今のところ大雑把になっていると付け加えた。
 行方不明当時の心音の年齢は23歳。身長は、143センチメートル。体重は39キログラム。血液型はО型。持病無し。全て入社して直ぐの健康診断からのものだ。
 趣味はアニメ鑑賞とドライブ。そして、ずっと続けていることの欄には、父のお弁当を作ることと、食卓に花を欠かさないこと。
 それらは全て、入社面接時の資料に書かれていたものらしい。これらは、函館西署の刑事が入手した十年前の情報だ。
 津田は最後に、捜査本部は羽田心音の会社関係の人間から話を訊くために、捜査員を函館に向かわせていると言った。
 「あんたはこっちに来るんかいな?」と問いかけると、――今向かってるから、待ってろよ――と、聞き覚えのある北海道訛りの汚い声が耳に飛び込んできた。
 さっき俺が夢で見たのが悪かったのだ。
 帯広署の川口だった。俺はもう二度と聞くことはないと思っていたのに。
 ――おい獅子王、あんまりおだつんでねぇよ――
 何だ“おだつ”って?
 ――夕方には着くと思います。また連絡し……――
 「ちょっと待て。ハネさんから新子沙月のこと聞いてないか?」
 ――そっちの情報も抜かりなく入手しています。ご安心を。では――
 津田の電話は切れた。本当に抜け目がない。
 窓の外には、今日も雨が降っている。
 「姐さん、車、今から何処かで車借りれませんか?」
 「車?私、免許持ってないから。それに美枝子さんね」
 「はい」
 そうだった。聞いた俺が馬鹿だった。PCを開いてレンタカー屋を調べよう。
 「あっそうだ。一寸待ってて」
 そう言うと部屋を出ていった。
 俺はネットでレンタカー屋を検索した。流石に観光地、幾つもレンタカー屋は見つかったが、夏休みの今、直ぐに借りられる車があるかどうかだ。
 「車はOK。雨だからキャンセル入りまくりだったんだって。良かったね」
 何がどう良かったのか。女はこれだから困る。
 「それまでにご飯食べる?さっきからお腹鳴ってるよ。静江さんが用意してくれてるし」
 そう言われてふと、張り詰めていた緊張を解いてみた。腹がグーグー鳴っていた。

 貸し切り札がかかった高級車の乗り心地は、とても良いものだった。今日含め三日間、時間にして残り五十六時間。この車が俺の足になった。
 「長谷川君。こっちが誠、獅子王誠」
 美枝子は簡単に紹介した。
 運転手の長谷川は見た感じ、六十歳オーバー、白髪交じりの七三分けだ。ミラー越しに笑みを浮かべて「どうも」と言った。
 どうして長谷川君なのか?の疑問を持ったまま俺は、「宜しくお願いします」と、頭を下げながら答えた。
 美枝子が何故乗り込んだのか、全くもって意味不明だった。だが、問い質すという選択肢は俺の中に存在していない。長年、何事もイエス以外の選択肢しか持たなかったのだ。これが上と下の関係性だ。ならば、これから先は笹森家という名前を使うか……。
 ハンドル捌きもブレーキのかけ方も、長谷川は一流のプロドライバーだった。狭い道幅でも安心して任せられた。
 牧場辺りは霧で視界が悪かった。今日店は開いていなかった。
 出発直後に連絡は入れてある。店の庇の下で紀田は待っていた。
 少し離れたところに車を停めてもらい、俺一人で車外に出た。今日の傘は透明のビニール傘だ。
 今日の俺の衣装は、黒に黄色の花がデザインされたアロハだ。軽く右手を挙げて「ヨッ」と言った。
 すると、俺の右少しうしろで「ヨッ」と声が聞こえた。美枝子だ。
 「何してるんですか?」
 「いいじゃない。金主は私よ。だから、ちょっとぐらい楽しませてくれてもいいでしょ」
 言っていることが無茶苦茶だ。だが、考えとしては間違ってはいない。
 「ちょっと待って」
 俺は紀田にそう言ってから、小声で美枝子に言った。紀田の目がハートマークになっていることは意外だった。もっと近くに磨けば光る玉がいるのに。俺はそう、ちょっとだけ思った。
 「久保奈生美の命がかかっています。そこんとこを肝に銘じて下さい。いいですか?」
 「わかってるっちゅうねん。見・て・るだけ、口は出さない」
 そう言って、唇の前に人差し指を立てた。美人は得だと思った。そういえば、彩香もこんな風に人差し指を立てたことがあったっけ。ふと過った思いを断ち切って俺は紀田に対峙した。
 「悪いね。時間作ってもらって、ありがとう」
 「いえ、俺も探してはいるんですが、何とも……」
 「そう、俺の方もさっぱり。で、今日は、久保奈生美さんについて、君からの印象を訊こうと思ってね」
 「奈生美ちゃんの印象ですか?」
 「そう、どんな娘だったの?」
 横から美枝子が口を挟んだ。
 俺がジロリと睨みつけると、ゴメンと口だけ動かして両手を合わせた。何をしても美人は得だ。
 紀田が語った久保奈生美像は、小さくて、可愛くて、愛嬌があって、牧場に植わっている木に住み着いている栗鼠みたいだと、初めて店で話した時にそう思ったそうだ。そして、店に通い会話を重ねる度に、よく気が利いて、飲むペースが速くなった時には「今日はペース早いわよ」と、自分の身体のことを思って軽く注意してくれる優しい女性だと思い、好きになってしまったと照れながら告白した。会えば会うほど、とても心が綺麗な人だと感じ、益々、紀田は奈生美に魅了されていった。でも、時々、スマホを見ながら淋しそうに溜息を吐くのは気になっていたと言った。
 紀田が知り得る久保奈生美の交友関係はないに等しかった。最初に話を訊いたことと大差なかった。同伴時の食事の時間と、スナック美穂の店内での時間以外は、紀田に割り振られた奈生美の時間はなかったのだ。
 「ねぇ、あんたは本気だったの?」
 美枝子が口を出してきた。俺も気になっていた部分だったので、そのままにした。
 「最初の頃は……勿論」
 「最近はどうなのよ?」
 美枝子の言葉運びはタイミングが良かった。
 「最近は……、ちょっと無理じゃねって感じでした」
 「息子がいるのは知ってたんか?」
 俺は何故、奈生美が淋しそうに溜息を吐いていたのか推測出来た。スマホの画面には翔の笑顔があったのに違いない。昼の仕事だけで生活出来ていれば、夜は毎晩、その笑顔を抱き締めながら眠りにつくことが出来るのだ。
 「えっ、奈生美ちゃん、子供いるんですか?」
 紀田の目がまん丸になっているのを見て、不謹慎にも美枝子はうしろを向いて肩を小刻みに震わせた。

 「男って馬鹿よね。長谷川君もその歳になって思うでしょ。ホント、男って馬鹿だなぁって」
 リスか。紀田も中井戸と同じ形容を口にした。
 「そりゃ、女だって馬鹿になる時はあるわ。けど……」
 久保奈生美という女の輪郭が、所々ではあるが、俺の中でハッキリと形になってきていた。
 「女は何時でも、もう一つの物語も旅しているものよ」
 いったい誰が何の目的で久保奈生美を連れ去ったのか?いや、久保奈生美にどんな価値があったというのだろう?
 「そう思うでしょ、誠」
 美枝子が意気揚々と、何を喋っているのか俺には理解出来なかった。
 「はい、そう思います」
 「でしょう。奈生美はもう男って奴に、飽き飽きしてたのよ」
 俺はこの時、運転手の長谷川を、ハセさんと呼ぶことに決めた。
 ガラ携が甲子園のラッキーセブンのテーマを奏でた。
 「ハセさん、野間のアパートまでお願いします」

 俺達の貸し切り札がかかったハセさんの高級車は、津田達が乗った帯広ナンバーの覆面のうしろに停車した。
 覆面パトカーは襟裳岬で別れ、もう見ることなどないと思っていた、シルバーのセダンだった。
 俺が降りる前に美枝子が車から飛び出していった。
 何処へ行くのかと思ったら、赤い傘も差さずに手に持ったまま、シルバーのセダンの助手席から降りてきた津田に向かって一目散だった。
 「お前が津田か。ウチの誠が世話になったな」
 それが道警の警部補に言う第一声か。俺は腹を抱えて笑いそうになったのを我慢して、ゆっくりと透明ビニール傘を差して歩み寄った。
 「とっとと解決してくんないと、私の予定が狂うのよ。わかった?」
 呆気にとられた津田は「はい」と口に出していた。
 「じゃあ、頑張れ」
 そう言い切ると、美枝子は大きな欠伸をした。
 「誠、あとはよろしく」
 そう言って高級車の後部座席に戻っていった。
 「悪いな」
 「いいえ、とても魅力的な人じゃないですか。誰なのですか?」
 「函館で軒を借りてるんや。知り合いの友人や」
 「そうですか。私はてっきり沢木さんの元奥さんだと思いましたよ」
 何故わかっていて俺に訊く。ここが、こいつのムカつくところだ。
 「ところで、どうします?」
 「先ずは、新子沙月のことを聞こうか」
 「乗りますか?」
 「いや、此処で訊こう」
 津田はチラリと建物に目をやったあと、俺達は傘の下でハネさんが新子沙月から仕入れた久保奈生美のことを聞いた。
 津田は何枚か写真を取り出して見せた。新子沙月の写真だった。ハネさんが俺に見せるために撮ったものだという。新子沙月は、特徴のないのっぺりとした顔をしていた。中にはハネさんと二人で写っているものもあった。ハネさんより頭半分、新子沙月は背が高かった。背が高いのが特徴か。
 新子沙月は今のところ、久保奈生美の唯一の友達だった。だが、傍から見れば、友達だとは思えぬような立ち位置の違いがあった。
 新子沙月は進学校へ進み札幌の大学を出て、北海道毎朝新聞系列の広告代理店の帯広支店に勤務している。中井戸が言っていた小さな広告代理店ではなく、道内では名の通った立派な大企業系列の広告代理店だった。
 片や久保奈生美は、高校在学中に妊娠し、結婚することなくシングルマザーの道を進んでいる。
 両親の離婚によって小学五年の二学期の途中、久保奈生美は新子沙月のいる小学校へ転校して、同じクラスになった。
 その頃からずば抜けて背が高かった新子沙月は、いつも席が教室の一番後ろと決まっていた。そして、その頃から背が低かった久保奈生美が隣の席になり、板書するのに苦労していた奈生美を見かねて、お節介気質のある沙月がノートを見せたことが二人の友情の始まりだった。
 しかし、休み時間になるといつも一緒に居るような親友という間柄にはならなかった。無論、沙月には親友といえる幼馴染や、奈生美以外の仲の良い友達が何人もいた。あくまでも、普通の友達だったと沙月は話したという。
 その原因は、奈生美の性格にあった。
 二学期の途中で転校してきた、背丈の小さな女の子に興味津々だったクラスの皆は、暫くの間、休み時間になる度に奈生美の机の周りに集まってきて、口々に色んな質問を投げかけた。だが、奈生美はそれらには余り答えず、「わからない」と、いつも小さな声で返し続けていた。その時沙月は、変わった子だなぁと思ったという。
 奈生美は、基本、何を考えているのかわからない子で、どのグループとも一定の距離を開けていた。別に誰かに好かれるわけでもなく、誰かに嫌われるわけでもない。それは沙月に対してもそうだった。
 そして一度だけ、奈生美は奥底にある怒りを皆の前で曝け出した。
 冬休み明け、奈生美は新しいお洒落な皮製のペンケースを持ってきていた。小学生が持つような安物ではないことは、一目見て沙月はわかったという。
 それを見つけたお調子者の男の子が、奈生美からペンケースを奪い取り、お手玉のように宙で回して遊んだのだ。
 多分、その男の子は、奈生美のことが好きだったのだと思う。だから、ちょっかいを出して気を引こうと思ったのだろう。だが、男の子の思いは通じなかった。
 顔を真っ赤にさせた奈生美は、今まで一度だって聞いたことがない大きな声で「やめろ」って叫んだ。そして、小さな身体からは想像出来ないような力で、その男の子を押し倒したのだ。そして、床に転がっている男の子からペンケースをむしり取り、そのペンケースを大事そうに腕に抱えて自分の席に着いたのだ。
 突然姿を現せた奈生美の怒りに、クラスはざわついた。
 そんな中、平然と奈生美は教科書とノートを取り出して勉強を始めた。何事もなかったようにだ。
 それ以来、久保奈生美とクラスの子達との距離が一層広がったのだそうだ。
 沙月は隣で一部始終を見ていたので、「大丈夫?」と奈生美に声をかけた。すると、「大丈夫。ありがとう」と奈生美は返事をした。
 奈生美には、そういう強いところもあるのだと、その時、沙月は知ったらしい。
 小学六年になってクラスが変わっても、奈生美が父と二人で暮らしていたアパートが沙月の家から近かったので、偶に一緒に帰ったりもしていた。そしていつの間にか、つかず離れずの、同級生という以上の友情が成立していた。
 そして卒業式の帰り道に奈生美から聞いて知ったことだが、あの頃はまだ、両親の離婚のショックから立ち直れていなかったらしい。そして、そこから誰かを信じるということが出来なくなったのだと告白された。
 中学に入っても、奈生美との微妙な距離のある交流は途絶えなかった。二人共スマホを持つようになったので、実際に話すよりSNS上での交流が増えた。
 だが、少しずつ奈生美の生活は変っていったという。多分、付き合い始めた中井戸竜一のせいだと、沙月は思ったらしい。
 心配になって何度かSNSでやり取りをしたのだが、いつも返ってくるのは「ありがとう。大丈夫よ。あんまり心配しないでね」というものだったという。
 高校は別々で、お互いの行動範囲も変わり、SNSだけのやり取りになっていった。
 そして暫く経った頃、塾の帰りに偶然、お腹が大きくなった奈生美がアパートへ入っていくのを見かけたのだという。
 驚いた沙月は奈生美の元に駆け寄って、根掘り葉掘り質問攻めにしたそうだが、お腹の子の父親は沙月の知らない人だと言い、そのうちに奈生美の父親が部屋から顔を出したので、「何かあったら何でも言って」と別れたらしい。
 次に奈生美から連絡があったのは、翔が産まれたこと、結婚はなくなったこと、そして奈生美の父親の孝にガンが見つかったこと、最後に、もうあのアパートから引っ越してしまったことが書かれてあったという。
 受験勉強の合間に、何度か沙月は、市電の深堀町近くのボロアパートに住んでいた奈生美に会いに行ったという。そして、その時に腕に抱いた翔が、自分の子のように可愛かったことを今でも覚えていると話した。だが、「結局、私は何の力にもなれなかった」と、沙月は言ったそうだ。
 札幌での大学生活が始まり、函館に住んでいた両親も、父親の実家を継ぐために深川市に引っ越してしまい、函館との縁が薄くなった沙月だった。
 それでも近頃は、年に何度か、電話で奈生美と話すことがあったらしい。沙月は社会人になって、SNSでの会話よりも、ちゃんと相手の声を聞いて、交流をしたくなったらしいのだ。
 つい最近、奈生美と話したのは先月のことで、翔が小学一年生になったことや、今も昼夜と働いている話、あとは沙月の今の恋愛相談がほとんどだった。
 ハネさんは奈生美の今現在の恋愛について突っ込んだそうだが、「私、男運が悪いから」と奈生美は言っていたと話したそうだ。
 そして沙月は、「奈生美は絶対に翔を置いて行方をくらませるなんてことはしない。早く警察に捜査してもらって欲しい」と、沙月は言った。
 津田はそこまで一気に話し終わると、「もう一度話しましょうか?」と涼しい顔で俺に言った。
 俺は「大丈夫」と右手で制した。津田は仲野とは違って、性格の良い奴なのだ。
 「津田さん、やっぱり獅子王の言うように、一階の角部屋、こっちを見てますよ」
 開いた助手席の窓から川口の声がした。
 俺はすっかり川口の存在を忘れていた。
 「どうも」
 俺は窓越しに車内を覗き込み、川口の顔を見ながら言った。
 「おう。大丈夫か、身体の方は?」
 こういうところもあるのが川口という男だった。
 「まぁな。ちょっと、一周だけ赤橙回してくれへん?」
 「なして?」
 「川口さん、一瞬点けてみましょう」
 「は、はい」
 津田が窓から身体を入れて、赤橙を取り出し車の屋根に置くと、一瞬だけ赤橙が回った。
 「ありがとうございます」
 津田は赤橙を車内に戻すと、川口が窓を閉め車外へ出てきた。
 「行こか」
 「ええ。でも、あなたはうしろで見ているだけですよ。川口さん行きましょう」
 「はい」
 雨はしとしとと降っている。
 透明なビニール傘が三つ並んで、アパートの101号室へ向かって行った

よろしければ、サポートお願い致します。全て創作活動に、大切に使わせていただきます。そのリポートも読んでいただけたらと思っています。