シェア
神舞ひろし
2020年9月20日 09:12
朝五時半に目覚めてシャワーを浴びる。 昨夜の美枝子の言葉が気になった。 “朝井がどうして、最愛のあんたを弾いたか” 最愛ってなんだ? 確かに俺だって朝井を弟分として、いや、家族のない俺は朝井を本当の弟のように大切に感じていた。 愛など知らない俺は、俺以外の他人を、大切か大切じゃないかで区分けするぐらいしか出来なかった。そして仕事で出会う奴らは、必要か必要ではないかで区別する。必要は替え
2020年9月21日 08:24
しばらく男は遠巻きに、こちらをチラチラと見ているだけだった。死角になる右舷側を見張るために降りてきた訳ではなく、目的は俺だったようだ。そして、右手を軽く耳にやってから、やっとこちらに歩みを向けた。 俺はそれに気づかぬふりをしながら、漁船の高峰達を隠し撮りするためにタンクバッグの上に無防備を装って置いてあるカメラに、携帯コンロの保護に巻いていたタオルをレンズが隠れないようにして慎重に被せた。ふと
2020年9月22日 09:19
取り敢えず今夜の宿に荷物を預けた。値段の割にはちゃんとしたホテルマンがいるホテルだった。この二泊は気持ち良く過ごせそうだった。稚内の印象もいいものになるだろうか。 軽くなった相棒で稚内の市街を流して走る。 初めて生で見た稚内港北防波堤ドームは格好が良かった。ギリシャ建築のような柱がずらりと並び圧巻だった。とてもテンションが上がる建築物、いや建造物だった。 ドームの中は走れなかったが、500
2020年9月23日 08:07
早朝の船旅は快適だった。 日差しのある甲板に出て、海の上の朝食を楽しんだ。 久し振りにセコマ以外の物が食べたかったが、稚内はセコマ占領区だった。 またか、と思ったが、筋子のおにぎりをペットボトルのお茶で胃に入れた。お茶・三本と、無糖のカフェオレ・一本を購入しているので、今日一日、喉の渇きを気にしなくても良かった。それに利尻では気になるドリンクを飲んでみたいと思っていた。 おにぎり一つでは
2020年9月24日 07:32
今夜もテーブル席は満席だった。 それでも店に入れたのは、気紛れな一人客だからこそ味わえる恩恵だった。 常に、一人旅をしていると思うところがある。温泉旅館も料理屋も、一人では予約さえ受け付けてくれないのだ。いくらこっちが二人分の料金を払うと言っても受け付けてくれないのだ。どうにかして欲しいものだと思っている。 カウンター席の手前隅に通された。瓶ビールを注文する。 店主は俺の顔を覚えていてく
2020年9月26日 07:55
雨は降り続けた。 その間、脳味噌までふやけるほど湯に浸かり、昼食は抜いてひたすら眠り、起きたらまた温泉へ。そして決まった時間がくれば飯を食う。そんな二泊三日を過ごした。 ガラス越しに見える不甲斐無い景色でも、夜の膳には毛蟹が一杯ついていて北海道に来ているのだと実感出来た。だから、二晩目の道上の前に置かれた毛蟹のない膳はとても貧素に見えた。 朝はビュッフェスタイルで、それほど種類が豊富なわけ
2020年9月27日 07:30
部屋に戻って荷物をいつもどおりに配置していると、見たことのない番号から電話がかかってきた。 ――やっぱり、まだ手を引いていなかったのですね―― 仲野だった。 「よういうわ。そっちの案件には首突っ込んでないやんか」 ――篠原三郎が乗組員だった紅海丸の元船長、三宅雅和に会いに行きましたね―― 「偶然や」 仲野に付け焼き刃は通用しないのはわかっていた。けれども、警察には反抗する心情をずっと
2020年9月28日 07:32
『今日未明、小樽運河で男性がうつ伏せで浮かんでいるのが発見されました。死亡していたのは大阪からの観光客とみて、警察では事件事故両面で捜査を進める模様です』 たったこれだけの記事だった。写真は小樽運河の写真でイメージと注釈されていた。 「ニュースはたった三行で、名前も載ってないぞ」 ――そりゃそうだろ、第一報だ。それに最近のネットニュースはそんなもんだ。これは俺の客からの情報だ間違いない――
2020年9月29日 07:16
少し白が浮かんでいたが、快晴だった。 紋別から国道239号線を北上して興部町へ向かう。一人旅の再開だった。 もう少し走れば興部の街が現れる。その中で国道は左折して、あの暑かった山間部に入っていくのだ。 何か面白くなかった。同じ景色を見ながら走るよりかはと思って、←中藻興部の標識のある道道334号線に左折した。 曲がってしばらくの間、北海道にはよくある直線路を走って行く。その先には小気味好
2020年9月30日 07:59
俺が目覚めた時にはもう、彩香は起きていた。 戦闘服は夏らしいパステルな色合いで、鏡の前で険しい表情をしてアイラインを引いていた。 やる気満々なのだと思っていると、彩香の荷物の上に、覚えのある少し色褪せたオリーブ色のトレーナーがポンと載っていた。帯広で会った時に着ていたトレーナーだ。 俺にはそれが、彩香の歩んできた人生の色のように思えたが、彩香にとっては特別なお守りか何かなのかもしれない。
2020年10月1日 07:41
店はボーリング場にほど近い場所にあった。 観光客は絶対に来ないだろうと思える年季の入った路面店で、暖簾を潜り入口ドアのガラス越しに見えた、カウンターと安っちい四人掛けテーブルが二つしかない街の中華屋のような店内は、サラリーマンやOL達で賑わっていた。 店に入り見回しても、浦見恭平の姿は確認出来なかった。 「いらっしゃい。あっ、キョウちゃんのコレの、ねっ」 そう言ってカウンターの中の大将が
2020年10月2日 08:01
広く青い空と綿のように浮かんだ白い雲がいて、時折吹く丁度いい風が日差しの熱さを和らげる。目一杯に開いた黄色は東の空を向き、風に揺れる葉は蒼々としている。 こんなにも心躍らない向日葵畑は初めてだった。 喧騒にまみれている空港を出たところでうしろから呼びかけられた。声から道上だと直ぐにわかった。俺は無視して歩みを速めた。雨が降ったのかアスファルトには、水溜りが幾つも出現していた。 「すみませ
2020年10月3日 07:45
仲野の前の電話が鳴った。 「はい、仲野です。はい。はい。わかりました」 電話を切ると仲野は、鏡の前に立って身繕いを始めた。 「出てきます」 そう言って仲野は部屋を出て行った。 神村は「仲野です」と電話に出たことと身繕いの時間の長さから推測して、(ああ、誰か上の人間に呼び出されたな)そう思った。 「失礼します」 「おお、来たか。ご苦労様、ご苦労様。君は席を外してくれ」 「はい」