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ブルクハルト「世界史的考察」その6。

芸術家、詩人そして哲学者は二種類の機能を持っている。すなわち、時代と世界の精神的内容を観念的に直視せしめ、かつこの内容を不朽の知識として後世に伝えることがそれである。

・・・彼ら哲学者たちは生存の大きな謎の答えを、それぞれ自分流に、人類に一段と深く理解させる。彼らの思惟の対象は、そのすべての側面から見た世界全体である。ちなみに人間もそこに含まれている。

彼ら哲学者たちだけが全体に対する個の関係を通観し、かつあれこれに精通している。それゆえに個々の学術に方向と展望を指し示すことができるのである。無意識裡のことも、また不承不承ながらのこともしばしばあるとしても、彼らの言葉に聞き耳が立てられる。特殊科学はどのような結びつきによって自分たちが偉大な哲学者の思想に依存しているのか、まったく知らないことがたびたびある。

哲学者に持たせられているのは真理だけである。したがって哲学者の名声はその死後になってようやく不滅となるのであり、それだけいっそう強烈に人々に記憶され続けるのである。

これに反して詩人と芸術家たちに授けられているのは、
「うつけたこの世界の抵抗に打ち勝つための晴れやかな美」である。彼らは美を通して象徴的に語る。
ところで詩歌は言葉の点でも、事柄と無限に多くのかかわりを持つ点でも諸科学と共通するところがあり、その全表現法の形式と具象性の点で、また、詩歌自身も創造者であり力である点で、芸術と共通するところがある。

芸術家と詩人のみが美の神秘を解明し、この神秘を作品に留めておくことが出来るのである。実生活の中をかくも足早に、そしてほんの時たま、またそれぞれ異なった姿でわれわれのかたわらを通り過ぎてゆくものが、ここ文学の世界の中に、絵画や広大な絵画圏の中に、色彩、石材および楽の音の中に、第二の、より高次の地上世界として集められる。

それどころか建築や音楽においてさえ、われわれはおよそ美というものを芸術作品を通して、初めて知るにいたるのであり、われわれは芸術作品なくしては美というものが存在していることを知ることがなかったであろう。

ブルクハルトがやたら芸術推しゆえに軽く内容重複ぎみに。。

個人的なことですが、哲学書は昔結構好きだったのですが、どの本も読後感が同じに感じてきて、自分を変化させる食べ物として感じられなくなり、結局世界の切り取り方が違うだけじゃんと思ってしまうようになってから、熱が冷めていきました。。そして過去の哲学を道具として使い、違う切り取り方を自分で提示するほどの頭を全く持ち合わせてもいない自分!!(笑)

哲学に純粋に取り組めている方、自分で考えられる方、素直にすごいな~と思って見ております。上手くいきますように。

あと創作者の名声って難しいですよね。生きている間だと、その人自身のことが気になって、作品の方が霞んじゃったり、そして生きている当人に名声を与えることによって、おそらく自分の(名声の)取り分まで奪われるのではという、すっげーちっぽけな感覚が余人に働くゆえに称賛できないという、小人達のジレンマも働くと思われ。

どっちにしろ皆様にいい作品、インスピレーションがガンガン湧きますように😸😸😸

わ〜い!😄