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エンパシーとシンパシー

ブレイディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』をかなり話題に遅ればせながら読んでいる。

エンパシーとシンパシーについて書かれた部分を読んで、そうだったのかーと感じ入ってしまった。

自分で誰かの靴を履いてみること、というのは英語の定型表現であり、他人の立場に立ってみるという意味だ。(中略)
つまり、シンパシーのほうはかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力しなくとも自然に出て来る。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。シンパシーは感情的状態、エンパシーは知的作業とも言えるかもしれない。

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』ブレイディみかこ著、新潮社(P92,P95)

子供の頃から、子供らしい素朴な感覚で、世の中が良くなったら良いのにな、みんなが笑顔でいつも幸せだったらいいのになと思っていた。
それは多分今でも変わらない。

でも10代までの私が、戦争や社会問題のニュースを見て感じる気持ちは、紛れもなくシンパシーだった。自然と湧き出る「かわいそうだな」というような感情はあった。一方で、目の前の映像を見て、実はどこかで自分のこととして感じることはできない自分もいた。

二十歳の時に、その時の自分が性被害だと感じる体験をして、とてもとても辛かった。それまで感じたことのない人生の苦しみだった。
そして思った。
体験して感じることは本物だ。
体験した人でなければわからない感情があるのだと。
結局はその人の体験はその人のものでしかないのだから、分かりあうことはできないのかもしれない。でもそんなふうに思ったら妙なシンパシー(共感というよりは同情に近いもの)はなくなった。ただ想像して寄り添うことならできるだろうかという感覚を持つようになった。

そして、一体どういうことなのか?と疑問を持つことについては、エンパシーを追求してきた気がする。
それは例えばイスラームに改修しヒジャブを被ること。
一夫多妻制の妻になること。
女性はイスラームの社会で本当に虐げられているのだろうか?という疑問があった。

アフリカの貧困とはどういうことなのか?
スーダンに暮らし、どんな忍耐が日々の生活に積み重ねられているかを体験した。

終わらない戦争。増え続ける難民。
スーダンで紛争に巻き込まれ、日本人なのに難民のようになって日本で暮らしている。

スーダンの靴を履いてみたら、日本に帰国した時、未来の国にタイムスリップしたかのようだった。
日本の靴を履いてスーダンの暮らしを始めた時は、家電製品のない時代にタイムスリップしたようだった。

帰国してスーダン紛争に巻き込まれ、スーツケース2つしか所有物がない居候の身だった2023年4月。
夫もいない、家も仕事もない。
それでも朝になれば小さな子供たちとの1日が始まる。
一体どうしたら?将来どうなるんだろう?
家族の命が守られますように。
シリアの方々に「気持ちがわかるよ」と言われた。

そう、私があなたたちの気持ちを分かりたかった。

ブライトチャネリング的に言えば私の頭の中のことが現実になる。
潜在意識は現実化するとも聞く。

なぜ難民のようになったのか?
その感情を味わって、どうしたかったのか?

そう、みんなが笑って幸せに暮らせたらいいなと思っていた。
平和な世の中になるといいなと思っていた。

他の「誰かの靴を履いて」みて
私が知ったこと、感じたことを
世の中に活かしたいとおもう。

豊かさって何か?
幸せってなにか?

温かい穏やかなエネルギーが循環する
そんな、みんなが幸せな未来を描いていきたい。


*インスタLIVEでも同じテーマでお話ししました*
Instagram藤野さくら
@sakura_fujino_nisreen


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