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多数決は答えを導かない

最近よく、多数決ってなんだろうと考えます。

少し昔の話になりますが、学生時代に作品制作をしていました。そこでは「多数決」「民主主義の仕組み」をテーマにしていました。多くの場面で「多数決」は、誰がみてもわかりやすく、簡単な決定の方法として用いられています。一方で、論理的な話し合いや参加者のモチベーションが一定でないような難しい場面……特に学校などでは「反論をさせない方法」としても用いられがちです。

当時の私の作品のテーマは「多数決や民主主義、もっと言えば”みんなで決める”という仕組み自体が信用ならないことである」ということでした。

……なので、その無自覚さにようなものは、結構気になるんです。身近にそういう場面、ありませんか?

実際に、事業の方向性を再考しようという話がチーム内で持ち上がった際に、会議をファシリテートしていたスタッフが「みんなでキーワードを出していこう!」とスタッフ全員に聞き取りを始めたことがあります。どうやらブレインストーミングとKJ法を通じて「全員で納得できるもの」をつくろうとしているようです。これも広義な意味での「多数決」と言えるでしょう。

地方自治体や、大学でみんなのよくやるブレストとKJ法。僕はこの方法があまり好きではありません。仕事として仕方なく実施することはありますが……使い方を誤ると混乱を生み出します。よく言われる例が、アビリーンのパラドックスです。

地獄への道は善意と多数決で舗装されている

多数決は、その場にいる誰もが望んでない方向に向かう可能性があります。
それを制御するには強いリーダーシップやモチベーションを持つ個人が必要ですが、多数決という手法はそれを排除します。

ブレストやKJ法は、関係者からコンセンサスを得たことにするために使われることもあります。「皆さん、本日のワークショップで決まったことはこちらです。こちらをもとに進めていきます」というアレです。けどそれって本当にコンセンサス(了解)なんでしょうか?自分の意見が一つも反映されていない案で進んでいるのに「あなたも参加していたでしょ?」と言われても、果たして納得できるでしょうか?

本当にコンセンサスを取るなら、一人一人しっかり話をして、口説いて回るしかありません。大人数の会議の場でできるのは、最終的な決定と、それを確認しあうことだけです。

ブレインストーミングやKJ法の問題点は、すでに多くの点で指摘されていますが、私の感想としては
・真剣に議論を深めていくことに向かない
・最適解は見つからない場合が多い
・場合によっては「誰も望んでいないもの」になる可能性すらある
・誰もその選択の責任を取らない
・その場に居ただけで合意したとみなされる

以上の理由で、意思決定の手法として、部分的にでもブレインストーミングやKJ法を用いることはやめた方がよいと考えています。一方で、これらを使うのに適切な場面は何かと考えると
・意思決定の前段階で、集団のおおよその傾向を知りたい時
・参加者に「参加した気分」を味わせたい時

くらいしかないんじゃないでしょうか。いずれにせよ、ブレインストーミングやKJ法は、意思決定の段階ではあまり多用するべき手法ではないと考えています。

大学でKJ法の全盛期を過ごした学生たちが、社会に出るとどうなるかというと……そもそもビジネスの場であれば、多数決で決めるなんて馬鹿げたことはしないわけ、ビジネスの考え方では多数決はそぐわないわけです。

アートだろうがなんだろうが、少なくともなんらかの成果や目的に向けて活動しているものは、全てビジネスだと思います。

アートはビジネスマインドを持て、と言われて久しいですが、その本質は「金を稼げ」ということ以上に、こういう適切な意思決定や、組織運営、事業計画を作れという話なのかもしれませんね。と思ったり


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