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読むべきでない本は、ない

本物の昔話を絶対的に推していますが、このように強く推すと、本物の昔話以外の本を否定しているように受け止められそうです。これはたいへんマズイので、今回はここをお話しします。

そもそも、禁止・制限はなるべく控え目に、ということは常に大切です。禁止・制限を厳格にすることが躾である、という考えもあるでしょう。禁止・制限をいっさい無くすべきである、という考えもあるでしょう。こういう様々な考えを否定するのはよくありません。しかし、こういう両極端は、いずれも子どもの主体性を奪うことになるのではないかと思います。

さて、読み聞かせも読書も、もちろん、何を読もうと自由です。他人があれこれ指図すべきではありません。

勉強ができる子に育てるために読み聞かせが重要であると考える親は少なくありません。私もまったく同意です。にもかかわらず、いくら読み聞かせしても勉強ができる子にならなかった、という報告も少なくありません。

それに対する答えの一つ(私が絶対的な正解とは限りません)として、「何を読み聞かせるか」と「どう読み聞かせるか」を提案しています。

読み聞かせをする本の選定から「本物の昔話」をはずすと、あるいは脇へ追いやると、期待する結果が得られないでしょう。そして、聞くことを押しつけるようなやり方も、期待する結果が得られないでしょう。子どもが聞いていようといまいと、本物の昔話を読み続ける。これが基本です。

ここをしっかりおさえれば、本物の昔話以外の本を読み聞かせしても大丈夫です。要は、基本をはずさなければ、何を読んでも大丈夫です。むしろ、本物の昔話をふんだんに浴びた後で、本物の昔話以外の、改変された昔話や創作童話なども読んだ方がいいでしょう。そうすれば、子どもたちは、「本物」の意味が体でわかります。本物以外を知らなければ、そもそも本物がわかりません。

「読んではいけない本」「読むべきでない本」という考え方はしない方が良いと思います。

暴力的な本、子どもに見せることがためらわれる本はどうかという話ですが、読み聞かせをする大人、本を与える大人の感覚で判断して避ければよいと思います。絶対的な基準を設けることは良くないと思います。ご自身の感覚を信じれば良いと思います。

ちなみに、本物の昔話をしっかり浴びれば、相当な耐性が子どもにそなわります。本物の昔話には、暴力も残虐もいじめも嘘つきも何でもありです。近代的な道徳に固執する大人たちは顔をしかめるかも知れませんが、そのような本物の昔話には、「毒」がありません。無毒な状態で人間の陰の部分に自然となじませるのが本物の昔話です。本物の昔話をしっかり浴びれば、どう生きれば良いか、社会はどうあるべきか、という根源的な道徳がそなわってきます。大人が心配するより、ずっと成長していきます。学力だけではありません。

というわけで、本物の昔話をしっかり浴びた後でなら、「読んではいけない本」「読むべきでない本」は考えなくてもいいというのが私の結論です。ただし、本物の昔話をしっかり浴びるという前提が欠ければ、上に書いた内容はご破算です。

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