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#14 公共施設マネジメントにおいても苦悩する団塊ジュニア世代(の第3話)

さて第2話では団塊ジュニア世代の受験戦争や就職氷河期を目の当たりにしてきた筆者の暗い歴史を紹介してきたが、今回はそこからのV字回復とはいかず、さらに暗い歴史が続いていくというところから物語を始めていこう。


就職はしてみたものの・・・

何とか就職にありつけたことは第2話で書いたが、就職といっても実際のところは非正規での雇用、1年間は社会保険も適用されないアルバイトに近い立場での採用であった。
元々建築のアトリエ系事務所というのは給料が激安で、丁稚奉公のような世界(今は知らないけど)なのだが、当時の給料は月額12万円ほど。
所得税はしっかり引かれて手取10万円ちょっとのところに都内のワンルームマンションに約7万円が持っていかれる。
冷静に考えれば田舎から上京してきて、何の後ろ盾もなくやっていける世界ではないのだ。
生活はギリギリというか、ほぼマイナスで、メシもろくに食わず、手持ちのCDを中古屋に売るなどして何とか食い繋いでいた。
残念ながら24時間働いても、給料が上がる訳ではなかった、夢だけはあったけど(苦笑)

織田裕二主演の「就職戦線異常なし(1991年公開)」(槇原敬之の「どんなときも」が主題歌)という映画が、たった数年前のこととは到底信じられないような、団塊ジュニア世代が直面した時代の変化であった。

そんな折、社会人1年目の夏を過ぎた頃に実家から連絡が入り、母親が入院するとの知らせが届いたため、岡山市内の病院に見舞いに行った。
この時、僕はつくづく親不孝だと思ったのだが、大学を卒業した春休みも、その前の冬休みも夏休みも卒業設計だのアルバイトだので1年以上実家に帰って無かったことに気づく。
無事、(一応)就職できたことや社会人として元気に生活できていることなど、病院ではまだ元気な様子だった母親に半分ウソを付いてしまったことが実に情けなかった。
ちなみに、この時が(約1ヶ月後に急逝する)母親に会った最後の機会となる。

建築物からハコモノへ

さて、話を建築界に戻すことにしよう。

バブル経済はすでに崩壊していたのだが、建設投資はそれ以降も比較的堅調に維持されている。
景気の下支えという意味もあったのだろう、特に政府系の建設投資(道路・橋・公共施設など)額は1995年(H7)がピークで、この頃は多くの公共施設が建設されていることが分かる。
下のグラフから読み解くに、年間30兆円を超えているのは1992年〜2000年ということとなる。

政府建設投資は平成7年(1995年)をピークに2000年頃まで高い水準で推移(国交省資料)

ここで先日読んだ松村淳氏の「建築家の解体」という著書の中に興味深い記述があったので紹介しておきたい。

ハコモノの登場
「ハコ」と「ハコの中身」つまり建築とアクティビティが分離し、建築の価値が毀損されていく象徴的な出来事がある。それが「ハコモノ」という呼称の登場である。1980年代半ばから建築がハコモノと称されるようになる。表1(本にはグラフが添付されているが省略)は「ハコモノ」という言葉が「朝日新聞』紙上に登場した年代ごとの頻度である。
最初に「ハコモノ」という単語が使用された記事が登場するのは1985年であり、1993年頃まではほとんど使われていない。しかし、建築物に対する公共投資がピークに達する1994年ごろから増え始め、ピーク時の2009年には183件を数えるまでになった。

松村淳氏「建築家の解体」第4章 ハコモノ化する建築より

著書の中では、建築の外側と内側がいつしか分離されるようになり、90年代以降は特に中身のない公共施設が数多く建設されていることが解説されている。その時々の政治のネタになり、選挙の争点になるのに合わせ、新聞紙上を賑わすことになっていくようになると。
その中に野武士世代以降の建築家がどんどん参戦していくようになるとも。

建築家の夢→うどん屋→公務員という流れw

さて、もう一回僕のキャリアに話を戻してみる。

僕があろうことか1年間浪人して、首都圏の私立大学(しかも理系)に進学したものだから、実家のスーパーは火の車となる。
1コ上の姉も高校卒業後いったん就職していたのだが、僕の大学進学と合わせて専門学校(しかも4年制)に入るというもんだから、親にとってはたまったものではなかっただろう。
つくづく国立大学に合格できなかったことを申し訳なく思っている。

さて、そんなこともあって実家のスーパーが「うどん屋」に業態チェンジをしたのは1992年で、僕が大学2年になった時のこと。
その後、2年ほどで母親が亡くなってしまったので、さぁ後が大変。

大阪に出ていた姉がUターンして、父親とうどん屋をやるようになったのだが、いかんせんこれまで家業の商売は全て母親が経理まで預かっていたので、経営は自然と傾いていく。

どうでも持ち堪えきれなかったのか、東京にいた僕にも声がかかり、親族会議で①新築したうどん屋の借金を姉と折半するか、②僕が実家に帰りうどん屋を一緒にやるか、の選択を迫られた。
1円すら貯金がなかった僕には②の選択肢しか残されておらず、1997年の8月に東京(というか建築業界も)から別れを告げ、実家に帰ることとなった。

今では良い経験をさせてもらったと笑って言えるけど、うどん屋時代の僕は給料ナシ、つまりは失業者と同じような生活をしていた。
まぁ飲食店なので食べることには困らなかったのだが、実質的には賃金ゼロ(2年目には店の定休日に塾講師のバイトで小遣いを稼いでいたw)に限りなく近い生活を2年ほど過ごすこととなる。

さて、そんな生活が続いていたところに、津山市で建築職の新採用募集があることを知る。親戚の叔母から勧められたのだが、そもそも役所に入るのに試験が必要だということさえ知らなかったし、公務員にも全く興味はなかったwのだが、このまま死ぬまで無給生活が続けられるはずもなく、建築の仕事ができるのならと行きがかり上、市役所を受験することになった。

2週間ほどの受験対策で試験を無事パスし、1999年4月晴れて公務員というか、人生初のちゃんとした就職にありつけたのだった(笑)
この時、27歳で採用条件のギリギリ上限だったのだが、おそらく就職氷河期を過ごしていた若者で公務員試験は大変な状況となっていた。
僕は建築専門職ということで、そこまでではなかったものの、一般事務職に至っては競争率は実に約30倍、今では考えられないが、津山市のような地方都市においても超狭き門であった。

かろうじて(公務員という)職にありつけたのだが、僕と同年代の団塊ジュニアにとって、20代とはこんな苦難な時代だったのだ。
幸いにして僕は家庭を持つことができ、娘を一人授かることもできた。
ただ、もし僕がその時の試験をパスできていなければ、結婚も家庭も子どもも考えたことはなかっただろう。
団塊ジュニアが親世代になろうとしていた2000年頃、出生率が上がらなかったのは頷ける。
これは僕の人生を切り取ったモノだが、団塊ジュニア世代にとって、安定的な給与を望める就職がどれほど厳しかったことかということを知ってもらえただろうか。

ハコモノ事情の課題

さて、最後にもう一回ハコモノに話を戻そう。
僕は1999年(平成11年)に津山市入庁後、さまざまな公共施設に携わってきた。ただ、一時のピークは過ぎていたのだろう、大規模な新築というのはそれほどでもなかった。

今にして思えば、僕が役所に入る少し前、平成の一桁代の頃は凄まじい勢いでハコモノが整備されていたのだろう。
グラスハウスが完成したのが1998年(これは県工事)、リージョンセンターは1997年、グリーンヒルズにはさらに音楽堂の計画もあったと聞く。
後に合併して、今では津山市となっている旧町村の大規模施設(文化センター、図書館、庁舎、温泉施設、スポーツ施設など)の多くはこの時期に建てられている。

旧グラスハウス(1998年に岡山県営の施設として整備された)

我々のまちに限らず、特に地方都市においては、地域経済を支える建設需要の底上げ、選挙の目玉、地方に配分される潤沢な補助金などによって、多くのハコモノ(上述したがハコと中身が分離した立派な施設)が数多く建設されてきた。
岡山県でも熊本アートポリスのモノマネ的な「クリエイティブタウン岡山」構想が立ち上がり、多くのハコモノが整備されている。

国から多額の補助金をとってきて、地方の発展にとってハコモノはなくてはならないものとして企画・整備してきたのが、僕らの上の世代、つまりは団塊世代なのである。
彼らにとって、大きなハコモノ整備を達成することは「勝ち組」の象徴だったのでは?と想像する。

それが1990年代の潮流だったのだろう。

これらが本当に必要なモノだったかどうかは、個別事象なのでここでは記述しないが、現実としてそれが築後30年ほど経っているという事実は避けられない。
団塊ジュニア世代は、受験戦争に始まり、就職氷河期に泣かされ、バブル期〜90年代に華やかに建てれらた公共施設にも立ち向かっていかねばならないのだ。

ちなみに、アルネ津山が開業したのは、奇しくも僕が津山市に入庁したのと同じ1999年4月である。
僕はしばらく東京に出ていたり、うどん屋で休みのない生活を送っていたので当時の津山のことを詳しく知らないのだが、90年代の後半、たまに高校の同級生と会うと、「津山の商店街に”NASA”みたいな巨大な施設が建てられよんよ!」と言っていたのを懐かしく思い出すのである(笑)

さて今回はこれで終了。
次回は、そんなハコモノと戦わなければならない団塊ジュニア世代の苦悩を描いてみたい。

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