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#13 公共施設マネジメントにおいても苦悩する団塊ジュニア世代(の第2話)

さて第1話では、1980年代中期あたりまでの世の中や都市の様子などに触れつつ、僕の子どもの頃からの生い立ちを軸に書いてきた。
このテーマの第2話となる今回は、80年代後半から90年代の中期あたりまでについて、僕の人生に重ねながら、今回も都市や公共施設などと絡めて話を進めて行こうと思う。
団塊ジュニア世代(1971年生まれ)の僕にとっては、高校から大学生として過ごしていた時期に該当する。


バブル時代の過ごし方(高校時代)

よく言われるバブル時代というのは1985年から1991年を指すようで、僕の高校時代は1987年(昭和62年)から1990年(平成2年)なので、ほぼバブルど真ん中ということになる。
ただバブルと言っても、津山周辺という田舎のことだし、働いてもいない高校生だったので、正直ピンとくる部分は少ない。
津山近郊で何か大きな都市開発がなされていたかというと、そんな記憶もなく、東京など大都市部とは大きな隔たりもあったのだろう。
とはいえ、第1話でも書いた津山のまちなか商店街は全く衰退するような気配はまだまだなく、高校から毎日そこで過ごせる(津山駅から津山高校までの道中に商店街があるので毎日通る)という幸福感に浸っていた。

さて、団塊ジュニア世代を象徴していると思うのが、圧倒的に多い生徒数。
入学した津山高校は学年定員が450人で、1年時のクラスメイトは何と52人(男女各26人)で、ぎゅうぎゅう状態で教室に押し込まれていた。
今となっては信じられないような空間密度であり、その中で徹底的な管理教育がなされるという、かなりブラックな学校運営がなされていた。(あっ、でもこれ当時の常識だし、これで苦しいと感じたこともなかったw)

これだけ同級生が多いから熾烈な競争が繰り広げられそうなもんであるが、(勉強しない)クラスメイトに恵まれたのか(笑)、僕自身の慢心なのか、高校時代は(も)真面目に勉強した記憶がほとんどない。
授業中、空き缶を飯盒炊飯に見立てて米を炊いたり、絵筆のお尻側をカッターナイフで削ってお手製耳かきを作ってみたりと、訳の分からないサボり方をしていた(笑)

そんなことだったので高校入学時には、かなり上位にいた成績も徐々に下降し、2年生の終わり頃には、かなり下位の方に沈んでしまっていた。
2年生後期くらい、物理の実力テストで学年ビリの点数(9点!!)取った時は流石にヤバいと感じたが・・・

ちなみに高2の春、瀬戸大橋が開通するというニュースは大きな記憶として残っている。

気づくのが遅すぎた「受験戦争」という現実

第1話で書いたが、兄が5学年上の「ひのえうま」世代だったということで、大学には比較的簡単に行けるだろうという気持ちでいたのが大きな間違いだった。
高3でやっと自分が受験戦争の真っ只中にいることを認識するのだが、時既に遅し、受験レースはとっくに終盤にかかっていた。
一方の僕は、その時点でスタートすら切っていなかったのだ。

高3の春くらいから、参考書や問題集を買って、ほぼ独学に近い形で大学受験と向き合い、第4コーナーくらいでかなりイイ線までまくり上げたものの結果は惨敗
そりゃそうだ、同学年に200万人以上(ひのえうまは136万人)もいるから、大学に入れない人間は溢れかえり、大学偏差値は上昇、大学不合格率はこの年、過去最高の約45%にも上っている。
僕の受験戦争、ミスターシービーのようにはいかず、浪人が決定(笑)

ちなみに高3の春、僕の人生にとって大きな転機が訪れる。
2年生まではどの学部・学科に行くか決めていなかったというか、学校全体で大学合格がゴールという雰囲気が漂っていたし、それが普通な時代だった。
進路の適正診断みたいなもので「土木・建築」というコースが常に上位を占めていたので、物は試しと「新建築」という雑誌を買ってみたのだが、そこに掲載されていた村上徹さん(建築家)の「坂町のアトリエ」という小さな建築に心を奪われ、建築家になるという夢が芽生えたのである。

村上徹氏設計の坂町のアトリエ。シンプルでハイカラなデザインに心を奪われた。

高校卒業後は岡山市内での予備校生活。

予備校に通っていた1年間だけは、しっかり勉強したというか、受験勉強のゾーンに入っていたという方が正しいかもしれない。
数学や物理の問題は解くのが楽しいとも思えたし、1年間で成績もV字回復みたいになったので、正直それほどしんどいとは思わなかった。

ただ大学センター試験の国語で大コケし、志望していた国立大学はあえなく不合格、最終的に親に負担の大きな私立大学に入学することとなるが、晴れて大学生(明治大学理工学部建築学科に入学)になることができた。
(これが運命なのか、後の僕の人生にとって大きな分岐点となる)

建築愛が止まらない大学時代

大学での建築の勉強は本当に楽しかった。
これまでの、何のためになるのか分からない勉強から、将来の人生設計に向けて、自分が好きなことを勉強するのだから、楽しくないはずがない。
建築オタク人生の始まりである(笑)

ちなみに有名建築家による建築を初めて見学に行ったのが、今回のインデックスにもしている長谷川逸子さん設計の「湘南台文化センター」である。
ポストモダンを絵に描いたような建築で、この時代を象徴する存在だ。

ポストモダンの後期、1990年前後から、いわゆる野武士の世代と言われる建築家(その下の世代も含めて)が、公共施設の設計に関わるような時代(コンペ等も盛んに行われていた)にいよいよ突入していく。
(それまでの公共施設は、丹下健三や磯崎新といった巨匠を除き、大手組織事務所が手掛けるものが大半だった)
90年代以降は、建築家がその個性を表現するフィールドとして公共施設があるといった百花繚乱の様相を呈するのである。

野武士以降の世代が(たぶん)初めて手がけた公共施設?(著者調べ)
・長谷川逸子(1941年生):湘南台文化センター(1989年)
・安藤忠雄(1941年生) :兵庫県立こどもの館(1989年)
・伊東豊雄(1941年生) :八代市立博物館(1991年)
・六角鬼丈(1941年生) :東京武道館(1990年)
・山本理顕(1945年生) :熊本県営保田窪第1団地(1991年)
・高松 伸(1948年生) :仁摩サンドミュージアム(1991年)

長谷川逸子氏設計の湘南台文化センター(画像は施設HPより)
安藤忠雄氏設計の兵庫県立こどもの館(画像はWikipediaより)
伊東豊雄氏設計の八代市立博物館(画像はWikipediaより)

この頃は関東近郊はもとより、全国各地の建築巡りをしているのだが、その大半はこういった建築家による公共施設巡りであった。
ちなみにこれらの建築物が現在どうなっているかというと、非常に苦しい立場に追いやられているのではないかと想像する。
アグレッシブなデザイン、メンテナンスの難しさ、解体できない苦しみなどなど、所有者である自治体にとっては悩ましい存在になっている気がする。
お金が裕福にあった時代の産物であり、極度の財政難に悩む自治体にとって、維持管理の難しさとランニングコストが大きくのしかかっている。
これ「ガワ」だけでなく「ナカミ」が両立できていない公共施設を端的に表す、痛すぎる現実なのだ。

目の前でシャッターを閉められた就職活動

華やかな建築界においては、百花繚乱の様相を呈していたものの、バブルが弾けて以降、世の中の景気は確実に後退期に差し掛かっていた。
ここでも「ひのえうま」世代の兄が出てくるのだが、有名大学さえ出ていればちゃんと就職できるという数年前の常識は、もはや無いに等しい状況にまでになっていた。

事実、僕の2つ上くらいの先輩までは学部卒でバンバン大手企業に就職できていたのだが、1つ上の代から徐々に怪しくなり、僕の年では完全にシャッターが閉められてしまったのだ。
大学院を出ていないと、事実上の戦力外通告で、大手設計事務所の採用面接では、実際にそう告げられた。
(まぁ僕自身、大手企業に就職するのは気乗りもせず、親を安心させるための就職活動だったのだがw)

大学4年時は卒業設計と設計事務所でのアルバイトに明け暮れていたのだが、そのうちの一つが妹島和世さんの事務所。
夏以降は学校か妹島事務所に住んでいたと言っていいくらい(笑)だったが、大学生活を終えた2月以降も実は就職は決まっていなかった。
そのまま、妹島事務所に採用してもらえればよかったのだが、バブル崩壊の波はまたしても僕の目の前の道を塞いでしまうことに。
妹島事務所も参画し、東京お台場で進められていた「世界都市博覧会」の開催が怪しくなりかけていて、1995年4月の青島幸男・東京都知事の誕生により、正式に中止が決定された時期だ。

妹島事務所も参画していた「世界都市博覧会」は中止に

僕が実際に就職にありつけたのは、記憶が正しければ6月くらいのこと。

知り合いのツテでバイトに行かしてもらっていた都内のアトリエ系の事務所が、老人ホームの設計を正式に受注できたということで採用してもらった。
設計事務所というのは受注ビジネスだから致し方ないのだが、まとまった受注がなければ採用は厳しい時期であった。
業界は完全な買い手市場となっていた。

妹島事務所(当時はスタッフ入れて4名とかの規模)にアルバイト立場で居続けることもできたのだが、親に対して就職したという事実を届けて安心させたかったというのが心のどこかにあったかもしれない。
ただ、両親に「どこの会社に就職した」ということをハッキリと伝えた記憶はない。
戦中生まれで田舎暮らしの両親にとって、東京の有名大学を卒業して就職に困っているというなんて、夢にも思わないことだったろうし、就職できていないなんて口が裂けても言えなかった。
ましてや、スーパーマーケットからうどん屋に業態チェンジして間もない時期だったので、心配もさせたくなかった・・・

ということで今回はここまで。

受験戦争に就職氷河期という苦難が目の前に立ちはだかる段階ジュニア世代の苦悩を、正に当事者として経験させてもらった時代。
まぁこれがあったから今があるのだが、更に苦悩の時代はこの後も続くのだ。

ということで次回は、ついにあの再開発ビルも登場?お楽しみに。

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