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#12 公共施設マネジメントにおいても苦悩する団塊ジュニア世代(の第1話)

僕は1971年(昭和46年)生まれのいわゆる「団塊ジュニア世代」で、1971年から1974年生まれはこう呼ばれ、同級生が全国に実に約200万人もいる。
直近2022年の出生数は77万人なので、当時は約3倍も子どもが生まれていたことになる。

ちなみに僕には5学年上の兄がいて、その年は「ひのえうま」と呼ばれる年代で、出生数がその年だけ70万人ほど少ない。
まだまだ情報が少ない時代、僕にとってこのことは後の人生にも関わる大きな不幸となって立ちはだかるのだが、それは後ほど触れていくこととする。

さて、今回はほぼ50年間生きてきて様々な苦境に立たされてきた「団塊ジュニア世代」が、今なお公共施設マネジメント分野においても苦しめられているという話(1回では足らないので複数回に分けて)について。
まぁ悪い事ばかりではなく、良いことも含めて、僕の生い立ちを軸にしながら、都市の様子や公共施設にも触れつつ、年代順に沿って説明していくこととしよう。

子ども時代(小学校時代)

僕は津山市の隣にある勝央町というまちで生まれ育った。
実家から歩いて5分程度のところにあった勝間田小学校に通った。
学校沿革を改めて調べてみると1965年(昭和40年)に建てられた校舎だったようで、鉄筋コンクリート造3階建ての学校であった。
全校生徒は約450人、1学年2クラス編成(確か45人学級)で同級生は85人くらいいたと思う。

この小学校、今考えると結構すごくて全館で空調が導入(ファンコイルユニットの暖房・ただ冷房は無し)されてて、体育館は2階建てで1階には全校児童が入れる給食室(ランチルーム)が整備されていた。
記憶は薄いが、入学して間もないくらいに下水道が供用され水洗便所になっていた。(これ、津山市より10年以上早い)
比較的新しい校舎だったので結構快適だったように思う。

↓こちら勝央町立勝間田小学校の沿革

その他、行ったことのある町有の公共施設としては、町内に別の小学校が3校、中学校(現在は別の場所に移転)、保育所(こちらも別の場所に移転)、役場(まだ現役)、公民館(こちらもまだ現役・小さな図書館が併設)、旧役場(資料館的に使われていた?)、スポーツ公園くらいしかなかったように記憶している。
一方で、小学校に入学する頃、町内に工業団地ができて、下水道が引かれて、家の前の道も太くなり、工場勤めのため流入人口もかなり多かった。(ド田舎なのにたくさんの転校生がいた)
そう考えるとかなり時代を先取りしていて、かつ戦略的な都市経営であるとも言える。
(日本列島改造論に沸き、社会資本予算が田舎にもどんどん投入され、全国の均衡が図られていた1980年代初頭、それでも人口1万人くらいの田舎ではかなり先駆的な都市開発モデルだったように思う)

僕の両親(共に高卒)は自宅でスーパーマーケット(チェーンとかではなく1店舗単体の店)を経営していたので、客商売のこととか、お金のこととかは幼心に慣れていたように思う。
80年代の半ばまでは、多分景気も羽振りもよかったのだろう、結構不自由なく生活していたように記憶している。

1つ上の姉と自宅スーパーにて。Tシャツの柄は王貞治(笑)小1かそこら。

その頃の遊びは?というと、ド田舎だったので、そこら辺にあるフィールド(川や山や田んぼ)で遊ぶことが大半だったのだが、小学校3年生(1980年)の時に発売された任天堂の「ゲームウォッチ」によって、遊び方も大きく変わったように思う。
自然の遊び、アナログな玩具、デジタルな玩具と結構多様性が出てきた時代で、ごちゃ混ぜ感が半端なかった。
小3から「ゲームウォッチ」なので、時代の変化と上手に付き合うのに長けていた世代とも言えよう。

自然や外遊び:川泳ぎや魚とり、カブト・クワガタ取り、缶ケリや警ドロ、サッカーやソフトボール・・・
アナログ玩具:ルービックキューブ、バンバンボール、スライム、ラジコン、スーパーカー消しゴム、ガンプラ・・・
デジタル玩具:ゲームウォッチ、電子ゲーム、ファミコン、家庭用PC(MSXとか)・・・

家の中の家電とかも年々足されていってた記憶がある。
タッチチャンネルテレビ、ステレオ、クーラー、プッシュホン、ビデオデッキなどが毎年のように追加されていった。
店先に置かれていた自販機も、ビンコーラから缶コーラに変わっていった。

学校が荒れていた時代(中学校時代)

中学校に入学するのは1984年(昭和59年)なのだが、この頃は学校がマジで荒れていた。
いわゆる校内暴力全盛の時代である。
尾崎豊の「卒業」の中でも描かれているが、僕たちの中学校でも窓ガラスが結構割られていたし、授業中よく爆竹が鳴り響いていた(笑)
授業中に先生と大乱闘になり、学校内にパトカーが来て、同級生が6人も警察に連行されるという大騒動もあった。(僕はその日、たまたま風邪で休んでいて残念ながら目撃できていないw)

当時はサッカー部に所属していて、特に最下級生であった1年生の頃の印象は「軍隊」に近くて、部活では1年生から見た上級生は「神」のような存在だった
また校内生活は、先生から力で押さえつけられる完全な管理教育が敷かれていた。

先生からも先輩からも怒られまくっていたのと、苦しいことは全て「ど根性」で乗り切れると教えてもらっていたせいか、この時代のおかげで異常なまでにストレス耐性値が高くなったのかもしれない(笑)

ちなみにこの頃、チェッカーズが大流行りしていたのだが、上級生のモテモテの先輩は、みんな郁弥カットだったのに、僕たちの学年だけ全員坊主頭を強要されていた時期(1年の夏頃から2年の冬頃までorz)もあった。
(先生がバリカン持って、学校内で強制散髪してたという嘘のようなホントの話)

モテてた先輩達はみんなこんな風だった(笑)

2年の秋から生徒会長になった僕は、その後、友人数名(悪い連中w)と一緒に役場へ乗り込み、教育長と対峙して「丸坊主強要は不当な横暴だ」と訴えたところ、この訴えは見事に成功し、その数日後には丸坊主解除となった。
(この出来事によって、偉そうな大人たちも権力には弱いと知ったのであるw)

隣にあった大都会「津山」という街

カッコつけてた僕はこの頃、隣町である津山によく遊びに行っていた。
僕にしてみたら津山は大都会(人口は8.6万人くらい)で、それこそアーケード商店街は人で溢れていて、銀天街という天井が鏡でできたアーケード街では、上を見て歩いていると、人にぶつかって危なくてしょうがないくらい人がいた。
まだまだジャスコもアルネもない時代だったし、津山の商店街には全てが揃っているように感じていた。

今、色んなことを勉強していくと、津山に限らずどこの地方都市においても同様の状況であったようだ。
とにかくこの時期は商店街という商売形態とポジションが圧倒的に強かった時代である。

汽車に乗って、週末は津山に行き、レコードや洋服を買うのが楽しくてしょうがなかったし、当時、津山には映画館が4館もあったのだ!!

映画って言っても見てたのはこんなやつ(笑)

ちなみに初めて買ったLPレコードは確か吉川晃司の『ラヴィアンローズ』で、そこからおニャン子クラブに移り、BOOWYへと目覚めていくという流れ(笑)

往時の津山の銀天街、天井も街もキラキラしていた。

兄の大学進学が大きな誤算の始まり

中1の時、ひのえうま世代の兄が大学受験を迎えることとなった。
この時、僕(親も含めて)は大きな勘違いをしてしまうのだが、兄は学区内の高校から東京6大学に合格してしまったのだ。(最終的に法政大に進学)
親も経済的に苦しくなかったのだろう、私立専願だったし、ド田舎から名のある大学に入れたのを、両親が非常に喜んでいたという記憶が残っている。

ずいぶん後になって知るのだが、この年はひのえうま、全国的に人数が少なかったため、その年だけ大学の競争率が極端に低かったのである。
ちゃんとした情報が届いてなかった時代、5年先をいく兄と同じようなことが続くと信じていた僕にとって、ここからの人生は誤算の連続である。

ちなみにまだバブル期が続いていた時期(1988年)に大学を卒業した兄は、超高級輸入車を扱う商社に採用され入社(今は転職)している。

ただ、(チェーン系スーパーの進出により)この頃くらいから店の調子もだんだんと下降気味になってきていて、世の中の景気も徐々に・・・という実感は僕にはまだまだなかった。
常に新しいものが出てきていたし、人口もまだまだ増えていた時期だ。

前述したが中学校は荒れまくっていて、サッカー部も愚連隊のような集まりだったけど、僕自身なぜか学校の成績は良くて、学区外の進学校(津山高校)に前途洋々な気分で進むこととなった。

次回以降

ということで、前編では公共施設がほとんど登場してこずじまいだったけど、公共施設と真正面から向き合うことになるのはもっと後のこと。
ということで、次回(80年代後期〜90年代後期くらい?)もお楽しみに。

このあたりの時代背景を忠実に描いている↓の本、同世代には超オススメです。

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