見出し画像

不登校と、葛藤回避時代のリスク

お久しぶりです。
あっという間に卒業シーズンですが、学校では不登校の相談が増えています。相も変わらず、世は大不登校時代であるなぁ…と想うオマメです。

個人的には、今後さらに不登校が増えていき、公立の学校はいずれ無くなっていくのでは?と想像する瞬間があります。

というのも、昨今の不登校増加傾向は世の中の流れに関係するように思うからです。
今回は、そんな最近の考え事とうっすらとした危機感を一緒に書き残しておこう、という魂胆です。


葛藤回避の横行する令和

"多様性の尊重"が叫ばれ、人それぞれが良しとされ易い時代になりました。

一部では『多様性尊重によるリスク』という逆側の指摘も出され始めたものの、世間知としてはまだまだ"今は人それぞれだもんね"が流行の最中であるように思います。

この流れの副産物か、昨今は昔よりも”なにかを決めてなにかを諦める"という選択自体をしなくて良い世界になってきたんじゃないか?と感じることがあります。
小さな葛藤回避が横行している気がするのです。

糖質オフのビールは葛藤回避だ


代表格だと思うのが、糖質オフのビールです。
あれは葛藤回避的な飲み物じゃなかろうか。

どういうことかといいますと…。

人の心の中に相反する2つの欲求がある時、その間に"葛藤"が生じます。
例えば、『ビールが飲みたい』欲求と『糖質は摂りたくない』という欲求は相反してぶつかり合う(もしくは綱引きし合う)ため、そこに葛藤が生じるんですね。

"葛藤"は筋トレの負荷みたいなもので、大きすぎると心を痛めますが、適度な大きさであれば抱えた分だけ心に筋肉をつけます。自分を脅かさない程度の葛藤って、ドラクエでいうところのスライムを倒すようなもので、意外と大事なものです。

もともと人には『ビールが飲みたいなぁ』『でも糖質は摂りたくないんだよな』という欲求に挟まれ、ビールを手に取るか葛藤できるチャンスがありました。
ところが糖質オフのビールが現れ、『ビールが飲みたいなぁ』『でも糖質は摂りたくないんだよなぁ』という欲求の真ん中が容易に選択できるようになったのです。

そうして葛藤を回避できると、心はホッとする反面、ハリもなくなります。
今日の昼飯をうどんにするか蕎麦にするか迷った時、うどんと蕎麦の相盛りにするのは一つの解決策なんだけれど、”よし、今日は蕎麦だ!”と決められた時に心は少し元気になる、そういうことはあると思うのです。

相反する2つの欲求の真ん中でどう動くか決めるのは、本来人の心の大事な仕事だったのにな…と思わされる。最近、そういう事象が増えている気がします。

1人用ピザボックスも葛藤回避だ


別の例でいえば、飲食の話ばかりで恐縮ですが、一人用のピザボックスですね。
個々人の好みに合わせて、複数の種類を1枚ずつ選択できるというのです。
初めてその広告を見た時、『いや、もう、ピザの良いところ台無しやんけ!』と笑ってしまいました。

ピザって、複数人で一枚をシェアするのが楽しい食べ物…じゃ、なかったのか。
自分では頼まないプルコギを”まあ、いいか”と思って食べてみたら意外とウマいなっていう体験ができるもの…じゃ、なくなったのか。

個人の中での葛藤に留まらず、自分の欲求と他人の欲求との間で生じる葛藤も回避できる時代になってきたんですね。
マルゲリータが好きな人とプルコギが好きな人は、話し合いをしないで済む代わりになにか失っている機会はないのでしょうか。

SNSの人付き合いも葛藤回避だ

もはや常識となったSNSでの人付き合いも、葛藤回避的なものかなと思います。
これは自分も、その違和感に慣れて呑み込まれた当事者の一人と思いながら書きます。

『他者と繋がりたい』欲求と『面倒なのは嫌だし傷つきたくない』という欲求
SNSはその相反する2つの欲求の真ん中を容易に取ることを可能にし、結果的には対面で人と向き合うことで生じる葛藤を回避する人を増やしている気がします。

例えば、ネッ友と喧嘩した時、自分がブロックすればそれで葛藤回避…できますか?
対面での付き合いならば直接謝るのにヒリヒリとした勇気を要しますが、結果的には後腐れないことが多いです。
『付き合いを辞めたい』欲求と『それを相手に直接伝えたくない』欲求が心の中でぶつかったとき、ブロック削除は葛藤回避です。
こういう葛藤回避って一瞬はホッとできても、その後に気まずさや後ろ暗さのようなものが残ると思うんですよね。

私は糖質オフのビールを手に取ってしまった日には、結果的に微妙な敗北感や不満足感を得ることが多かったです。
そういうことってありませんか?

不登校と葛藤回避時代のリスク


こんなふうに、かつては日常に沢山あった手のひらサイズの葛藤がどんどん奪われている世界を感じています。

令和の子供たちは、自分の中で、もしくは自分と他人との間で、悩むチャンスを奪われてはいないだろうか?

個々人の欲求をオーダーメイドで先に満たしてくれる社会は,一見心地よく生きやすいのですが、そりゃあ、他人と一緒に何かするのが苦手な子供は増えるでしょうとも思います。
社会的に他人とかかわっていくことは、どうやったって葛藤的なことだからです。

はー、いま私が飲み屋にいたら、うるさい説教ババアになりかねませんな。

ランドセルを赤か黒かで悩む必要はなくなりました。
男か女かで何かを決めるのももうやめましょう、という流れになってきました。
学校も、行っても行かなくても良いんじゃない?と、なりつつあります。

選択肢が増えることは良いことだと思います。配慮が必要な場所に配慮がなされ、大きすぎる葛藤で動けなかった人が動ける社会になることはとても大事だと思います。
しかし、かつて日常にあった軽い葛藤チャンスがなくなっていくことは、他人同士がうまくやっていく社会を作る上で本当に大丈夫なのか?と、うっすら不安になるのです。

個々人の葛藤回避が横行する時代に、他人と他人はうまくやっていけるんでしょうか?
"みんな"が崩壊しても、秩序って保てるのかな?
そこにうっすらと危機感をもっています。

いずれにせよ、不登校が増えている背景のひとつに、葛藤回避を容認する現代の傾向は関連しているのではないか…という主張です。

他者の欲求と自分の欲求の間で擦り合わせをする心の筋肉が育っていなければ、基本的に集団指導で”個々人の希望に合わせる”ことが難しい学校という環境で適応が下がるのは当然だと思うのです。

このままこの傾向が加速していけば、いずれ大きなまとまりで指導を受ける”学校”って制度自体が崩壊するんじゃないかなあ。
ランドセルの選択が赤か黒かの2択からフルカラーに変わったように、『学校に行くか行かないか』の2択から、多種多様な学校があって個々人が自分に合うものを選んでいくスタイルに変わっていくのかな…と空想しています。

それはそれで良いのかもしれないけど、価値観の違うもの同士でうまくやる力は育てておかなくて平気なのかしら、と、やはりうっすら危機感が湧いてくるのです。


補足とまとめ

一つ書き加えておきたいのは、"いまの子供達は葛藤してない"と言いたいわけじゃないということです。
かつて日常にあった手のひらサイズの葛藤がなくなった代わりに、いまは昔よりもっと複雑な葛藤(2者択一じゃなく、第3、第4の選択肢が沢山あるもの…)が溢れています。
子供達は葛藤の出口を見つけるのがより難しくなっているのではないでしょうか。

糖質オフのビールは葛藤回避を可能にします。
しかし、それで人間が葛藤しなくなるかというとそうではなくて、"ビールを飲むか飲まないか、それか、糖質オフのビール飲むか飲まないか"と、葛藤の選択肢が増えて複雑化することもあるわけですね。

最近は小学生のうちから思春期的な対人の悩みを持ったり変に気を遣う子が増えた体感があります。
男か女か、善か悪か、正しいか間違っているか。
そういう二者択一じゃないというのはこの世の真実だと思いますが、いきなり複雑化した葛藤を抱えねばならないとなると、心が疲れてしまう子が増えていくのも心配なのです。

まだ1+1の単純計算をやっていて良い筈の時期にxとyを組み合わせた方程式を解かされたら、算数嫌いになって計算自体を避けようとする子が増えちゃうんじゃない?という懸念です。

以上、思いつくままに書いてしまいましたが、最近の考え事でした。
なにか連想するところやコメントあれば、ぜひぜひお願いします。

それでは、また。

#不登校
#スクールカウンセラー
#葛藤
#心理士
#臨床心理士




この記事が参加している募集

振り返りnote

多様性を考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?