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私はすぐ2回目の死を迎える『夏の庭―The Friends』を読んで

小学生の頃、周囲からの評判は比較的良かったと思う。成績も良い方だった気がする。ただ、田舎の18人しかいないクラスで成績が良かったというのは大した頭の良さじゃない。

算数なんて小数点が出てきたあたりで眉間に皺ができ始め、パーセントの登場で完全に目を閉じて悟りを開いた。

この頃から完全に数字が苦手だ。今でも30%引きと書かれている商品がいくらになるのか分からない。割り勘の計算もできない。なんなら掛け算すら危ういところがある。別に計算ができないわけではないのだ。信じられないぐらい遅いので諦めてしまう。確定申告の時期は地獄だ。諦めることができない。

小学生繋がりで思い出したが、夏休みの宿題に読書感想文があった。なんの本を選んだのか何も覚えていない。でも私はそれなりに本を読む小学生だった。

『バムとケロ』は大好きだったし、『わかったさんのおかしシリーズ』『こまったさんシリーズ』『かいけつゾロリ』『キノの旅』『怪談レストラン』もっともっと色んな本を読んだと思う。

その中でもなんで手に取ったのか全く思い出せないけれど度々思い出す本がある。それが『夏の庭―The Friends』だ。

先日、本屋に行ったら文庫本フェアの中に並んでいたので、大人になった今、もう一度読み返した。

死に興味を持った少年たちが、人が死ぬ瞬間を見るためにもうすぐ死ぬと噂の老人を観察することにした。しかし、ある日老人に見つかりそこから観察対象だった老人と少年たちは交流を深めていくことになる。少年たちが考える死とは、失うことの怖さ、死んでもなくならないもの。少年たちだからこその視点で死について書かれ、読み終わったころにはこの少年たちは一生この夏を忘れないんだろうなと物思いにふける。

死はどんな生き物にも訪れる。どんなに偉い人だってどんなにお金持ちだっていずれは死ぬのだ。


ここからは、この本を読んで私から溢れ出たものを記していく。


死というものは難しい。コントロールできるものではない。今日、道で子猫が轢かれていた。真っ白綺麗な体で、尻尾の先だけ茶色だった。

その子猫にも家族がいて、友達がいただろうにそこで人生は終わってしまった。そして、その子猫と一緒に歩むはずだった人生が、急に消えてしまった猫もどこかにいるのだ。

急に自分の人生からその人がいなくなる。そして次第に思い出せなくなって、消えてしまう。反対に、私が死んだら急に誰かの人生からいなくなり、そして思い出してもらえなくなって消えてなくなるのだ。


人は2回死ぬ

この言葉を何度も聞いた。1回目の死は肉体が滅んだとき。2回目の死は人々の記憶から消えたとき。

この言葉を聞いたとき、私はいつもモノマネ芸人さんが浮かぶ。モノマネをする人がいる限り、その人のことを思い出すことができる。それだけじゃない、私が産まれるずっと前の人だってモノマネ芸人さんを通じて知ることができ、そしてその人を感じることができる。肉体は滅んでも、まだ生きている。

「あぁ、いいな」と私は思う。

私をモノマネしてくれる人はいない。友達も少ない。同僚もいない。私が死んだらあっという間に2回目の死がやってくる。 

私が死んでも当たり前のように日は昇る明日は来る。私がもがき苦しんだ日々は、心臓がただ止まっただけで、最初から存在していなかったと言われないかと不安にかられる。

私は誰にも見つかりたくない、知られたくないと思う一方で、誰でもいい、誰でもいいから誰か私のことを覚えておいてほしいとも思う。

この先、誰かが私を覚えていられるような何かを残す自信はないけれど、ふとしたタイミングで思い出してもらえるような人物になりたい。


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