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私がベリーダンスに救われたわけ〜祝福と鎮魂を〜

その人が何によって救われたかは、本当にその人それぞれなので、とても興味深いと感じます。
わたしの場合は、ベリーダンス には心を、ピラティスには体を、救われたと思っています。

ベリーダンスになぜ私が救われたと感じているか、それは、いわゆる「女性らしさ」への私の思いと、自分の繊細すぎる部分に苦しんだことが理由です。

高校の頃、トルコからの留学生が踊ってくれたのが、初めて「ベリーダンス」という言葉を知った時でした。それから数年経ち、友人とトルコに旅行したときにベリーダンスに魅了され、帰国してすぐに習い始め、数年前まではかなりゆるーく続けて、もうベリーダンス生徒歴10年以上が経ちました。

最初はなんだかわからない妖艶な動きと美しさに引き込まれたのですが、踊ってゆくうちに、ベリーダンスにおける表現の深さ、濃さの虜になっていました。その、滲み出るような、溢れ出るような表現方法が自分の中のいろいろなものを満たしてくれました。

ベリーダンスの特にオリエンタルでは、愛について歌った曲が多く、女性のありかたが現代のわたしたちとは違うイスラム教の国々だからこその、濃い想いや苦しみ、喜びが描かれています。欲望まみれの愛欲とか陳腐な恋、とかではなく、まさに人生そのものを語るような壮大な世界観です。少し、演歌や昭和歌謡に通ずるような情緒もある気がしています。

オリエンタルの曲独特の、リズムと音階と、そしてアラビア語を理解して、体の奥でそれを感じて表現するので、まさに演劇のようで、本当に美しいです。

まだまだ到達できませんが、でも、女性らしいカーブを活かした動きにのせて、その壮大な表現をすることは、何にも代え難い喜びです。

なぜ、こんなにベリーダンスは私の中を満ちさせてくれるのか…

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女性性への渇望と諦めの葛藤


私は、普段はおしゃれをしたりメイクをしたり、着飾ることも好きですが、面白いことが大好きなんですよね。まあ笑いのセンスこそないですが、人生を面白がりたい。真剣なことは考えるけれど、悲観しすぎずに人生をできるだけ笑いで溢れたものにしたい。
一方で、カービーな曲線の体や、その曲線を活かした流れるようで滑らかな魅力的な仕草や、蠱惑的な表情や表現に憧れもあります。ただ、それを日常生活でやりたいとは思わない。なぜなら自分には似合わないから。

だから、ダンスという表現において、その女性性を楽しむことは、自らの中の、潜んだ大きなコップを満たすように、とても心地の良いものなんです。

しかも、日常の等身大の自分自身とは違うところでそれができるというのが私にとってとても重要です。


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自分の弱さを許してあげられた時

そして、よく言えば繊細さ、悪く言えばいろいろなことを気にしすぎて疲れてしまう自分の弱さに、昔から悩んできました。娘には、この弱さが引き継がれませんようにとことあるごとに思ってしまうほどです。
弱さの克服は常に課題で、少しずつでも進んでいると信じたいのですが、それとは別に、やはり元からある自分の特徴を許してもあげたい。そんな中で、この弱さがあるからこそ感じて、内側で渦巻く行き場のないこの何かを、ダンスに乗せて表現することで、弱さが昇華されたと感じたのです。

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ベリーダンスを通して、祝福と鎮魂を

以前は、いかに音楽の中にある自分にもてる表現を突き詰められるか、がテーマでしたが、今は、師匠のおかげで、その先、その表現を見て、一人でも楽しいとかなんか共感できてスッキリした、とか、一瞬でも、たしかに人生は祝福で満ちていることを感じてもらえたら、そして暗い感情の鎮魂ができたらいいなという想いで研鑽を重ねています。

ベリーダンスによって自分が救われたように、自分の踊りで、一人の方のたった1秒だけでもより良いものにできたなら、という想いで、これからも踊ってゆきたいと思います。

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