見出し画像

「アソブロックとは何だったのか?」発刊前夜

連載をしている「対人援助学マガジン」の50号に、9月末に発刊する単行本「アソブロックとは何だったのか?」に関連する文章を書きました。「会社は人が育つ舞台である」と定義し、兼業必須、じゃんけん採用、コンビ採用年俸宣言制芸術支援制度など、それなりに独自性の高い取組みをしてきた20年の記録。マガジンに掲載した原稿を、ここにも載せます。

***

 アソブロックの社長を退任して約1年が経過した。退任した狙い通りになっていることもあれば、そうでないこともある。退任したことで自分自身が気付けたこともあるし、新しいことを始めたい気持ちも湧いてくる。
 
 でもその前に、やっておかなければならないと思っていることがあった。それが、アソブロックの20年の挑戦を振り返ることだ。特定の事業やサービスを持たず、「人が育つ場所」として会社を運営する。その実験的な営みが、何を生み、どんな問題にぶち当たったのか。「会社とは何か?」という根源的な問いに、メンバー全員で向き合ってきた会社だからこそ、現時点までに感じたこと、学んだことを書き記しておきたいと思ったのだ。なんといっても、継続することをヨシとせず、毎年「来年も会社を続けるのか?」から全員で議論をしてきた会社である。結果的に20年続いたわけだが、代替わりをした今、来年なくなっても、それこそ「アソブロックらしいな」で終わりである。
 
 それはそれでいいのだが、このままなくなると、ここまでの過程もきれいさっぱりなくなってしまう。その点だけはつまらないと思うし、検証結果を自分たちだけのものにしておくのも勿体ない。いつの日か、自分たちの挑戦を参考にしたいと思う人が出てこないとも限らない。
 
 そう考えると、数十年後に美しく美化された思い出として語るだけでなく、できるだけ生っぽさが残るタイミングで、末永く残る形でまとめておきたいと考えた。例えメンバーが全員、行方知れずになったとしても、資料として残り続けるものにしたい。と考えると、書籍にして国会図書館に所蔵しておいてもらうのが一番だ(ISBNコードが付いた書籍は基本的にすべて国会図書館に納本され、国民共有の文化的資産として永く保存。日本国民の知的活動の記録として後世に継承される)。そう考えて、単行本を作ることにした。幸いなことに、ぼくは自分で出版社を持っている。

***

 最初に決めたのは、タイトル。「アソブロックとは何だったのか?」とすることにした。こんな風に書くと「会社が無くなった」みたいに感じる人もいるかもしれないが、明らかにひと時代が終わったとはいえるので、そこは気にしないことにした。そして、可能であれば、20年間の社員全員に寄稿してもらいたいと思った。
 
 この寄稿依頼にも狙いがあって、できればぼくは全員に自分の口から「辞めました」と言いたかった。けれども、15年前に辞めた社員に「実はこの度辞めました」というだけの連絡をしても「こちらは忘れていますけど」と言われるのが関の山だ。「どれだけ自分のことを愛されていると思っていますねん」と軽蔑されかねない。
 
 軽蔑されるくらいは、それが積み重ねてきた歴史がもたらす事実なのならば甘んじて受け入れるべきなのだが、自分可愛さゆえに、避けられるものなら避けたい。と言う時に、「良かったら寄稿してくれないか?」という依頼があれば、わざわざぼくが連絡する理由になると思ったのだ。
 
 かくして名簿を洗い出し、昔のメンバーも含めて、一人ひとりに連絡を試みていった。最初から本にするつもりだったのだけれど、そういう風に言うと緊張しちゃうだろうと思ったので、「メッセージ集を作りたい」という理由にして「良いことを書いてくれということでも、団さんにメッセージを書いてほしいということでもなく、あなたにとって『アソブロックとは何だったのか?』を素直に書いてほしい。あなたにとって、アソブロック在社中は苦しい時代であったなら、是非そのような内容を素直に書いてほしい」と頼んだ。
 
 しかし、探しても探しても行方が分からないメンバーも複数いて、ツイッターやインスタでアカウント検索し、フォロー後に投稿をしばらく読み続け、多分そうだろうと思ったら恐る恐るDMする、みたいなこともやってみた。それでも全員分は集まらなくて、結局寄稿してもらっていないメンバーには申し訳ない気持ちになるのだが、やれるだけのことはやったのでヨシとした。
 
 かくして完成した「アソブロックとは何だったのか?」は9月末に発売になる。発売後、最初にしたいことは、もちろん国会図書館に納本に行くことだ。
 
 もし興味があれば、ぜひお買い求めいただきたいのだけれど、せっかくなので、ぼくのパートである「団遊の証言」の一部をここに掲載しておきたいと思う。続きが読みたければご購入ください、という、よくある「ちょい見せ」になるのだけれど、どうぞご勘弁ください。

***

団遊の証言
(在社期間:2003年5月〜現在)
 
特別に何がしたかった訳でもないが、2003年5月、27歳のときに私はアソブロックという会社を作った。
 
その前はというと、大学を卒業してから、フリーのライターをして、誘われるままに先輩の会社に参加して24歳で取締役になった。会社とは何か?などという問いが当時の私に立つわけもなく、売上、利益、オモロいことを、ただただ追求していた。
 
先輩の力もあり大阪の小さな編集会社はやがて東京大阪体制になり、東京支社長のような形で上京し、人数もオフィスもどんどん大きくなっていった。
 
いつかは!と、半ば目標のようになっていた出版社の立ち上げも成し遂げ、処女出版本が書店に並び、わずか3年で何かやり切ったような気持ちになった。
 
それならばまたイチから自分の城を、と取締役を退任し立ち上げたのがアソブロックだった。
 
やりたい事はさしてなかったが、やりたくないことは明確にあって、それは、これまでの繋がりで来る仕事は引き受けない、ということだった。
 
延長戦みたいになるのがイヤだったし、前の会社の仕事を横取りするような形になるのも嫌だったからだ。
 
それまでの人脈には頼らないと決めたので、創業直後はとにかく暇だった。
流れるようにやってきたアルバイトの女の子と2人で毎日暇を持て余した。
 
仕事もないのになぜ人を雇ったのかと聞かれることもあったが、彼女がいることで自分との約束を守れたことは大きかった。言っていることとやっている事が違う、という体たらくを見せる訳には行かないという小さな意地が発動し、窮地を見かねた知り合いからの仕事依頼も断り続けることができた。
 
持て余し続けた暇もやがて持てる程度の暇になり、はじめての方からの相談が来るようになった。新しい人からの依頼は断らない、の精神で仕事を積み重ねていくと、どんどん忙しくなり、一人またひとりと、オフィスにメンバーが増えていった。
 
仕事がもらえるのが嬉しかった。
気が付けば相変わらず、売上、利益、オモロいことを追求していた。
 
そんな毎日の中で、周囲にも煽てられ、いつか上場したいと思うようになった。経営者たるものそこを目指すのが当然だというような言われ方もしたし、カッコ良くも感じた。
 
相変わらず、誰かの影響をモロに受けて自分のしたいことを決めていた。
 
潮目が変わったのは、設立から4年ほど経過した頃だった。
 
運転資金の借り入れが増え、遂にお給料を出せなくなった。それまでの私は、メンバーに給料を遅延なく支払うことが経営者の最低で最高のノルマだと思っていた。
 
決して給料を払っているのだから何をさせてもいいと思っていた訳ではないが、一方で、給料払っているんだから頼んだことは内容によらずやってもらわないと、と考えている面もあった。
 
メンバーと私をつなぐ最優先事項は給料だと信じていた。給料を上げることで絆は強くなるとも思っていた。
 
その給料が払えないのである。終わったと思った。自分自身を情けないと感じたし、自己破産をしたら海外に行けなくなるのか、などと浅はかな知識で未来を悲嘆した。
 
何度考えても無いものはないので「ありません」「払えません」と言うしかない。まずは中核メンバーの二人を呼び出し、当時オフィスにしていた南青山にある古い一軒家の和室で事情を伝え、次の仕事を探してほしいと頼んだ。
 
ところがそこで私にとって想定外のことが起きた。「給料はいらないからもう少し頑張ってみましょう」と二人が言い出したのだ。
 
以降、長く経営を共にすることになる二人からだったが、当時の私の常識からは考えられない申し出だった。私が逆の立場ならすぐに辞めるという確信があった。
 
給料が払えないのは1カ月や2カ月の話ではない。情緒的な判断で発言しているなら撤回したほうがいいと伝えたが「多少は貯金もあるし、ホンマに無理なら全然辞めるから」と押し切られ、私はその発言に甘えた。
 
そこではじめて、私の中に問いが生まれた。「会社とは何なのか」という問いである。
 
繰り返しになるが、それまでの私にとって会社とメンバーをつなぐものは給料だった。しかし、私の力不足が原因で給料を介さない会社が期せずして生まれた。決して誇れることではないが、内省を促すには十分だった。
 
毎月稼いだお金を借入の返済に回す中で、無料もしくは薄給で一緒してくれるメンバーをガッカリさせることだけはしてはならないという思いが日に日に強くなった。
 
私は一度自己破産を覚悟した身だから、どうなってもよい。ただ、当時のメンバーが人生を振り返った時に、この時を「時間の無駄だった」と思うようなことにはしたくないと思った。
 
まず着手したのは、やりたい仕事とやりたくない仕事を振り分けて、やりたくない仕事を返すことだった。
 
給料も満足に払えないのにやりたくない仕事をしてもらうのは流石にあり得ないと思った。
 
売上、利益率が二大指標だった考えを否定し、やりたいかどうかのみにフォーカスして仕事を仕分けた。すると社内の空気が少し変わっていくのが分かった。自己破産を覚悟した頃の社内は、クライアントへの文句や愚痴がはびこる状況で、正直なところ、私もそこから逃れたくて外回りをしている感があった。やがてやりたい気持ちは相手にも伝わり、素直なやりたいは新たな仕事を生むことを知った。
 
支払を完全に止めた二人への報酬も少しずつ払うことができるようになり、借入も少しずつだが、確実に減っていった。
 
やがて借入返済の目処がたち、ひとまず経済不安から脱すると、多少なりとも出始めた利益を、共に乗り越えたメンバーのために使いたいと考えた。せめてもの罪滅ぼしである。
 
例えばちょっといい店にみんなで食べに行くとか、社内備品をより使いやすいものにするとか、椅子を変えるとか、社員旅行に行くとか、現金を支給するとか。
 
これらはやっている方には一定の満足感があった。でも、それが本当に正しい恩返しなのかという疑問もあった。かけられる予算は微々たるものだし、普通の会社なら福利厚生として当然整備されていることを矮小化した真似事に過ぎないからだ。単なる自己満足に過ぎないのではないかという気持ちは拭えなかった。
 
一方で、その少し前から他社よりヘッドハントされるメンバーがで始めていた。「満足に給料も出ない中で大変だろうし、よかったらうちで働かないか?」と言った具合である。
 
引き抜いてやろうというつもりはなく、あまりの気の毒さに「助けられることがあれば」と、そんな気持ちからの申し出だったと後々聞いた。窮地は外にも漏れ出ていた。

<単行本はこちらから予約・購入ができます>
オフィシャルサイト https://shop.honblock.net/items/66846701
アマゾン(短縮urlよりリンク) https://onl.tw/WrBvUky