見出し画像

冷たい文章ってなんなん

かなり久しぶりにnoteを書く。文章を暫く書かなくなったことには経緯がある。

文章から逃げた理由。


ここ数年、
病状が悪化していくまでに何度か色んな方面から言われた。
 
「文章だと冷たく感じる」
「残酷な文面」
「会って話したほうがいい」
 
文章はわたしにとって「味方」だった。
自惚れかもしれないが、あなたの文章がすきと昔からよく言われ、
素人ではあるが普通の人よりは多く文章をたくさん書いた。
話す練習もしてきたが、それ以上に文章の方が
素直に自分の気持ちが出てくるし、書いたあとに読み直しができるので、
自分は本当に伝えたいことか、伝わりやすいか、間違えはないか等
より真剣に向き合えるので、ここぞという時は「文章」に頼った。
 

自分にとって文章とは、

「話す」と同時に「証跡を残すことができる」マルチツールだ。


会って話すこともできるが、生きてきて強く思うのは、
会って話した言葉は流されやすいこと。
 
自分の外見や話し方は、他人の話を引き出し展開するには長けているが
ざっくりいうと「なめられやすい(あほっぽい)」と自覚しているので
相手の主張は私自身は記憶したが、
わたしの話は無かったことのようになったケースを多く経験した。
(ヒエラルキーのような階級制があり言葉なんて必要とされていなかった)

1on1で、自分より強力な相手と話す場合に、議事録(個人のメモ)は弱い。


 
とはいえ、
文章のやりとりは冷たく感じるから会って話した方が早い!という人へ
「事前に録音させていただいても、よろしいでしょうか」と提案した場合、
また「録音なんて、信用してないじゃないか」となるのだろう。
 
皮肉ばかり書いているが、
これまでに書いたわたしの文章は、どれも心を込めたものだった。
「言葉の刃」のような捉え方もされたし、
自覚もあるが「晒しものにした」経験もある。
文章で何かを変えたいとか。真剣にそう思っていた。 

「文章は責任とセット」<「罵声や威嚇に責任は、オプション」


証跡が残るので、文章は「責任とセット」なので悪者になりやすい。
自分がすきな作家さんらが孤立体質なのは、
こういうことが原因な気がする。
 
罵声、物にあたりながら威嚇されても、社会的にも何も起こらないし、
社会的にも意外と大丈夫というのが分かった。

罵声や威嚇はその場にいた人の受け取り方次第なので、
責任はオプションみたいなもので、もし話し合う場で

「なんで、そんな言い方をするんだ!」
「お前にそんな権利があるのか!」

と、怒鳴られた場合に、怒鳴る側は「発言の権利を制圧させる発言」に
責任は持っていないし、
持っていたとしたらオプションで「通常は無いもの」と学んだ。
 
ここ数年、そういったことが連続した。
何時間かけ考えた文章に、数分の話で負け絶望していった。

なんのために脳があって、考えてきたのだろう。
また皮肉なことに脳の障害が再発、悪化した。
 
今はどうしたらいいか分からないし、できないことも多い。
やらなければならないこともあって、考えなければならないこともある。

だけど脳は上手に動かなくて、思う方向へ文章を書いた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?