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シンエヴァンゲリオン考察:父性と母性はいかに碇親子を救うか③

 ※シンエヴァンゲリオンのネタバレを含みます。

 シン・エヴァンゲリオンをご覧になった方なら分かるように、綾波レイは碇ユイのクローンであり、碇シンジを守ってきた存在で、いわゆる母性の象徴である。一方、シンジの父である碇ゲンドウはその父性をシンジに向ける事はなく、息子を突き放した状態で物語は進んでいく。その代わり、ゲンドウの父性をある人物が演じる事で、シンジは父性を知る。新劇場版エヴァンゲリオンを通して、碇シンジとゲンドウは父性と母性、あるいは女性性とどう向き合ってきたのだろうか。そして、この作品は本質的に何を描いているのだろう。”父性と母性:そこからの自立”を軸に碇親子を考察する。

※本記事で”女性”と表記する際は、女性性を意味し、恋愛関係や肉体関係を持つ対象として記述する。”男性”も同様に、男性性である。以下、関連記事です。

【母性と女性を知らない:碇ゲンドウ】

 母親の愛を受けて育たなかった母性を知らないゲンドウは、ひとり寂しく、自分の世界に引きこもる人物として描かれている。そんな中、ユイに出会い、恋人として愛され、”女性”を知る。それと同時に、その深い愛はゲンドウが今まで経験して来なかった母性を教えてくれる。つまり、ゲンドウにとってのユイは母性と”女性”、母の愛と女の愛を与えてくれる人物なのである。これを踏まえて以下、”父性と母性”がどのように碇親子を苦しめ、そして救ったか考える。

【未熟な父性:碇ゲンドウ】

 愛し、愛される事を教えてくれたユイの死によって、ゲンドウは再び孤独感を味わう。この時、孤独な存在になった様に見えて、実は一人ではないのだ。そう、息子であるシンジが生まれているからである。つまり、ユイに出会う前の、孤独なゲンドウにはもう戻れないのだ。息子がいる事で彼は父になってしまった。ひとりになり塞ぎ込み、自らの悲願(ユイに再び出会う)へ猛進したいゲンドウにとってシンジは邪魔な存在であり、近くに置いておきたくなかったのだ。つまり、父性を持たず一人の男性として生きていこうと考えていた。しかし、その未熟な父性は完全に消える事がなく、どこかでシンジの事を気遣っていた。その気遣いが以下のキャラクターの役割として当てはまる。

【父性と母性の化身:14歳の少年少女たち】

 ゲンドウ自身を保つ存在として、あるいはシンジを守り自立させようとする存在として、以下の子供たちはその役割を与えられている。

 レイ:母ユイの母性

カヲル:ゲンドウの父性

アスカ:シンジ、初恋の”女性”

 マリ:シンジ、初体験の”女性”

 ゲンドウは息子に無関心でありながら、未熟な父性を捨てきれない。なぜなら父として子を育てる役割を担っておらず、それ故、息子は自立していない自覚があるからだ。その父性との決別を果たす為には、シンジの自立が果たされなければならない。その為に必要な要素は、シンジに”母性”と”女性”を教えることである。

 母からの愛を受けて育たなかったシンジ(あるいは、シンジを通して自らを見たゲンドウ)がレイを通して、母からの愛を受ける。”女性”を知らないシンジはそれを恋だと勘違いするが、そうではなかった。そっくりさん(黒波)が消滅した理由は恋ではないと悟らせ、かつ母離れが出来た瞬間でもあった。故にもう一度ヴィレに合流しようと決意するのである。

【ゲンドウの父性:渚カヲル】

 ゲンドウは父である自覚を捨て、他社にその役割を担わせる為にカヲルをシンジにつかせた。カヲルがシンジを認める事で生まれる自己肯定感の高まりは、ピアノを教えるシーンで見受けられる。シンジが初めて弾くピアノをカヲルが教える様は、寛容的でうまく弾けないシンジを導いている。連弾というスタイルで、シンジがうまく弾けている様にしたり、うまくなる為の手法は反復であると説く。その様は、まるで父が子へ背中を見せつつ成長を促す場面である。このカヲルの態度はゲンドウがシンジにしてやりたかった父性のあり方なのである。Qでのカヲルの死は、ゲンドウが命を捨ててシンジを守ったと同時に、ゲンドウがシンジを引き離し、父性との決別を図った瞬間であった。しかし、この時点でシンジは父性から再び突っぱねられた状態であり、その上、母性の加護も受けていないので、Qの終盤とシンエヴァの冒頭では塞ぎ込んでしまっている。

 庵野監督が自らの父親に求めた物が渚カヲルを生み出し、行動させたと考えられる。それは以下、『プロフェッショナル仕事の流儀』の番組内で庵野の父に関して、監督が吐露する場面から考察できる。


以上。次回は、アスカとマリにも触れていく。

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