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達観できない

惑い、困り、悩み、そして不安になる。私である。そのためか自信満々の人、わかりきっている人、自分のエゴイズムを恥ずかしげもなく披露する人が苦手だ。それはどこかその人たちが達観しているように僕の目に映るからだろう。

仲が悪いというわけでもない。憎悪をぶつけたいというわけでもない。ただ、理解できないし、理解されないのだ。

社会、常識、そして環境、すべてが不思議に目に映る私に対して、達観している彼らは「○○ってもんだ。」、「まあ、○○ってことだ。」と言い切れる。僕が時に社会や常識に批判的になると、「まあ、まあ」と宥められ、再び「○○ってもんだ。」などと言葉をかける。

「プレゼンター」と「オーディエンス」が入れ替わりながらなすものが会話なら私から始める達観した人との会話は「プレゼンター」だけの会話になってしまうのだ。自分がプレゼンターとして抱く思いや怒り、不思議なものが受け入れられられない。彼らはオーディエンスとはならず、応答として達観のプレゼンをして、会話は「プレゼンテーション」だけのものになってしまうのだ。「プレゼンテーション」は何のためにするかと言えば、「オーディエンス」に聞かせるためだ。「オーディエンス」がいないとなればそれはお互いが只、持論を独り言として吐き出しているにすぎない。

このような言葉は使いたくはないのだが、分かり合えない。人間関係は基本的に分かり合えないのが当たり前だと思うだろう。しかし、それを差っ引いてもわかり合えないのである。

分かり合えない。

なぜ、彼らは「要するに」でなんでもまとめられてしまうのか。因果関係が不確かなことをあたかも因果関係があるように「○○だ。」「○○である」と断定系を使って話すことができるのか。あらゆるものに対して簡単に評価を下すことができるのか。わからないのである。そして、彼らにとって私の惑い、困り、悩み、そして不安はつたわらない。それもわからないのだ。

これはどちらが良い、悪いという問題ではないだろう。そして、自らの思想を持ち生きている彼らに対して批判が注がれるべきでもない。ただ、私には彼らのように達観することができないのだ。ただ、それだけの話。しかし、彼らと触れ合い、彼らを見るとどこか息苦しい。

それは私が達観していることと、「わかったつもり」を同義に捉え、それを過度に恐れているからだと思える。しかし、ある事象、とりわけ人間関係などにとっては達観していること、悪く言えば「わかったつもり」が良いこともあるだろうとは思う。

私の問題はあらゆることにおいて達観できていないのだ。そして、惑い、困り、悩み、そして不安になる。臆病者なのである。

ここでふと、その達観できない臆病者の私ができるのだろうかと考えた。それは達観した人には見えない、彼らからは理解できないすべてのことに対して臆病になる私にしか見えない世界の見方や、物の捉え方を大切にすることだろう。確かに達観している人には、一種の論理や道筋は見えているだろう。しかし、一旦道筋が見つかれば他の道をもがきながら探究することは容易ではないはずだ。そのような彼らのような決まった道筋が私に見えるかといったのなら不可能だ。私は迷いながら進むしかない。そうしたときに、彼らが見えていたのとは違う道をたまたま発見できるのかもしれないのである。そういった点からみると、私は良いことも悪いことも彼らと分かり合えないことと、つまり「達観できない」ことと切り離せないのだ。

よく考えてみると、「達観できない」ということは私の問題でもあり、かといって捨てきれないものなのだった。だから、これからもそれを抱えて惑い、困り、悩み、不安になりながら生きるのだろう。


達観できる人へ

たまには立ち止まって「達観できない」私の話を聞いてくれると光栄だ。「オーディエンス」になって欲しい。私もあなた方の「達観」を真剣に聞こうと思う。「オーディエンス」になるのである。

                      達観できない者より。


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