見出し画像

ニーバーの祈りについて

ラインホルド・ニーバーについては、一般人よりクリスチャンの方が良くご存知だろう。
私が「ニーバーの祈り」として有名な一文を最初に読んだのは、20代の半ば頃だったと思う。当時愛用していたマックのハードディスクには、私が書き散らしたテキスト文書が詰まっているハズで、恐らく「ニーバーの祈り」についても何か書いていると思う。

THE SERENITY PRAYER
O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,
and wisdom to distinguish the one from the other.
Reinhold Niebuhr
ニーバーの祈り
神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
ラインホールド・ニーバー(大木英夫 訳)

もう随分と前のことだが、当時は文字通り「死ぬほど」働いて寝たきりだった母の介護をようやく脱した頃で、同時に深刻なアル中(アルコール依存症)に悩んでいた頃だ。今にして思えばほぼうつ病で、何も出来なくなっていたし、何をする気力もなかったと思う。
9600ボーのモデムでプロバイダのアクセスポイントにダイヤルアップで接続し、ネスケでネットを巡回している時にたまたま同じアル中の人のサイトを知り、その流れでAA(アルコホーリクス・アノニマス=断酒会)の存在を知った。そこでこの「ニーバーの祈り」を読んだと記憶している。
そこからどうやって再起したのか、今となっては非常に記憶がアイマイだが、ひたすら太宰治と坂口安吾の蔵書を再読したのは覚えている。当時は太宰より安吾の文学に救われたような気がする。
一時期は四ツ谷にAAのミーティングがあることを知って、自宅から参加希望のFAXまで送信したこともあったが、ついぞAAに参加することなく現在に至っている。どうも、酒だけに責任を転嫁することに抵抗があったようだ。「酒は趣味なのだ」と、自分の中で必死に抵抗してもいた。
私のアル中っぷりは相変わらずではあるものの、その後大検を取得して進学した大学2年次の演習で、アル中をテーマに医学書まで引っ張り出して論文にまとめたから、自己完結型で他人に迷惑や害を及ぼすようなことはなくなったと思う(多分)。
ゆえに、「ニーバーの祈り」はずっと忘れていたのだが、このニュースを知って思い出したのである。

個人的に色々と思うことはあるが、「残念だ」としか言いようがない。よって、北朝鮮による拉致事件や、これまでの拉致被害者を奪還するための活動や、その他政治的なことを含め、一切言おうとは思わない。いや、正確には一言半句言える立場にはない
ただ、横田早紀江さんがめぐみさん奪還のための署名活動をした頃にキリスト教に入信したのは、この「ニーバーの祈り」を知ったからではないか?と勝手に想像するからだ(本当のところは知らない)。
ちなみに、ラインホルド・ニーバーはプロテスタントの牧師で、横田早紀江さんもプロテスタントのようだ。
私はクリスチャンではないし、よく知らないことに関してウカツなことを言おうとは思わないが、フランツ・カフカもビックリなほど、あまりにも世の中は不条理に満ちている。
蛇足ながら、私も「少しでも日本が良くなれば」と思って細々と活動はしているが、時おり保守活動と日本人に対して絶望感に苛まれることがある。


私はクリエーターではなく栗イーターですが、サポートをいただければ書籍代や保守系勉強会(セミナー)の参加費に充て、さらに勉強して得られた知見を記事としてフィードバックします。