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「評価」、この厄介なもの。


 授業づくりネットワークの「評価」の号を読み合う講座に参加した。

 この号はおもしろい。学校での「評価」というテーマを真ん中に、様々な立場の人たちがさまざまな視座・視点でもって記事を寄せている。おそらくこの記事の人とあの記事の人が直接意見を交わしたら、一向に分かり合うことなどないくらい(むしろケンカになりそう)、幅広い主張が1冊の本に凝縮されている。「評価」を取り巻くモヤモヤした複雑な現状を、複雑なまま受け取ろうとすることができる。こういう教育雑誌は授業づくりネットワークしか無いと、毎号読んでいてそう思う。
 講座では、この本をめぐって参加者の方々と話をしたのだが、話せば話すほど、やっぱり「評価」というものは厄介なものだなあと思った。
 そこで考えたことを書いておく。



『評価するためには目標が必要である』って本当か?

 「評価」号でも度々出てくる「目標」という言葉。評価するためには目標の設定が重要で、評価があいまいになってしまうのは、授業で生徒に何を見付けさせたいか、という目標があいまいだからである。目標に準拠した評価を設定することによって、生徒の目標に迫る学びの見取りが可能となり、同時に自身の授業自体を評価、改善するための指標となる。云々…。言葉では十分理解できるような気がする。
 しかしである。授業は目標→結果という直線的な過程を必ずしも辿らない。むしろ辿らないことが多いのではないだろうか。そういった目標→結果、さらに評価するという直線的な授業モデルの背景には、教師が上手に教えたことは生徒にそのまま伝わる、という思い込みが見え隠れする。そういった思い込みから、目標を明確にすることが、かえって生徒の学びを見るためのまなざしを狭めてしまうのではないか。目標にないものは学びではないと切り捨てて、評価の対象ではない、できないと判断してしまう。
 延々と続く評価することの厄介さとしんどさは、延々と作り続ける目標と、生み続けられる結果から逃れられないしんどさでもあると思う。目標からこぼれ落ちるような行為やつぶやきにこそ、生徒の今の学びを評価するための、さらに自身の授業を振り返るためのヒントが溢れている。
 だから目標はそこそこに、ぼんやりと生徒が何かを楽しんでいる様子を眺めるような時間が、評価のあり方を豊かにするのではないか。
 そんなことを話したら、参加者のお一人から「ゴールフリー評価」なるものを教えていただいた。参考にしたいと思います。

誰も本音を言えない

 「評価」号の中盤では、教師たちの現場での評価の実際を、座談会形式で話し合うコーナーがある。その内容は、前半の名だたる研究者や大学教授の評価の議論とは全く噛み合わない、現場での評価の厄介さが語られている。
 その噛み合わなさは笑うしかないほど全くなのだが、これが今の評価に対する本音なんだと思う。書いてあることを要約すれば、
「言われた通りには絶対に評価できない。」
 しかし、こんなことは公の場では誰も口にすることはできない。
 講座でも「誰も本音を言えないからではないか」という話を聞いて、全くその通りだと納得した。
 私も正直、「主体的に学習に取り組む態度」などは評価できないと思う。  
 研修や現場では、自己調整力と粘り強さの二重曲線でグラフ化されたイメージがよく持ち出されるけれど、「そんなグラフで何の根拠でABCをつけることができるのか?」なんて絶対に言えない。言ったらもしかして「え?ちゃんと評価してないんですか?」と言われそうな気がするから。(多分言われないだろう笑)
 そのくらい、「絶対に言ってはいけない」雰囲気を醸し出す評価の厄介さはすごい。バカには見えない服を着た裸の王様に「あなた、裸ですよ。」なんて絶対に言えない、みたいな。

ドラクエ化する能力と評価

 講座では非認知能力や資質能力と評価に関する話にもなった。子どもに身に付けさせたい「〇〇力」という物差しが生まれる度に、私はドラクエの「こうげき力」「ぼうぎょ力」のようなパラメーターを思い出してしまう。
 そうやって新しい能力を定義することによって、評価の対象として数値化やレーティングが可能となり、あたかもその能力を測って他人と比べるために価値があるものとして認識される。数値やレートは高ければ高い方が良いものとして理解されやすく、たちまち評価が能力主義の道具として使われることになる。
 教育学者のガート・ビースタは、
『「価値があるものを測定しているのか」、それとも「測定しているものを価値あるものとしてしまっているにすぎないのか」』
と言った。評価が能力主義の道具として使われてしまうことを端的に表した言葉だと思う。
 非認知能力でも資質能力でも、能力に凸凹がある方が人として当たり前で、凹凸の違いを他者と補い合うことで社会が成立する。しかし、見えないものまで評価したい、そして高めたいという欲求は、まるでドラクエのレベル上げのように終わりのないゲームに拍車をかける。みんなドラクエのやりすぎなのかもしれない。

 






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