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誘惑

 先日、スーパーへ買い物に行った。

 家を出る前に必要なものだけをメモに書き、「今日は絶対にこれしか買わぬ!」と固く心に誓って出掛けたが、残念ながら脆くも私の意思の弱さが露呈する結果となった。

 前日、友人から毎年届く見事な梅を、今年も梅干しにしようと梅仕事をしたばかりだった。それなのに、青梅一キロ四八十円という破格の値段を目にした時、私の心は大きく揺らいだ。

「もう一キロ漬けてしまおうか」「いや、もう一キロ漬けたい!」そう思った私の手は早かった。迷わずすぐに、香しい梅を買い物かごにやさしく入れていた。

 数日分の買い物を終えた私は家に帰り、夕飯の支度をした。しかし、私の気持ちはわずかばかり沈んでいた。母にまた呆れられるのも嫌だったから一キロしか買わなかったが、一キロ四八十円。どうせならもう一キロ買えば良かったと、そればかりが頭の中をぐるぐるぐるぐると駆け巡って仕方がない。

 梅が安くなっていなければ、私は今日、再び梅を買うことはなかっただろう。たまたま梅が安くなっていたからもう一袋買えば良かったと思っているのである。そんな私はとことん現金な人間だが、それでもやはりもう一キロ買っておけばよかった。そうすれば梅シロップが作れたのにと、氷砂糖と赤い蓋の大きな瓶を買わなければいけないことなどすっかり忘れて、そんなことを一日の終わりに布団に寝転んで、天井を眺めながらまだ考えているのである。

 何とも浅ましい人間である。

 思えばあの梅の香りがいけないのである。あの何とも言えない匂いを嗅いだら最後、私の気持ちは奪われてしまうのである。何とも言えない甘く、そしてどこか爽やかな、それでいて梅干しや梅酒、シロップなど何通りにも姿を変えるあの梅が、今年も私を誘惑したのである。

 そうは言っても誘惑されているうちが花である。この季節にしか登場しない梅を見て、香しい匂いを嗅いでも何とも思わなくなってしまったら、それこそ私はもう生きている甲斐がないというものである。

 春夏秋冬という季節も、大幅にずれ込んでしまったかのように思われる現代でも、こうして季節のものは季節のものとして市場に出回り、暮らしに四季をもたらしてくれるのである。四季を感じさせてくれるのである。その四季を感じずに生きていくのは、やはり寂しいと感じるのである。

 これから鬱陶しい梅雨が来て、そしてまたバカみたいに、いや、バカみたいならまだいいが、人をも殺す暑い夏がやって来る。そんな中で、私のささやかな生きる楽しみはこの梅仕事であり、その季節にしか楽しめない食であり、私の命を助けてくれるのは梅干しに姿を変えた、この梅なのである。

 人間に誘惑されては場合によっては毒だが、梅に誘惑されるなら何の毒もない。むしろ体にいいのである。そんなしょうもない言い訳を考えていたら、「普段、私はそんな安売りはしないのだ」と、梅の声が聴こえたような気がした。

2024年6月12日 書き下ろし


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