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乱れまくり

新聞を取らなくなってから随分になる。

そのせいでインターネットのニュースやソーシャルメディアの世話になるようになった。
それからというもの、特に関心もないことがクローズアップされて、目に飛び込んで来るようになった。
それらの中には、緊迫した世界情勢だったり、環境問題、親殺し子殺しといった穏やかでないニュースもある。それらと比べたら、てんでどうってことのない、取るに足らないことなのかもしれないが、私は気になって、いや、耳に障って仕方ないことがある。

日本語の乱れである。

自分の妻を「嫁」と言ったり、自分が相手にすることに対して「ご連絡」と言ってみたり、他所からの電話にも関わらず、手前側の人間を「○○さんはいらっしゃいません」と言ったり、いつの頃から日本人はこんなにも日本語、自分の発する言葉に無関心、無責任になったのだろう。

かく言う私も、時々、これはおかしなことになっていないかと、自ら発した日本語のせいで思考停止に陥る時はあるが、思考停止に陥るだけまだ自分の発する言葉に関心があるのだと、ホッとしたりしている。

年端もいかない小さな子供や、中学校低学年の子供が 「私のお母さん」というのならまだ可愛いいものだが、二十歳を過ぎた大の大人が「うちのお母さん」などと会話の中で親のことを話された時など、私はうんざりしてしまうのである。
それでも、気を取り直して話を聞いていると、さぞかし仲の良い親子なのかと思えば、そうでもなかったりする。

何とも摩訶不思議である。

いくら愛嬌があり、腹の中は何とも思っていないと言われても「うちのババァが」なんて言われるよりはまだいいかもしれないが、何の説明もなくそれを言って話が通じるのは、私の知る限りでは毒蝮三太夫さんだけである。
これはテレビを観ていると、よく耳にすることが多いのである。トーク番組など、若手や中堅の役者やタレントがゲストで出演した際、楽し気に自分の家族のことを司会の方に、普段の調子で思わず口をついて出てしまうのだろう。好意的に見ればそれは気取りがない、リラックスした状態だからと捉えることも出来るが、それでも余り感心出来ることではない。
言葉に素人の人間であれば文句をつけることもないのだが、少なくとも言葉を発してそれで人の心を動かす、もっと大袈裟なことを言えば世の中をも動かしてしまうほどの影響力のある人間である。
その彼らがまともな日本語を使わない、年相応の日本語を使えないということは何とも嘆かわしいことである。

いくら英語が喋れようとフランス語を喋れようと、「うちのお母さん」 「○○さんはいらっしゃいません」「私の嫁さん」と言われた時にゃあ、どの面して話を聞きゃあいいのか、手前も分かり兼ねるってもんでござんすよ。

用件を伝えるだけならば、わざわざ無理して丁寧な言葉遣いをする必要はないのである。
昔々の電報がそれであった。
「チチキトク スグ カヘレ」
これだけで用は足りたのである。何も、
「お父様が危篤ですから、今すぐにお帰りなさい」などというような、そんなまどろっこしいことは文字数でいくらと取られた電報では、そうはいかなかったのである。
しかし、その言葉の意味は短くとも、丁寧でなくとも、いささかぶっきらぼうであっても、きちんと相手に誤解されることもなく正しく伝わっていたのである。それは、その言葉を受け取る側の人間も、きちんと日本語を理解する力があったから、何の違和感もなく理解出来たのである。
そう考えると、今の日本人は日本語というものを異常なまでに相手がどう受け取るか、過敏になり過ぎて骨折り損のバカ丁寧な言葉を使うようになっているのかもしれない。何も無理やりに丁寧な言葉を使おうとはせず、まずはシンプルに、
「おはよう」を「おはようございます」、「元気で」 を「お元気で」とそんなところから変えていけば良いだけのことなのである。
分からなければ使う前にまずは調べる。せっかくスマートフォンという何でも簡単に調べられる機械を、一日中肌身離さず持ち歩いているのだから。

人にどう話すかではなく、人がどう捉えるか。その反対も然別。それを考えて言葉を使えば、自ずと日本語は成長していくものであると、ここまで乱れた日本語が飛び交う現代でも、私は信じたいのである。






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