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【学校や職場になじめない方へ】あなたの違和感こそ正しい

私たちは6歳で小学校に入り、多くの人は18歳で高校を卒業する。人によってはその後大学や専門学校に入り、大学院まで進む人もいる。学校教育は通常だいたい15〜20年くらいの期間だ。

この長い期間受けてきた学校教育というのは、いったい何を学ぶところなのだろう。教師と呼ばれる人から受けてきた「教育」という内容は、何を教わるものなのだろう。「学歴」という言葉があるけれど、学んだことをどれだけ自分自身のものにできているだろうか。よく「リッパなガクレキ」という言葉を聞くが、何がリッパで、何がそうではないのか。

生き生きした人が見当たらない霞が関

こうしたことを私なりに考えたいと思ったのは、今の職場環境のためだ。私はいま日本でとりわけ「学業優秀」と言われるだろう人たちが集まる場の一つとされる、中央官庁に関わるところで働いている。官僚と呼ばれる人が働いていて、メディアなどで俗に「霞が関」と呼ばれる場所だ。

霞が関で働くようになってもう4年以上になる。この期間、私は仕事を通じて多くの官僚の方と話をする機会をもらってきた。一個人の感想として、私はこの官僚という立場の方で、生き生きと自分らしさを発揮して働いている方を、極めてごく一部の方を除いて、見たことがない。

たいていみな疲れた顔をしている。生気みなぎって業務にまい進している人を見たことがない。これは不思議なことに霞が関エリアだけでなくて、地方の国の事務所で働く官僚の方とお会いするときにも、同じような感想を抱く。生き生きさとは遠い、何かよそよそしく、ちぐはぐな感じがする。

官僚の方が日々取り組む仕事は、きっと責任の重い仕事なのだろうと思う。ただ、彼ら彼女らがその仕事に対して、自分の内側から湧き上がる思いにかられて仕事をしているのだろうか。そうは見えない。自分で決めた仕事を熱意にかられて「やる」こととはほど遠く、むしろ自分の意思など関係ない業務を延々と「やらされている」というのが見ている私の実感だ。

仕事上の「装い」としてそうした「日々仕事をこなしている感」を繕っているのかと、しばらくそう思っていた。ただ、昼食や夜の会合などで何度かお付き合いする機会をいただいても、彼ら彼女らから「生きる熱意」を感じたことは私の記憶の限りではほとんどない。霞が関かいわいの複雑怪奇な権謀術数に絡め取られて、息苦しそうに自己を押し殺しているように感じる。何か自分の中で湧き上がる思いにかられて行動することなど、とうの昔に忘れてしまったかのようだ。

人がその人らしさを生かして生き生きと生きていくことに、リッパなガクレキコースを歩むことというのはむしろそれを阻害するものになるのではないか。自分の中でまとまらないもやもやを考えを整理したいと思い、泉谷閑示「反教育論」(講談社現代新書)を読んだ。教育ということを、根底から見つめ直す視点で語られていて、とてもおもしろく、実感を持って考えさせられる話が多くあった。

芸術とは縁遠い「ピアノ道」

1つぜひご紹介したいエピソードがある。著者である精神科医の泉谷さんが安定した勤務医の職を30代半ばで離れ、長年渇望していた音楽に浸る生活を送ろうと、パリの音楽院に留学した時の経験だ。その音楽院はさまざまな国の留学生が学び、その中には日本の音大を卒業したエリートの方々も多く混じっていたという。日本のエリートはピアノの技術レベルでは他国の留学生をはるかにしのぐレベルだったという。

しかしながら、泉谷さんはその流ちょうな表面上の高い演奏技術の一方で、「決定的な何かがかけていた」という。日本のエリートが奏でる「音楽」というのは、音楽という芸術が本来もっているであろう人の心に迫るような響きとは縁遠い、指一本のミスも決してしてはならないという恐れがにじむ機械的な演奏といった印象を持ったという。

それを音楽という芸術とは異なる、「ピアノ道」という表現を使っている。お稽古事としての茶道や花道などと同列の、形式ありきのものだということ。他国の演奏者は技術水準はともかくとして、音楽を心から愛し、演奏することそのものが愛おしいといった、自分自身の心の底から湧き上がる自然な思いをめいいっぱい表現するような音楽だったのだという。

日本人留学生の演奏の感想を、次の一文で語っている。

ただミスタッチなく正確に、教えられた通りの「解釈」を踏襲した「私は従順で勤勉な学生です」という演奏が行われるだけで、きっと何遍弾いても判を押したように同じ演奏をするだろうということは明らかだった。そこには、およそ「音楽」と呼べるものは存在しておらず、ただただ「音楽の死体」を呼ぶより他ない音の連なりが空虚に鳴り響いていた(p.139)

ぼくはこのイメージに、霞が関で働く官僚の姿を思い浮かべた。彼ら彼女らは本当に「ミスのない」人たちだ。つつがなく、滞りなく、前例をきちんと踏襲して仕事をこなしていくことに、極めて長けた人たちだ。そこには一点でもミスが許されないテストを最高レベルでクリアし続けてきたテクニックがにじみ出ているように、僕には感じられる。

リッパなガクレキは「テスト道」を極めた証とも言えるだろう。学問がきっと本来身につけるものであろう知性とは、たぶんほとんど関係がないものだ。「ピアノ道」を極めた音楽家から芸術が感じられないという指摘が当てはまるとすれば、「テスト道」を極めた官僚の方からは、知性やみなぎる生気を感じられないというのは、何か当たっているように思う。

誤解のないようにお伝えしたいが、官僚の方一人ひとりの人柄は、穏やかで接しやすく、また心遣いもしてくれる人もとても多い。しかしながら、そうした方が、何か自分自身の内側から湧き上がる思いで、熱意を持って仕事に取り組んでいるかというと、残念なことにそうは見えない。

「テスト道」を極めることは本来の自分を歪めること

ぼくはそのところが、とてももったいないと思うのだ。高学歴を得るための受験勉強や官僚になるための試験勉強は、きっとすごく大変だったろうと思う。そこまでして一生懸命「オベンキョウ」をしてきた先にあるのが、世間的な見栄えこそすれ、心身をすり減らすような仕事に行き着いているのが。世の中の高校や予備校が、「東大、京大・・・合格者が何人」みたいなことを誇り続けているけれど、その末が、こうした疲れ果てた仕事に行き着くのであれば、なぜそんなに追い立てるように学歴を求めるのだろうか。本当に疑問に思うし、いったい何が「質の高い教育」なのかわからなくなってくる。

もったいないという意味をもう少し私なりにいえば、一人ひとりがもっている力をなぜ活かせないのだろうかと思う。気の毒に思うのだ。持て余すほどの力を、「調整、調整、また調整」というぼくにはとても新しいものを生み出すようには思えない業務に追い立てられるのではなく、その人の自然な心から望むものに全力を尽くすような生き方ができないものなのかと思う。

これこそ、ぼくは日本の教育の大きな問題だと思う。つまり、詰め込み式でとにかく「暗記スキル」を求められるもので勝ち抜いた人ほど、自分で考える力を失っているのではないか。幸か不幸か、その暗記レースでトップクラスの成績をおさめた彼ら彼女だからこそ、逆にそのレース自体がおかしいと疑問に思ってしまえば、自分の人生そのものの価値が揺らぐということになりかねないのかもしれない。「テスト道」を極めた先の「高学歴」はその人らしい人生を生きさせなくするものなのではないのだろうか。本来の自分を歪ませて、人を幸せから遠ざけるものですらあるのではないのだろうか。

それではよい教育とはなんなのだろう。この著作の中に、次の一文がある。

もし真に子供にとって「良い環境」があるとすれば、それは、子供に自分の人生のツケを回したり夢を託したりせず、愚直に自分自身の生を求めて生きる大人が身近にいるということ(p.159,160)

私は思う。学校教育を従順に受け続けてきたって、決して自分自身の人生などつかめはしない。自分自身を生きるということは、既存の与えられた教育を突き破った先にある。学校や職場で何かなじめないものを感じている方にお伝えしたい。あなたのその違和感こそ、誰のものでもないあなた自身の人生が動き出す前のうずきであるということ。既存のテストで100点満点をどんなに連発したとして、到底見つけられはしないあなた自身の正解があるということ。




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