「山下達郎と私。」 vol.1 〜「山下達郎いいよ!」と言いたいだけ〜

「山下達郎いいよ!」と言いたいだけです。

ですが、さすがにこれで済ませてしまうのはあまりにも無色透明で芸がないので、もうすこし言葉を足してみます。冒頭のワンフレーズ以上の内容は出てきませんが、お時間ある方はぜひお付き合いください。

2020年。息が詰まる思いです。年を重ねたこともその原因でしょうが、やっぱり新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響が大きい。仕方がない状況とはいえ、感染が拡大する状況やそれに伴う余裕のなさ・窮屈さ・殺伐さ・将来の不透明さに気落ちしてしまいます。

なんとも言えない生活のなかで、「どんよりした心情をすくい上げてくれるのが芸術や人文科学や娯楽なのだなぁ」とつくづく感じています。文学、美術、旅行、アニメーション、テレビ番組(オドぜひ)。なかには、運動、勉強という人もいるかもしれません。

種類や内容はともかく、「生活必需でない周辺的な営みに、実はたしかな役割がある」と実感している今日このごろです。いま読んでいる岸政彦の『断片的なものの社会学』という書籍にこんな文章がありました。

実際に、どこかに移動しなくても、「出口」を見つけることができる。誰にでも、思わぬところに「外にむかって開いている窓」があるのだ。私の場合は本だった。 (引用元:『断片的なものの社会学』/ 岸政彦 Page 82)

僕の場合、「窓」すなわち「精神的な寄る辺」は、音楽でした。とりわけ山下達郎の音楽でした。彼の音楽が性に合うし、いまの世の状況にも合っているように感じています。


なぜ、山下達郎の音楽はいまの世の状況に合っているのでしょう?その前に、彼の音楽性について考える必要があります。

山下達郎の音楽の基本的な要素として、「彼の音楽それ自体はなにも解決しない」があると僕は考えます。彼の音楽には、見返りや打算や小細工や無理や慰めがほとんどないのです。ただただ日常のちょっとした出来事を切り取り、そこに喜びを見出し、表現するだけ。「こうすればいいよ」とか「がんばれ」など言わずに、ただ寄り添うように奏でるだけなのです。

楽曲で取り上げられるテーマは、日常、愛、夏の日、パレード、朝顔、素敵な午後、街に溢れるカラフルさ、すてきなメロディー、メリー・ゴー・ラウンド、クリスマス・イブなど、身近なものがほとんどです。

※中には『Bomber』 のように文句や怨嗟を並べるパワープレイな楽曲もありますが、それは山下達郎のキャリアの長さと楽曲のバラエティさに由来するのであって、全体の傾向としては少数派だろうと僕は捉えています。

「高嶺の花」や「映え」や「特別感」ではなく、一般人の手に届くものばかりが描かれる。シンプルに、"いま"と向き合い、喜び、悲しむ。この現在性が山下達郎ソングスのポイントであると僕は考えているのです。

見田宗介(みたむねすけ)という学者がいます。主に東京大学で社会学を研究していた学者なのですが、彼の『現代社会はどこに向かうか ──高原の見晴らしを切り開くこと』という著書で「コンサマトリー」という言葉が使われています。ちょうどいい説明が昨年の東京大学卒業式の告辞にありました。

その問いに取り組むうえで大切な規準が三つあると、見田先生は述べています。第一にpositiveであること。positiveとは、現在あるものをそのまま受容し承認することではありません。今は存在していないかもしれない、真に肯定できるものを前向きにつくり出していくということです。第二にdiverseであること、文字通り多様性を尊重することです。第三はconsummatoryであることです。見田先生は、これはとても良い言葉だが適切な日本語に置き換え難いと断りを入れたうえで、instrumental すなわち「手段的」「道具的」といった認識とは反対の境地だと論じています。それは、私達が行う現在の活動について、未来の目的のための手段として捉えるのではなく、活動それ自体を楽しみ、心を躍らせるためのものと捉えるということです。語源を探っていくと、con-は「ともに」という意味であり、summateは「足し合わせる」という意味ですから、ただ一人だけで楽しむということではありません。(引用元:平成30年度東京大学卒業式 総長告辞)

※僕は山下達郎と見田宗介に共通点があると睨んでいるのですが、これはまたの機会に書く予定です。書かないかもしれません。

成果や目的や見返りや打算ではなく、なにげなさに着目し価値を見出す山下達郎の音楽は、「コンサマトリー」にほかなりません。現在時制の素朴な音楽こそが山下達郎の音楽性です、たぶん。いやきっと。

コンサマトリーな音楽によって生み出されるのは、やさしさや勇気や鷹揚さです。徹底的にシンプルで人間的で牧歌的なスタンスによって、リスナーは無理をしていたことに気がつき、解放され自由になり、楽しみを覚え、なにかを取り戻す。そして、ゆっくりと堂々と鷹揚に「心のある道」を歩むようになる。いまをよく生きるというコンサマトリーな音楽性とそれによって生み出される前向きな体験が、山下達郎ソングスの真骨頂と言えるでしょう。

ようやく本題です。なぜ、そんな山下達郎の音楽は今日の世の状況に合っているのでしょう?

「昭和」という前々時代の音楽は、「懐かしさ」という文脈で語られることが多いですが、すくなくとも山下達郎作品においては当てはまりません。

なぜなら、彼のコンサマトリーな音楽性は、時代を通底しているからです。あの手この手で退屈させない音楽技術やリリックセンスはもちろんですが、それに加えてただもっぱらに無垢で、牧歌的で、決して無理をさせない彼の音楽は、いつどんな時代・どんな状況でもしっくりくる。だから時の試練にも耐えるうるし、ましてや「時代遅れ」なんてとんでもない。

というより、どの時代でも通用するその一般なのか特殊なのかわからない音楽性によって、「流行」や「時代遅れ」という領域から解放されているとすら思えます。「20年30年後も今と変わらず評価されているはず」とやけに自信満々に思えるのは、いつの時代においても必要とされるコンサマトリーな詩や音楽性ゆえでしょう。

さて、僕たちが今生きるこの現代社会は、合理性や時間や金銭で評価される世界です。それによってさまざまな恩恵を受けていますし、歴史的に見ても自由や平等や権利が比較的保証されている時代です。ですがその反面、成果なき行動は無価値とされがちですし、エネルギーやスピードや能力が求められすぎてしまう案外大変な世界でもあります。さらにそこに、経験したことがないウイルス感染症が、悪い意味で拍車をかけている。

余裕なき社会、時代。だからこそ、日常や人間的な営みにフォーカスした、やさしく素朴な音楽なのです。楽しみ・喜びを感じさせ、「仕方ねえ、またやってみるか〜」と自然に思わせるコンサマトリーな山下達郎の音楽が必要とされているのはないでしょうか。精神的・文化的なエネルギーを充填するエネルギー剤として、心を癒やす清涼剤として、忘れてしまいがちな感覚を取り戻す装置として。

なにより、いま彼の音楽を聴きながらこの note を綴っているこの事実こそが、その証拠です。実のところ、この文章を書く気なんてまるでありませんでした。ですが、彼の音楽を聴いているうちに自然に勇気づけられ、気がつけばここまで書き上げてしまいました。山下達郎も見田宗介も、それほど詳しくないのに。まったく不思議で、そしてあっぱれな音楽です。

ややこしくてギクシャクでチグハグで不透明で複雑性に溢れた2020年。気持ちを前向きにさせるコンサマトリーな音楽はいかがでしょう?

おわりに。

すでに書いたように、山下達郎を語るか迷っていました。それは、おそらく語られ尽くしたであろう音楽家を、僕が──音楽的な素養もないし、お会いしたこともないし、リアルタイムにその音楽を経験してすらいない平成生まれの自分──が語るのは、あまりにもコメディに思えたからです。ここまで書いた今でも、いわゆる「超常連」の方々からお叱りの言葉が飛んでくるかもと思えてなりません。

ただ、今の世の中を見渡してみると、たとえ不完全な言葉であっても山下達郎の音楽や僕が経験した音楽体験を伝える必要や意味があるように思えました。それだけ、いまの世界が余裕なく、緊張しているように見えたのかもしれません。このような経緯であったため、一人のファンの「出過ぎたマネ」「思い上がり」と気がつきながらも筆を取ることにしました。

この記事をきっかけに「山下達郎に興味が湧いた!」とか「遠慮していたけど今度聴いてみよう!」となれば幸いです。たとえ1センチでも、どこかの誰かの Quality Of Life が良くなったのであれば、これほど嬉しいことはありません。(いいね、コメント、Twitter(@daisuke__200)。媒体は問いません。なにかしら表明していただければ、とても励みになります!)

それでは、冒頭のワンフレーズを改めて取り上げて、第一回目の note を書き終えようと思います。ご覧いただきありがとうございました。


山下達郎いいよ!


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