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「僕の勝ち!」ってことにしとこう

ハロー、note。

この前、チンパンジーが人間と卓球をしている、というフェイク動画をテレビで見ました。
あくまでもフェイクなので、実際にはやっていないらしいのですが、その映像を見てふと「動物に勝敗という概念は教えられるのだろうか」ということを考えました。

というのも、卓球に限らずスポーツ全般ルールがあり、勝敗がつくものかと思います。
何かしらで競い合って、何かしらの基準に従って勝敗がつく。
勝てば嬉しいし、負ければ悔しい。

そういう気持ちって動物にもあるのかしら。
あるとしたらスポーツのような、ルールに則った勝敗を理解できるのかしら。
と疑問に思ったのです。

卓球ならば跳んできた玉を相手に打ち返して、然るべきところに跳ねさせた上で相手が返せなかったら得点になるわけですが、それをまず理解できるのか。
そしてそういうゲームだと理解した上で、目的を達成できたときに嬉しいものなのだろうか。

考えたところで結局実際のところはわからないんだけれど、ともするとあれ?人間にとっての勝って嬉しいとか負けて悔しいとかって気持ちもよくわからなくなってきたなと思いました。

例えばスポーツには一定のルールがあって、その上で勝敗がついて、勝てれば嬉しい。
それは「これこれこういう条件でこういうことができればあなたの勝ちですよ」という前提を了解しているから嬉しいのであって、その起きた現象だけで考えれば元来人間が有する感情から生まれる「嬉」ではないと思うのです。



……

説明が難しい。

これはちゃんと伝わってるのかな。

もうちょっと具体的に言うと、例えば卓球をやったことのない人にラケットを握らせて、相手の陣地で玉を跳ねさせ、それを相手が返せなかったとして、その人は喜ぶかと言ったら喜ばないと思うんですね。
「こうするとあなたの勝ち(ということになりますよ)」というルールを理解してから初めて嬉しいという感情が湧き上がるものだと思うのです。

ルールがあって、それが達成できて嬉しい。
僕達はルール的に嬉しいのか。

なるほど、じゃあ「ルールのない嬉しい」はあるのだろうか。
もちろん考えればいろいろあるわけだけれども、そう考えるとなんだか想像が広がっていきます。

人間として、動物として、生き物として本能的に感じる嬉しい現象も世界には確かにあるんだけれど、自分達で作ったルール上の嬉しいもある。
ともするならば、ルールを自分で作ってもいいわけですよね。
それこそ、子供が特定の地面だけを踏むことを自ら課して一生懸命跳んで行く姿がまさにそれで、僕達はいかようにも人生を楽しめるのかもしれない。

これができたらいいな。
これができたら勝ち。
こういう風にやってみることにしよう。
こうしてみたいな、ああしてみたいな。
そうやって世界を自分で好きに彩ることができるのかもしれない。


反対に、誰かが勝手に決めたようなルールに縛られてはいないだろうか。
これこれこうだったら負け、なんてことが本当にあるのでしょうか。
あるいはあるのかもしれないが、僕達は本当に競い合うべきなのか。

確かに時には競争も大事だけれど、しょーもないことで比べあってもやっぱりしょーがない。
自分が「これでいいんだ」と思えるならそれでいいんだ、というようなこともいっぱいあると思うのです。

そうやってルールの足し引きを試みると、もっと楽しくやれるような気がしてきました。

何事も解釈次第なのかもしれませんね。

おしまい

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