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第三話 印象操作 連載 中の上に安住する田中

 「家が建っている」とは言え、それは一軒家ではなくて、厳密には彼女の住むマンションが建っているのである。

「話があるから」
 と昨晩、電話がかかってきてから約十六時間が経過した。その「話」が何を意味するかは、それとなく分かっている。紅葉を見に行くデートの約束を、ついには果たせない内に冬に突入してしまったことに対する、いわゆる憤りというやつだろう。だが準備は万端な筈だ。なんでも新しくできたケーキ屋で、彼女の大好物のブッシュ・ド・ノエルを買ってきたのだ。甘い物かキラキラした物を渡したら、さすがの彼女も自らこっちの手中に収まってくれることだろう。
 最悪彼女がまだ紅葉の続いている南方に旅行に行きたいなどと言い出しても、平均よりちょっと収入があって、普段から人よりちょっと節約家の僕には、それほど痛い出費では無い。

 彼女の部屋番号403を入力した。操作盤のボタンは冷たく、よく見ると結露していた。インターホンの呼び鈴を鳴らす前に、自分の表情を操作盤の上部の鏡面加工された金属にうまく反射させて確認する。若干の反省の色と、男性的な魅力を兼ね備えた絶妙な表情に加えて少しの上目遣い。要するにこの前、動画共有サイトで違法視聴したテレビ番組で紹介されていた「許してもらいやすくなる方法」を実践してみたのだ。

 丸く治らないわけが無い。僕は満を持してインターホンの呼び出しボタンを押した。すぐに応答があるかと思ったが、なかった。
 せっかちな彼女にしては珍しく応答が遅い。一度目の呼び鈴が鳴り終えてしまったので、もう一度呼び鈴を押してみる。今度は間も無く繋がった。

「ゆうちゃん? 早かったじゃない? 私今起きたばっかり……」
「出直そうか?」
 出直す気なんてさらさら無かったが、こういう言葉をかけるだけで相手に与える印象は大きく変わってくるだろう。特に怒っている場合は。
「ごめんね、私が呼び出しておいて……」
 今日の彼女はいつに無く端切れが悪い。心なしか鼻声のようにも聞こえる。
「今開けるから上がってきて」
 そう言うと玄関の自動ドアが開いて、彼女の受話器を置く音がエントランスに小さな反響を残した。
 一階のエレベーターの側には「お知らせ」と題された壁の区画があり、催し物や注意書き、予定されている工事の日程や防災訓練、騒音の苦情がたくさん貼られていた。中でも苦情の張り紙は色とりどりの油性ペンを使って書かれているものもあって、「広告の起源」を再発見したような気がした。

 十階にあったエレベーターは二階で暫く止まっていたが、やがて一階に向けて動き始めた。エレベーターが一階に着く前から、若い男女が言い争う声が聞こえてきた。中で言い争っていた男女は扉が開くや否や、そこにいた僕に冷たい目で一瞥をくれると、今までの口論がまるで無かったかのように、口を噤み、すました顔をしてエントランスをそそくさと歩き去っていった。二人を見たとき、僕は半自動的にぎこちない会釈のような動きをした、もしくはされられた。四階までの短い道のりだが、その間、なぜあのとき頭を下げなければいけなかったのか、自分で自分に問いかけ続けていた。

 続く

第四話 最後の交点

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連載 中の上に安住する田中 ——超現実主義的な連載ショートショート——

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