【創刊記念・特集】新世界史 ~なにわの民の夢のあと~
【2022年4月1日/大阪歴史倶楽部】
はじめに
大阪市浪速区恵美須東にあります通天閣とその下に広がっている新世界という街は、誕生してから今年で110年となりました。その成り立ちから戦後の復興までの歩みをざっくりと簡単にご紹介したいと思います。
この新世界という街は、大阪歴史倶楽部(の中の人)が2001年から着目しているフィールドのひとつです。
『月刊 大阪歴史倶楽部』の創刊号として「新世界史」(新しい世界史ではなくて大阪の新世界の歴史)の概要を簡単に纏めてみました。写真もたくさん掲載いたしました。
ほんとうはもっと見ていただきたい貴重な珍しい写真や図面などもあるのですが、オトナの事情(著作権の関係など)で掲載できませんでした。お許しください。なお、本文中に掲載した図や写真の出典は末尾に纏めて掲載しています。また文末には新世界の略年表を作成して掲載いたしました。
いつもよりかなりの長文(約7,000字)となりましたが、最後までお読みいただきますと新世界110年の歴史や大阪の人の通天閣への想いがお分かりいただけるかと思います。
新世界前史(第五回内国勧業博覧会)
1903(明治36)年3月1日から同年7月31日までの153日間、大阪市の天王寺今宮地区において第五回内国勧業博覧会が開催されました。
内国勧業博覧会とは、国内産業の発展・近代化を目的として明治政府の主導によって開催された大規模な博覧会です。この第五回内国勧業博覧会は、近代の大阪市発展の礎となりました。
第五回内国勧業博覧会の閉幕後、会場であった天王寺今宮の跡地は東側が大阪市の「天王寺公園」となり、西側は民間に払い下げられて遊園地・歓楽街の「新世界」となりました。
ちなみに内国勧業博覧会は第1回から第5回までの5回にわたって東京・京都・大阪にて開催されました。下の(表1)をご参照ください。
このように見ると、大阪で開催された第五回内国勧業博覧会が最後にして最大規模の博覧会であったことが分かります。
新世界の源流
新世界の街が広く知られるようになるのは、上記のように1903(明治36)年の第五回内国勧業博覧会の閉幕後なのですが、じつはそれ以前にこのエリアには1889(明治22)に地元民間資本の共同出資等によって洋風五階建ての展望塔をはじめ温泉・飲食店・ビリヤード場・庭園(偕楽園)・噴水・屋外競技場・競馬場などを持つ「今宮商業倶楽部」(偕楽園商業倶楽部)がありました。この今宮商業倶楽部が新世界のルーツと考えることもできると思います。
新世界の開業(通天閣とルナパーク)
1912(明治45)年、新世界の街の中心部に初代の通天閣が完成しました。この初代通天閣は、パリの凱旋門の上にエッフェル塔を載せたようなユニークなデザインで、その高さは300尺(91m)で当時「東洋一」と宣伝されていましたが実際には250尺(75mほど)だったと言われています。75mだったとしても、当時まちがいなく「東洋一」の展望塔で、開業当初よりエレベータが設置されていました。
通天閣より北側のエリアにはパリの街並みを思わせるように放射状に街路が整備され、その両側に洋風の建物(食堂や商店など)が並んでいました。
また通天閣より南側は、アメリカ・ニューヨークのコニー・アイランドの遊園地に似せた遊園地「ルナパーク」が開業しました。このルナパークには「サークリングウェーブ」「メリーゴーランド」「ローラースケート場」「動物舎」などをはじめ多くのアトラクションや「奏楽堂」「不思議館」などの趣向を凝らした建物群がありました。
そして通天閣とルナパークの南端にあった「ホワイトタワー(白塔)」との間を日本初の旅客用ロープウェイ(イタリア製)が結んでいました。このルナパークの入場料は5銭で、たいへん賑わったそうです。
さらにルナパークの周囲には演舞場、演芸場、映画館や温泉(噴泉浴場)、宿泊施設などもあり大盛況で新世界の街全体がたいへんな活気に満ちていました。
ルナパークの終焉
このように初代通天閣と遊園地のルナパークは大盛況だったのですが、1914(大正3年)に難波・千日前(新世界から直線距離で約1.4km)に総合レジャー施設の「楽天地」が開業すると、それに客を奪われてルナパークの経営は次第に悪化し1923(大正12)年にルナパークは閉園しました。ですからルナパークが営業していたのは1912(明治45)年から1923(大正12)年までの11年間ということになります。ルナパーク閉園後は新世界の熱狂も徐々に冷めて行きました。
そしてルナパーク閉園後の跡地には劇場や映画館、レストランなどが次々と建てられて行きました。現在、新世界に残っている「新世界国際劇場」は、1930(昭和5)年に「南陽演舞場」として建てられた建物をそのまま1950(昭和25)年に映画館として転用したもので、外観は「南陽演舞場」当時の面影をとどめています。
初代通天閣の炎上
1923(大正12)年にルナパークは閉園しましたが通天閣は大阪のシンボル・新世界のシンボルとして建ち続けていました。
しかし通天閣の完成から31年後(ルナパークの閉園からは20年後)の1943(昭和18)年1月16日に通天閣の足元にあった劇場「大橋座」から出火し、その火勢は猛烈で通天閣も類焼し、その火炎と熱によって通天閣の鉄骨が溶けて曲がってしまいました。
その焼け跡は鉄骨が崩落する恐れのある危険な状態となったので、同年2月13日から「通天閣の鉄骨などを軍需資材として提供する」という名目で初代通天閣は解体されました。
戦後の復興と2代目通天閣
戦後の混乱も落ち着き、我が国が本格的に復興しだした1956(昭和31)年(初代通天閣が焼失してから13年後)に地元の人たちの出資によって現在の2代目通天閣が再建されました。
設計者は内藤多仲。初代通天閣の跡地にはすでに建物があったため、初代通天閣から30mほど北で新世界開業当時には庭園があった場所に2代目(現在の)通天閣が再建されました。この2代目通天閣は2007年に国の登録有形文化財となりました。
新世界・通天閣への行き方
新世界・通天閣へは、大阪メトロ堺筋線の「恵美須町」駅3号出口からすぐです。3号出口を出ると、そこは新世界の北端で新世界開業時に整備された放射状の街路のうち旧「恵美須通」(現在の通天閣本通商店街)の北端です。
また新世界開業の中心となった(現存する大阪府下唯一の路面電車の)阪堺電車の「恵美須町」駅からは東へ徒歩約1分(100m足らず)です。
おわりに
大阪のシンボルである通天閣とその下に広がる新世界の街の歴史についてざっくりと簡単にご紹介いたしました。
新世界は、明治・大正時代の大阪の人たちにとっては夢のような楽しい場所だったと思います。初代の通天閣は当時「東洋一」であり大阪の人たちの誇りで、さまざまな想いが込められたシンボルであったと思います。
戦時中に出征する若者たちの列の遥か後ろに初代の通天閣が写っている写真をいくつも見たことがあります。彼らは初代通天閣を見て戦地へ行ったのでしょう。
現在の2代目通天閣は、戦後の復興の象徴であり大阪大空襲で焼け野原となった大阪の街の復興のシンボルと言えると思います。とくに地元の人たちの出資によって再建が進められたのは、民衆の都である大阪の歴史を受け継ぐものであり、初代の通天閣と同じく大阪の人たちの誇りであり熱い想いが込められた大阪のシンボルであり続けるだろうと思います。
今回も最後までお読みくださり、ありがとうございました。
【参考にしたおもな文献】
◎上田維暁『日本名所圖繪』1890年
◎第五回内国勧業博覧会協賛会編『大阪と博覧会』1902年
◎浅沼義國『南海の栞』1912年
◎『大阪新名所 新世界写真帖』1913年(復刻版ではなく原本)
◎『大阪府写真帖』1914 年
◎『建築写真類聚』1921年
◎大阪府西成郡今宮町『今宮町史』1926年
◎徳尾野有成『新世界興隆史』1934年
◎「第五回内国勧業博覧会と大阪」『大阪あーかいぶす』第32号 2003年
◎笠原一人「日本近代における博覧会開催による都市の観光化に関する研究」科学研究費補助金研究成果報告書 2009年
◎寺田つかさ「大大阪時代における大阪ミナミの都市文化の発展―第五回内国勧業博覧会を中心に」奈良県立大学 2015年
◎八木寛之「都心繁華街における商店街活動の都市社会学的研究」大阪市立大学 2015年
【図表・写真の出典】
〔図表〕
(図1)開業翌年の1913(大正2)年の新世界の見取図
『大阪新名所 新世界写真帖』(1913年)を参考に九條正博が独自に作成
(表1)内国勧業博覧会のあらまし
九條正博が独自に作成
(表2)新世界略年表
九條正博が独自に作成
〔写真〕
(01)第五回内国勧業博覧会俯瞰図
第五回内国勧業博覧会協賛会 編『大阪と博覧会』1902年(九條正博蔵/パブリックドメイン)
(02)第五回内国勧業博覧会正門
大阪市立図書館デジタルアーカイブ(管理番号:c0932001/書誌ID:0000604770/画像管理番号3/パブリックドメイン)
(03)正門内より美術館を望む夜景
大阪市立図書館デジタルアーカイブ(管理番号:c0938001/書誌ID:000604770/画像管理番号9/パブリックドメイン)
(04)第五回内国勧業博覧会後に整備された天王寺公園
『大阪府写真帖』1914 年(九條正博蔵/パブリックドメイン)
(05)今宮商業倶楽部
上田維暁『日本名所圖繪』(内國旅行 五 畿内之部)1890年(九條正博蔵/パブリックドメイン)
(06)初代通天閣(大正時代の写真)
『建築写真類聚』「第1期第24 特殊建築巻1」1921年(九條正博蔵/パブリックドメイン)
(07)初代通天閣から見た北側の新世界の街並み
大阪市立図書館デジタルアーカイブ(管理番号:c1517001/書誌ID:0000307218/画像管理番号1419/パブリックドメイン)
(08)初代通天閣北側の新世界の街並み(恵美須通)
大阪市立図書館デジタルアーカイブ(管理番号:c1819001/書誌ID:0080276909/画像管理番号:1709/パブリックドメイン)
(09)初代通天閣北側の夜景(恵美須通)
大阪市立図書館デジタルアーカイブ(管理番号:c0241001/書誌ID:0000292363/画像管理番号551/パブリックドメイン)
(10)初代通天閣とルナパーク
大阪市立図書館デジタルアーカイブ(管理番号:e0347001/書誌ID:0000819314/画像管理番号:3423/パブリックドメイン)
(11)初代通天閣とルナパーク
大阪市立図書館デジタルアーカイブ(管理番号:c0234001/書誌ID:0000292363/画像管理番号:544/パブリックドメイン)
(12)ルナパーク(ロープウェイとホワイトタワー)
大阪市立図書館デジタルアーカイブ(管理番号:d0289001/書誌ID:0000402321/画像管理番号2087/パブリックドメイン)
(13)ルナパーク(ホワイトタワーから初代通天閣を望む)
大阪市立図書館デジタルアーカイブ(管理番号:c1529001/書誌ID:0000460328/画像管理番号1431/パブリックドメイン)
(14)千日前の楽天地
大阪市立図書館デジタルアーカイブ(管理番号:c0124001/書誌ID:0000508284/画像管理番号432/パブリックドメイン)
(15)千日前の楽天地の夜景
『大阪府写真帖』1914 年(九條正博蔵/パブリックドメイン)
(16)新世界国際劇場(西から)
九條正博 撮影(2021年8月)
(17)新世界国際劇場(南から)
九條正博 撮影(2021年8月)
(18)現在の2代目通天閣
九條正博 撮影(2022年2月)
(19)現在の2代目通天閣(旧恵美須通)
九條正博 撮影(2022年2月)
(20)現在の通天閣の夜景(旧恵美須通)
九條正博 撮影(2021年12月)
(21)現在の2代目通天閣(南から)
九條正博 撮影(2022年2月)
(22)大正時代の新世界北側(恵美須通)のゲート付近
『大阪府写真帖』1914 年(九條正博蔵/パブリックドメイン)
(23)上の写真とほぼ同じ位置から2022年に撮影した写真
九條正博 撮影(2022年2月)
(『月刊 大阪歴史倶楽部』第1巻 第1号 通巻1号 2022年4月1日)
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