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このところの読書日記 弍

夏には、各書店でいろんな文庫フェアなどが行われているので、ついフラフラと何冊か購入してしまい、そのまま読み終わらなかった(どころかまだ手をつけていない)本が何冊も。


私はどこかで積読に憧れていたから、それはそれで夢が叶っているとも言える。
読んだものの印象を、幾つか残しておく。

「檸檬」 梶井基次郎

悩んだ末に最初に手にとったのがこれで、結局私は高校時代から何も変わっていない、と言うか高校時代が読書のピークだったのだろう、と思う。
いきなり表題作から読むのもいかがなものかと思って、と言うか他の大多数の人がおそらくそうであると思うけれど、檸檬以外のこの人の作品を全く知らなかったので、迷った末に「瀬山の話」という作品から読んでみた。と言うより、他の収録作は冬や雪、桜といった言葉がタイトルに並んでいたので、避けた。
すると、作中、瀬山が「私」に語った挿話として、「檸檬」が出てきた。檸檬避けたのに檸檬に遭遇するこの不思議。高校時代の私たちを面白がらせたその妄想。(その頃、同じく本が好きで、私にせっせと京極夏彦を貸してくれていた友人たちもまた、現国の教科書から「こころ」や「舞姫」と言った文学作品を先々読み漁っていた。)
レモンエロウの絵具を固めたような檸檬。読めと言われたら読めるし、変換なら一発で出てくるのに、漢字で書けないレモン。
私は瀬山の生き方に、梶井基次郎という人の生き方に、何も重なるところがない。でも何故だか、これは私のために書いてくれたんではないだろうか?と錯覚してしまうような描写がふと、混ざり込んできたりする。確かにこの気持ちに覚えがあると、ぶっ飛んだ瀬山についいつかの自分を重ねてしまう、それが文学作品というもののすごさなのだろう。
この時彼は23歳。彼は31歳で逝去している。
「瀬山の話」に続いて「海 断片」も読んだ。短く的確な描写が美しくて、音読をしてみた。そのまま録音もしてみたけれど、誰が聞くのだろうと思って、表には出さずに消した。
ただ、演じるでもなく、歌うのでもなく、淡々と朗読するととても心地よいということに気がついた。それもこの人の文章の持つ魅力の一つなのかも知れない。


「ヨーロッパ退屈日記」 伊丹十三

今読むと、‥とても共感できない箇所があちこちにあって、なかなか読むのに難儀をした。何でもかんでも共感すればいいというものではないが、どうも鼻につく。それは私の感性の問題かと思っていたが、後書きで山口瞳 氏によって「それは『厳格主義の負うべき避けがたい受難』」であると説明されているし、解説の関川夏央 氏も「キザもキザ、大キザの高い綱渡り」としているから、その印象もあながちはずれていないんだろうと思った。
ただ、私は伊丹十三の映画を何一つ見ておらず、俳優としての姿も知らず、彼の功績をほとんど知らないので、この辛めの感想文はちょっとフェアじゃないのかも知れない。本人によるあとがき「もともと、わたくしは浅学にして菲才、どちらかといえば無内容な人間である。そうしてあきらかに視覚型の人間である」という言葉が、最も著者に共感できた部分だった。
そんな退屈日記、幾つもの国に滞在している中でいちばん、行ってみたいと思わされたのはイタリー。一部引用する。
「イタリーを思うことは、たとえば、遠く過ぎ去った夏を思うに似ている。常に陽がさしているのだ。底抜けに明るい陽の光が、いつもいつも満ち満ちているのです。」
そんなイタリーで、私もワイン飲んでみたい。
そんな程度の感想でごめんなさい。


「シャーロック・ホームズとシャドウェルの影」 ジェイムズ・ラヴグローブ

なんだ、パスティーシュって、二次創作のことなのか。(パスティーシュ :  文学・美術・音楽などで、他の先行作品を模倣したり、寄せ集めたりしてできた作品。精選版 日本国語大辞典より)
二次創作だからこその、オカルト(?)とホームズの組み合わせ、そしてしっかり最後まで読ませるエンタメ性とインパクト。どちらも嫌いじゃないから楽しめたし、ワトソンの回想シーンはなかなか面白かったけれど、それでも終盤ホームズが事件の真相に切り込んでいく過程は、私の中ではギリギリなラインかな。好みが分かれそうな作品だ。
中学生の頃は、ホームズより怪盗ルパンシリーズが好きだった。今読んだらどうだろう?と思いながら、コナン・ドイルの「まだらのひも」と「ボヘミア王のかくしごと」を再読した。今ならホームズに傾くかも知れない。


このところの読書日記 壱

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