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最悪なパートナーと夫

夫は2年前の10月にコロナ後遺症を発症して仕事を辞めざるを得なくなった。結婚をして、日本に移住して、就職して、これから頑張るぞ、という時だった。それ以来私が一家の大黒柱(という言い方もあまり好きじゃないけど)として生活をしている。

コロナ後遺症は人によって症状が異なり、今でも原因がよくわかっていない。体調のアップダウンが激しく、体が重く、常に関節の節々が痛い。階段を上がると100メートル走を走ったあとみたいに心拍数が飛び上がり心臓が痛くなる。肺が半分くらいなくなったみたいに息がしづらくなる。原因を突き止めようと保険適応外でいろんな検査をしても、綺麗な心臓の動きと、血液の数値と、綺麗な肺のスキャンが戻ってくるだけ。夫と同じような症状を持つ人はこうやって原因を突き止めようとしては落胆して帰ってきて、いくあてもない。そんな病気なのだ。

「鬱なんじゃない?」「気持ちの問題でしょ」「嘘なんじゃないの?」
世間や家族からも誤解されることが多く、患者さんは精神的にも苦しんでいるという現状を研究機関の先生が言っていた。

パートナーとしてお金を稼いで生活を支えている私だが、パートナーとして本当にダメだと思う。看病する立場になってますます、自分という人間がいかに愚かで得体の知れない虚像を求めているかということを思い知らされるのだ。「早く夫が復帰してくれたら、もっとお金が自由に使えるのに」(上記の体調で無理をさせてはいけないのは明白。そもそももっとお金が自由に使えるって、今だって足りてるじゃないか)とか「いつもゲームばかりしているのだから仕事できるのでは?」(日本という知り合いや友達もいない国で唯一楽しみなゲームという趣味があって海外の友人と繋がれることが生きがいならばそれは彼にとっていいことなんじゃないの?)。()の中の第三者からの冷静な目線も私の心の中には持ち合わせているのだけど「」の中の心の言葉は私が放つ彼への冷たい言葉に力を貸して彼を傷つけてしまう。本当にこれは非人道的で最悪なことだと思う。

能天気な私はこんなことになるとは思わず全て最高の状態が続く前提で人生の設計をしていたため、得体の知れない苦しみに寄り添いサポートすることを考えていなかった。これは考えの甘さが出ていると言われるかも知れないが、人間はそれほど悲観的で常に最低ラインを考えて行動をしているだろうか。少なくとも私にとってはパートナーがこの苦しみを味わうことは想定外だった。得体の知れない何かと数年間、そしてもしかしたらこれから先もずっと生きていくことは想定外だった。

そんなことは時間の経過にはどうでもいいことである。淡々と進んでいくのだ。だから私たちも進んでいかないといけない。順応していかなければいけない。彼ではなく、支えるものとして私が順応していかないといけないのだ。これは外側から与えられる本来的なものではなく、内側から溢れる本来的なもので自然なものである。

居酒屋で居合わせた客に私が仕事をしていて彼は家のことをしてくれてるんです、と言ったら「ってことはニート?ヒモ?」と連れの女が男に言って、男が「そういうことは言わないの」と女を咎めていた。糞食らえである。どっちも。いや男の人はありがとうか。

そういうことを何度も何度も言われてきて慣れてはいるが、DNAに刻まれた既成概念が掘り起こされ、女の言葉に頷いている自分もいる。こうやって価値観はアップデートされていくし、行動として粛々と実行し、できることをして「足りる」生活を営んでいくほかない。生活は誰かに証明するために営んでいるものではない。

今こうして書いている文章も自分に対して言い聞かせている部分も多い。釘を打つみたいに。でもこうやって赤裸々に自分の非人間的な部分を白状したり外側からくるケアギバーの「本来性」に対して真っ向から勝負することができるくらい自分は強くなっていると思いたいし腹を括り中と思いたい。

コロナ後遺症に教えてもらったこと、みたいな文章だけど、毎日毎日体が痛くて辛い日々を送っているのに家のことをしてくれる夫に本当に感謝したい。そして未熟ながら、彼のしたいことができるような土壌を作る役目を果たしたい。

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