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フランシーヌの場合 〜 ジョン・レノンの場合

今日 3月30日は, ベトナム戦争とナイジェリア内戦(ビアフラの飢餓)に心を痛めていたとされる フランシーヌ・ルコント(当時30歳)が, パリの路上で 焼身自殺した日(1969年)。同じく 3月30日は, パレスチナの「土地の日」(由来は 1976年のその日, 後述)。さらに 3月30日は, 昨年から今年にかけてライヴ演奏とオンライン配信によるパレスチナ・ガザ支援のキャンペーンを行なったエリック・クラプトンの誕生日(1945年)。もちろん, 全て偶然の一致。

本 note の標題「フランシーヌの場合 〜 ジョン・レノンの場合」については, 第6章以降に。


前説 共通項(3月30日, 抗議の焼身自殺, ベトナム戦争, ベトナム戦争とビアフラ飢餓, アイルランド, パレスチナ問題[イスラエル問題])

本 note では, 些か強引ながら, 世界の時間と空間を, 以下の共通項で結び付ける。

3月30日 〜 今般 ガザ支援のキャンペーンを行なったエリック・クラプトンの誕生日(1945年), ベトナム戦争とビアフラ飢餓に心を痛め焼身自殺したフランシーヌ・ルコントの命日(1969年), パレスチナ「土地の日」(由来は 1976年のその日)

抗議(もしくは傷心)の焼身自殺 〜 ティック・クアン・ドック(1963年6月11日), 由比忠之進(1967年11月11日, 翌12日死去), フランシーヌ・ルコント(1969年3月30日), アーロン・ブシュネル(2024年2月25日)

ベトナム戦争 〜 ティック・クアン・ドック(直接的には当時の南ベトナム政府への抗議だったが, 時代背景や事後の大きな影響の対象としてベトナム戦争), 由比忠之進, フランシーヌ・ルコント, ジョン・レノン

ベトナム戦争とビアフラ飢餓(ナイジェリア内戦) 〜 フランシーヌ・ルコント, ジョン・レノン 

パレスチナ問題 〜 三者の表現にはあまりに大きな違いがあるけれど, エリック・クラプトン(ガザ支援), アーロン・ブシュネル(イスラエルとアメリカ, そして「世界」の沈黙に対する抵抗・抗議), アイルランドのコメディアン Tadhg Hickey(のユーモアとレジスタンス)

アイルランド 〜 ジョン・レノン, Tadhg Hickey

1. エリック・クラプトンの誕生日 〜 1945年3月30日

クラプトン・ファン歴 半世紀余の筆者ながら(関連 note は以下の *4, *5), 本 note の中で この第1章は どうにも浮いている感じがする。

今日 3月30日は確かにクラプトンの誕生日なのだが(御年79歳!), 彼が 昨年12月8日に Medical Aid for Palestine のライヴを行ない(*2), 今年1月にはそれをオンライン配信して

その収益を イスラエルの攻撃を受け続けるパレスチナ・ガザ地区の子どもたちの医療の為に寄付するという一連のパレスチナ支援キャンペーン(*6)をしていなかったなら, いくら 3月30日が誕生日といっても クラプトンに関することを 本 note の中に入れ込むことには無理があっただろう。 

*1 Eric Clapton - Voice Of A Child (Official Music Video)

YouTube, バカバカしい検閲は止めてくれ。なんでこれに「年齢制限」なんて付ける必要がある?(まぁとにかく, クリックしていけば視聴可能!)

*2 クラプトンの「ガザ支援」シークレット・ライヴ については, 以下の note の中の "イスラエル批判 に 無闇矢鱈と 「反ユダヤ主義」 のレッテルを貼る, その意味においては思い切りくだらない欧米諸国の, その音楽界をチラ見" と大見出しをつけた章の更に小見出し "そんな 「西洋」 音楽界 にあって, パレスチナ の為に 声を上げるミュージシャンたち" と題した項において, 具体的に取り上げている。

*3 「ガザ支援」シークレット・ライヴのオンライン配信, 筆者はチケットを買ったので 24時間分 視聴可能となった(チケット購入者のみ視聴できるもの, 収益はガザ地区の子どもたちを支援する為の寄付に)。

*4

*5

*6

2024年1月10日のポスト。パレスチナの旗がデザインされたストラト。

2024年1月5日(日本時間, 以下同じ)のポスト。

2024年1月12日のポスト。

2024年1月17日のポスト。

2024年1月18日のポスト。

2024年1月21日のポスト。

Eric Clapton on Instagram: "To Save A Child—in aid of the children of Gaza In case you missed it … special Encore Broadcast! This Thursday, January 25th, there will be a very special encore broadcast of Eric’s intimate concert filmed in London in front of a small audience in December 2023. Eric’s set included “Tears In Heaven,” “Got To Get Better In A Little While,” and George Harrison’s “Give Me Love (Give Me Peace On Earth)” featuring Dhani Harrison. Tickets available at www.moment.co/ericclapton. The proceeds will be donated in aid of the children in Gaza. Event Timings: UK/Europe: January 25 at 8pm GMT North America (East): January 25 at 8pm ET North America (West): January 25 at 8pm PT Asia/Australia: January 26 at 7pm Japan / 9pm Sydney" 17K likes, 860 comments - ericclapton on January 20, 2024: "T www.instagram.com

2024年1月25日のポスト。

54K views · 12K likes | Eric Clapton on Instagram: "To Save A Child—in aid of the children of Gaza In case you missed it ... Tomorrow, January 25th, there will be a very special encore broadcast of Eric’s intimate concert filmed in London in front of a small audience in December 2023. Eric’s set included “Tears In Heaven,” “Got To Get Better In A Little While,” and George Harrison’s “Give Me Love (Give Me Peace On Earth)” featuring Dhani Harrison. Tickets available at moment.co/ericlapton. The proceeds will be donated in aid of the children in Gaza. Event Timings: UK/Europe: January 25 at 8pm GMT North America (East): January 25 at 8pm ET North America (West): January 25 at 8pm PT Asia/Australia: January 26 at 7pm Japan / 9pm Sydney" 13K likes, 483 comments - ericclapton on January 24, 2024: "T www.instagram.com

ところで,

3月30日 に 起きたことと言えば(次章 第2章, 及び 第6章) …

2. パレスチナ「土地の日」 〜 3月30日, 由来は 1976年のその日

パレスチナ の「土地の日」とは, 1976年に パレスチナ/イスラエル で起きた出来事を記念する日。

同年, イスラエル政府は, 何百万平方メートルものパレスチナ人の土地を新たに没収・収用する計画を発表, これを受けて ガリラヤからネゲヴにかけてのパレスチナ人の町では 大規模なゼネストやデモ行進が行なわれた。イスラエルの軍や警察はそうしたパレスチナ人たちの当然の抵抗を激しく弾圧, 3月30日には 非武装のパレスチナ人市民6人が殺され, 負傷者の数も約100人にのぼるという惨事となり, かつ数百人が囚われの身となった。

以降, 毎年この日には(もちろん 2024年の今日のこの日も), 入植・植民者・占領国家 イスラエル に対するデモを含む 抵抗のイヴェントが, パレスチナ人やパレスチナ支援者によって, パレスチナ/イスラエル 各地をはじめ 世界中で 行なわれている。

*1/3

*2/3

*3/3

次章は, イスラエルの守護者 アメリカ合州国, イスラエルの非人道・戦争犯罪の共犯者 アメリカ合州国 の中で, 今年 2024年2月25日に起きた事について。

3. アメリカ合州国の空軍兵士だった アーロン・ブシュネル, イスラエルによるパレスチナ・ガザ虐殺 と 母国アメリカの加担 に抗議して, ワシントンのイスラエル大使館前で 焼身自殺(2024年2月25日)

最初に書いておくと, アメリカでは昨年2023年12月1日にも, ジョージア州アトランタのイスラエル領事館前でイスラエルに対する抗議として焼身自殺を図った人物がいる(氏名・性別など不明, 重体となったがその後の容態も不明)。

因みにその際, その在アトランタ・イスラエル領事館の総領事が声明で「領事館が入る建物の入り口で焼身自殺が図られたことを知り悲しんでいる」「イスラエルに対する憎悪と扇動がこのような恐ろしいかたちで表されたことは悲劇的だ」と述べたとの記事を目にしたが, 「イスラエルに対する憎悪と扇動」の原因はほぼ全てイスラエル自身が作っているものだ。

更に件の総領事は「命の尊厳は我々が最も大切にしている価値観だ」とまで言っていて, 一体イスラエルの政治家や役人の頭の中はどうなっているのかと思わざるを得ない。欺瞞と偽善の一言二言では片付けられない, 得体の知れない闇があると察する。

そんなイスラエル, そしてイスラエルによる非人道・戦争犯罪への母国アメリカの加担に抗議して, 究極的なレジスタンスの行動に出たのが アーロン・ブシュネル だった。

「焼身自殺」直前の, 彼の言葉を引いておこう。

“I am an active-duty member of the United States Air Force, and I will no longer be complicit in genocide,” Bushnell can be heard saying in the video as he walks down a street while wearing his military fatigues.

記事 *1

動画の中で、ブッシュネル氏は「私はアメリカ空軍の現役隊員であり、もはや大量虐殺に加担するつもりはない」と述べ、自殺の動機をイスラエルによるガザ攻撃とアメリカの支援に対する抗議だと説明している。

記事 *2

“I am about to engage in an extreme act of protest. But compared to what people have been experiencing in Palestine at the hands of their colonizers, it’s not extreme at all,” he continued. “This is what our ruling class has decided will be normal.

記事 *1, 以下に彼の言葉の日本語訳

「私はこれから、過激な抗議行動をしようとしています。しかし、パレスチナの人々が植民地支配者たちによって経験してきたことに比べれば、まったく過激なことではないのです。私たちの支配者階級は、それを当然だとみなしているのです」

記事 *2

Bushnell then ignites himself, repeatedly yelling “Free Palestine” while he burns.

記事 *1

近くにいた誰かが「そこの方、どうしました?」と声をかける中で、ブッシュネル氏は液体が入っていたボトルを投げ捨てて自らに火を放ち、炎が激しく燃える中で「フリー・パレスチナ(パレスチナを解放せよ)」と繰り返し叫んだ

記事 *2

The morning before he self-immolated, a Facebook post was made on an account appearing to belong to Bushnell, where he spoke out against the U.S. supporting Israel.

Many of us like to ask ourselves, ‘What would I do if I was alive during slavery? Or the Jim Crow South? Or apartheid? What would I do if my country was committing genocide?’” Bushnell wrote.

“The answer is, you’re doing it. Right now.”

記事 *1

ブッシュネル氏が焼身自殺をした25日の朝には、同氏のものと思われるFacebookアカウントに、アメリカのイスラエル支援に反対するメッセージが書き込まれている。

私たちの多くは、自分自身に『もし自分が奴隷制度の時代に生きていたらどうするだろう?ジム・クロウ法がある時の南部に生きていたら?あるいはアパルトヘイトの時代だったら?もし自分の国が大量虐殺をしていたら、私はどうするだろう?』と尋ねたいのではないでしょうか。その答えは、今まさにそれが起きているということです。たった今起きているのです

記事 *2

*1

*2

*3

そして,

次の 3章(第4章, 第5章, 第6章)は, 抵抗・抗議, レジスタンスとしての「焼身自殺」の歴史(現代史)の一端。

4. ベトナム人僧侶 ティック・クアン・ドック, 当時の南ベトナム政権に抗議して, サイゴン(現ホーチミン)の路上で 焼身自殺(1963年6月11日)

ウィキペディア利用。

ティック・クアン・ドック(ベトナム語:Thích Quảng Đức / 釋廣德、1897年 - 1963年6月11日)は、ベトナムの僧侶。

ドックは1963年6月11日、当時の南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権が行っていた仏教徒に対する高圧的な政策に抗議するため、サイゴン(現・ホーチミン市)のカンボジア大使館前で自らガソリンをかぶって焼身自殺した。

ドックは支援者たちが拝跪する中、燃え上がる炎の中でも蓮華坐を続け、絶命するまでその姿を崩さなかった。その衝撃的な姿がカメラを通じて世界中に放映され、ベトナム国内だけでなく国際世論に大きな影響を与えることとなった。

ジエムの弟にして大統領顧問・秘密警察長官であったゴ・ディン・ヌーの妻のマダム・ヌーは、アメリカのテレビインタビューで、この事件を「あんなのは単なる人間バーベキューよ」、「反米運動にアメリカ製ガソリンを使うなんて矛盾してるわ」、「今度同じことをするならガソリンとマッチを進呈する」と発言し、それが全世界に報道されたため、南ベトナム国内やアメリカだけでなく世界中の大顰蹙(だいひんしゅく)を買い、国民のジエム政権への反発をいっそう高めた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ティック・クアン・ドック

ロックバンド Rage Against the Machine の デビュー・アルバム(1992年リリース)の ジャケット には, ティック・クアン・ドックのまさに「抵抗・抗議の焼身自殺」の写真が使われている。

Killing in the Name 〜 from Rage Against the Machine's 1992 self-titled debut album

*以下の 2つのミュージック・ヴィデオは 共に Rage Against the Machine の公式アカウントによる YouTube ヴィデオだが, 上のヴィデオについては YouTube が ティック・クアン・ドック の 抵抗・抗議の焼身自殺 の写真が使われているというそれだけの理由で検閲し, 「年齢制限」をかけている。

ところで, 

(以下, 次章へ)

5. 日本人エスペランチスト 由比忠之進, アメリカの北爆(ベトナム戦争) と ベトナム戦争における日本政府のアメリカ支持 に抗議して, 首相官邸前で 焼身自殺(1967年11月11日, 翌12日死去)

抵抗・抗議の「焼身自殺」は, 日本の現代史においても存在する。

自殺したのは、由比忠之進(ゆいちゅうのしん)(73)。20年代初頭に国際語エスペラントと出あい、その後一貫して エスペランチスト として活動してきた。その平和主義者の生涯を、元沖縄タイムス記者の著者がたどる。

空爆下の北ベトナムは、エスペラントを情報発信の手段として使っていた。由比は、北ベトナムから送られてくるエスペラントの雑誌記事を日本語に翻訳して紹介することに尽力した。日本の革新政党に対しては根強い不信感をもっていたという。日本人とベトナム戦争のかかわりが由比を通して描き出される。

https://book.asahi.com/article/11637466

以下は, ウィキペディアより。

由比 忠之進(ゆい ちゅうのしん、1894年(明治27年)10月11日 - 1967年(昭和42年)11月12日)は、日本の弁理士、日本エスペラント学会会員のエスペランティスト反戦運動家。福岡県志摩郡前原村(現在の糸島市)生まれ。

1967年(昭和42年)11月11日、世界に先駆けてアメリカの北爆支持を表明した佐藤栄作首相の訪米と沖縄返還、小笠原諸島返還問題に対する弱腰な態度への抗議行動として、首相官邸前でガソリンをかぶって焼身自殺を図る。

その際に携えていた佐藤栄作宛の抗議書には、「ベトナム民衆の困窮を救う道は、北爆を米国がまず無条件に停止するほかはない。ジョンソン大統領と米国に圧力をかける力を持っているのはアジアでは日本だけなのに、圧力をかけるどころか北爆を支持する首相に深い憤りを覚える。私は本日、公邸前で焼身、死をもって抗議する。戦争当事者、すなわちベトナム、米国人でもない私が焼身することは物笑いの種かもしれないが、真の世界平和とベトナム問題の早期解決を念願する人々が私の死を無駄にしないことを確信する」と結ばれていた。

救急搬送されたが 翌12日に気道熱傷のため死亡した。佐藤首相訪米阻止闘争のデモが激しく行われた当日、デモの解散後に単独で決行された抗議行動であった。北爆を支持する日本政府に一般市民が自らの死をもって抗議した行為は、当時の日本社会に大きな衝撃を与えた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/由比忠之進

6. フランシーヌの場合 〜 ベトナム戦争 と ナイジェリア内戦(ビアフラの飢餓) に心を痛め, パリの路上で 焼身自殺(1969年3月30日)

フランシーヌの場合, 1969年 3月30日

なお, 新谷のり子「フランシーヌの場合」が リリースされた 1969年 6月15日は, その 9年前の 1960年 6月15日, 当時の「(日米)安保闘争」のデモが 国会構内に突入し警官隊と衝突した際に死亡した東京大学の学生, 樺美智子さんの命日に因む。

フランシーヌの場合 〜 新谷のり子(リリース 1969年6月15日) ♫

ところで, 

ベトナム戦争とナイジェリア内戦(そして ビアフラの飢餓)に心を痛めていたとされる フランシーヌ・ルコント が 焼身自殺をしたのと同じ年, ジョン・レノンが, 同じくベトナム戦争とナイジェリア内戦及びビアフラ飢餓を背景に, 具体的にはそれらへの母国イギリスの関与を理由に, 大英帝国勲章 MBE を 当時のエリザベス女王に返還している。

7. ジョン・レノンの場合 〜 ベトナム戦争における母国イギリスによるアメリカへの支援 と ナイジェリアのビアフラ戦争への母国イギリスの関与 に抗議して, 大英帝国勲章 MBE を エリザベス女王に返還(1969年11月25日) 

前章の「フランシーヌの場合」, 彼女を突き動かしたのは「ベトナム」と「ビアフラ」だった。そして, 同じ年の ジョン・レノンの場合 も, 「ベトナム」と「ビアフラ」だった。

ジョン・レノン, 母国イギリス の エリザベス女王宛て「勲章返却の理由」, 2016年10月に発見された下書き(*1, *2)。 

女王陛下, 私はナイジェリアのビアフラ戦争へのイギリスの関与, ベトナム戦争におけるイギリスのアメリカへの支援, そして私の曲 "Cold Turkey" がチャートから滑り落ちていることに抗議して, この大英帝国勲章 MBE を返還します。

愛を込めて, Bag の ジョン・レノン

因みに, Bag は "Give Peace a Chance"(*3)の歌詞にも登場する Bagism の Bag である。ついでにユーモアたっぷりに加えられた "Cold Turkey" も聴いておこう(*4)。

*1 

*2

*3

Give Peace A ChanceJohn Lennon (born October 9, 1940 – killed December 8, 1980)

そして,

*4

Cold Turkey 〜 John Lennon (Oct 9, 1940 – Dec 8, 1980) with the Plastic Ono Band (1969) 

さて,

最後に(次章, 最終章へ),

8. フランシーヌ と ジョン・レノン を パレスチナ へ

フランシーヌ(ベトナム戦争, ビアフラ飢餓) と アーロン・ブシュネル(パレスチナ)

フランシーヌが今の時代を生きていたら, どうしていただろう。彼女の「焼身自殺」は「抗議の」というより「傷心の」という形容が相応しかったかもしれず, アーロン・ブシュネルのそれはあくまでも「抵抗の」「抗議の」「レジスタンスとしての」という形容が当て嵌まるものではあるが, いずれにしても, 1969年に「ベトナム」と「ビアフラ」に激しく反応した フランシーヌ・ルコントという人の感性は 2024年の今ならどう動いていたのか。もちろん, 単に想像する他ないのだけれど。 

ジョン・レノン(ベトナム戦争, ビアフラ飢餓) と アイルランド(パレスチナ)

「アイルランド(パレスチナ)」の意味については, 次項にて。

あまり知られていない事実と思われるが, ジョン・レノンの父親はアイルランド系のイギリス人。

その ジョンには, 血の日曜日事件(英語では Bloody Sunday, アイルランド語では Domhnach na Fola, 1972年1月30日に北アイルランドにおいてデモ行進中の非武装の市民27名がイギリス軍に銃撃され, 14人が死亡, 13名が負傷した事件)に触発されて作った曲がある。

1972年リリースの 2枚組アルバム "Some Time in New York City" に収められた "Sunday Bloody Sunday" と "The Luck of the Irish" が それで, 後者はこんな曲。"Genocide" という言葉を使っているところにも注目(注視, というか, 注聴)。

The Luck of the Irish 〜 John Lennon (Oct 9, 1940 – Dec 8, 1980) & Yoko Ono

The Luck of the Irish 〜 John Lennon (Oct 9, 1940 – Dec 8, 1980) & Yoko Ono, from "Some Time in New York City" by their Plastic Ono Band with Elephant's Memory, released in 1972

ついでながら, 

ここに加えておきたいのだが, ポール・マッカトニー にも こんな曲が ..

Give Ireland Back to the Irish 〜 Paul McCartney and Wings

さてさて ..

アイルランド と パレスチナ 〜 アイルランド の コメディアン, Tadhg Hickey が 橋を架ける

Tadhg は強引に日本語カタカナ書きすると「タイグ」になるようだけど, Hickey はどうだろう。ちょっと分かりません, 今のところ。 

もはや イスラエルへの批判の声を抑圧する為のツールと化した「反ユダヤ主義」なる言葉とその概念らしきものを揶揄し, 併せて ドイツという国の 欺瞞をも風刺。

イスラエル擁護一辺倒の アメリカ合州国の歴史(ベトナム戦争中のソンミ村虐殺事件 My Lai massacre にも言及)とその欺瞞性を, アメリカの国歌の替え歌によって 風刺。

同じアイルランド出身でも, U2 の莫迦, ボノとは大違い

note 「西洋」の 欺瞞 と 偽善 〜 さらば バーニー・サンダース, さらば リチャード・ドーキンス, くたばれ ユヴァル・ノア・ハラリ, くたばれ ボブ・ディラン, ついでに言うと, ぼのぼの は好きだが, U2 の ボノ は最低だ


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