エノクの目立たない人生
あべのキューズモールでは、毎年11月になると
ブラックフライデーのイベントが始まり、
館内は完全にブラックフライデーモード。
そこで私は衝撃的なパネルを目撃した。
このパネルが私たちのいま生きている時代が、
どんな時代であるかを表している。
それは、お金があれば幸せになれるという幻想に基づいた社会だ。
曲がった時代、邪悪な時代とも
言えるだろうか。
聖書にも邪悪な時代があった。
創世記6:5で「主は地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。」とある。
それはノアの方舟の前の時代。
そして、そんな時代の中で、今日はノアの時代に信仰深く生きた人物、エノクに焦点を当てて学びを共有したい。
エノクの生きていた時代は、神様が被造物を造ったことを悔やまれた時代ともいう事ができる。
エノクはその悪がはびこる中で、
神とともに歩んだ尊敬に値する信仰者の一人だ。
孤独に悩んでいる方、他人とよく比較してしまう方、信仰生活が思うようにいかない方、
そんな方々の励ましになる事を願う。
今回の聖書箇所は、創世記 5:18〜24節と
ヘブル人への手紙11:5〜6節。
[創世記5:18〜24]
「ヤレデは百六十二年生きて、エノクを生んだ。
ヤレデはエノクを生んでから八百年生き、息子たち、娘たちを生んだ。
ヤレデの全生涯は九百六十二年であった。こうして彼は死んだ。
エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。
エノクはメトシェラを生んでから三百年、神とともに歩み、息子たち、娘たちを生んだ。
エノクの全生涯は三百六十五年であった。
エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」
[へブル人への手紙 11:5,6]
「信仰によって、エノクは死を見ることがないように移されました。神が彼を移されたので、いなくなりました。彼が神に喜ばれていたことは、移される前から証しされていたのです。
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」
エノクとはアダムから七代目の信仰の継承者であり、ノアの曽祖父、ひいおじいちゃんでもある。
エノクという名前は従う者という意味があるそうで、その名前の通り、彼は神様に従順であり、その信仰のゆえに死を体験せずにいなくなったと聖書には記されている。
エノクの信仰の人生が私たちに教えてくれるのは、人生の究極の意味と目的を見出すことができるのは、政治的権力でも社会的影響でも歴史的な名声でも巨万の富でもない、ということだ。
神との縦の関係の中にのみある。
他の人物とは近い、彼は何も偉大なことや大きな事をしたと聖書には書かれておらず、
ただ神と共に歩んだ。と聖書は言う。
ダビデのように連戦連勝で目立ちに目立ち、
ヨセフのように総理大臣まで登り詰め、
あたかも私たちは何か大きな事をしなければならないかのような錯覚に陥ることがある。
でも私たちが着目すべき点は神様との縦の関係であり、信仰であることをエノクは教えてくれている。エノクについての記述が私たちに示すのは、神の目には、存在が小さくて目に留まらない神の子どもは、誰もいないということ。
エノクの人生が人間の目からは「取るに足らないささいな人生」であっても、決して意味のないものではないことを意味している。
私たちはある種でエノクに近い人生かもしれない。歴史的に大きな事はできないかもしれない。世に注目されないかもしれない。
でも神様はエノクの人生をご覧になったように私の、あなたの人生をご覧になるのだ。
先日ブルージャイアントというジャズバンドの映画を観てきた。私はブルージャイアントの大ファンでこの作品をキッカケにジャズっ子になった。
ブルージャイアントの中で、玉田という主人公の友人が天才テナー宮本大と天才ピアニスト沢辺ゆきのりと3人でライブをするシーンがある。
その中で玉田は自分のドラムの下手さに、
また、他二人の圧倒的な演奏力と比べて、
自らの不甲斐なさを感じてしまう。
他のメンバーは観客からすごいすごいとチヤホヤされ、サインまで求めらる。
でも、玉田には誰1人寄ってはこない。
そして、1人帰ろうとした玉田に1人のお爺さんが玉田に声をかけた。
そして、言い放った言葉がこれだ。
私たちと神様の関係も同様ではないだろうか。
目立たなくても、ちゃんと見てくれてる方がいる。神の目はあなたにいつも注がれている。
喜ぶ時、嬉しい時、悲しい時、辛い時、
神はぜんぶご存知なのだ。
詩篇の139篇にもこう書かれている。
「あなたは 私の座るのも立つのも知っておられ
遠くから私の思いを読み取られます。
あなたは私が歩くのも伏すのも見守り
私の道のすべてを知り抜いておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に なんと主よ
あなたはそのすべてを知っておられます。
たとえ 私が天に上っても
そこにあなたはおられ
私がよみに床を設けても
そこにあなたはおられます。」
そして、エノクについての学びから感じたもうひとつのこと。
それは信仰は希望から生まれるという事。
コロサイ人への手紙 1:4〜5には
「キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛について聞いたからです。
それらは、あなたがたのために天に蓄えられている望みに基づくもので、あなたがたはこの望みのことを、あなたがたに届いた福音の真理のことばによって聞きました。」
信仰、愛、希望と聞いた時に、聖書をよく知っているクリスチャンの方は、コリント人への手紙 第一 13:13節を思い出すだろう。
「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」
だから愛が一番すぐれているから愛があればいいんだと単純に思うわけだ。
間違っていない。パウロが言ってるいるし、
聖書に書いてあるから。
ただ私たちが忘れてはいけないのは、
信仰と希望も同じように大事なものだということ。なぜ大事か?いつまでも残るものだからだ。まず信仰だ。さきほどのヘブル11:6見てみたい。
ヘブル11:6
「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。〜」
そして、希望が大切だ。
エノクの人生を考えた時に、気付いたことがある。それは希望の存在だ。
邪悪な時代の中で神とともになぜ歩めたのか?
答えは希望だと思う。
コロサイ人への手紙 1:4,5節でこうある。
「キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛について聞いたからです。
それらは、あなたがたのために天に蓄えられている望みに基づくもので、あなたがたはこの望みのことを、あなたがたに届いた福音の真理のことばによって聞きました。」
つまり、信仰と愛は希望に基づくものである。
マルティンルターは言った。
「いくら信仰が篤くても、希望がなければ何の価値もない。希望はいつまでも人と共にあって、悪と不幸を克服するからである。」
私たちはいつも希望に目を向ける必要がある。
じゃぁ希望って何だろう。
コロサイであなたがたはこの望みのことを、あなたがたに届いた福音の真理のことばによって聞いたとパウロはコロサイの人たちに告げている。
つまり、福音の物語だ。
イエス様が十字架で私たちの為に、死んで下さったこと、3日目に死を打ち破って復活して下さったこと、昇天され、今も神の御座の右に着座されているということ、そしてまた来られるということ。
それこそが、希望だ。
エノクも希望が原動力だったんじゃないかなと感じる。この世は霊的な戦いの連続だ。邪悪な時代に生きてるかもしれない。私たちの国籍は天にある。だから迫害されるし、うまくいかないときの方が多い。
でもそんな時に私たちはイエスにある希望を忘れずに歩みたい。
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