見出し画像

勉強することの意味を勉強する その2

はじめに

このシリーズは勉強するということの意味を考えるものである。その大きな理由は、大学教員として学生や高校生、また高校教諭たちと関わる中で、「勉強すること(もしくはさせること)の難しさ」が蔓延していると感じることが多い、ということである。進学校に通っている高校生たちも含めて、今若い世代は勉強する意味を失いつつあるのではないか。そうだとすれば、僕たち大人の世代は何を考え、彼らに何を提示すべきなのか。大学教員になってからというもの、そんなことを考えることが多くなり(もう10年にもなる!)、いい加減なんとなくまとまってきた感があるのでちょっとここらで文字にしてみよう。とは言うものの、まだ考えたりないこともたくさんあったりうまくまとまらないこともあったりして、書き始めるときっと長くなるからシリーズにする。そんなシリーズである。

前回の内容では、勉強することの意味を失いつつあるのはなぜなのか、その原因について考察してみた。主に有料部分で書いたことなので、具体的なことはここには書かないが、端的に言ってしまえば勉強の意味として提示することが、変化した社会にはそぐわなくなったということである。

今回はその続きということで、勉強することの意味をどのようにアップデートすべきなのかを考えていく。

なお、これもまた長くなりそうな感じなので、1回で終わらないかもしれない。(いや、長く書けばいいだけのことなのだけれど、たぶん1万字を超える予感がするの。1記事につき3,000字~5,000字にしておきたいので、分けることになるというのが正確なところ。1万字、多分一気に書こうと思えば書けるけれど、プロnote作家なわけではないのでこれにばかり時間がとれるわけではないのである) と、有料記事にのくせにサラミ投稿すんのか!と怒られそうなことに対して言い訳をしてから本題に入ることにしよう。

サラミ投稿:本来一本の論考として投稿すべきものを業績水増しのために小分けにして雑誌に投稿すること。サラミを切って出すことに譬えてサラミ投稿と呼ばれる。研究不正の一つである。

勉強の意味をアップデートする

ここから先は

2,188字

¥ 100

サポートされたら、とても喜びます。