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勉強することの意味を勉強する その1

勉強。「勉める・強いる」というなかなかに強めの語感をまとった二文字で構成されるこの言葉にいい印象を持っている人はあまり多くないだろう。

今回は勉強の意味について私見を述べたい。しかしいつもの悪い癖で書いているうちにきっと長くなるので、これも数回に分断して掲載することになるだろうと思う。

さて、勉強とは何か。それはまさに勉め強いることで、好むと好まざるとに関係なく半ば強制的にやらされる営みだ。勉めるとは「無理をすること、こらえながら何かを行うこと」の意味だ。それをなおかつ強いられるのだから、たまったものではない。字面と其れが表す言葉の意味が実際にやっていることとここまでマッチする例も珍しい。こんな文章を書くのにも言葉選びに四苦八苦する僕などは、この言葉を作った人のセンスに脱帽し平伏するしかないのである。

幼い頃から勉強に勉め強いられてきた僕たちは、それが決められた時間に、決められた場所で、決められた人たちと、決められた人から、決められたことを教わることであることを知っている。その内容に自らの自主性を導入することは基本的に許されておらず、その反面、その内容を理解(というか暗記)できない場合には「落第」というレッテルを貼られることも知っている。 教わる内容が自分の好きなことで、勉め強いられる感覚のないものならば特に何も言うことはない。また、たとえそれが勉め強いられるものだったとしても、そこにはっきりとした意味を付与できるものならば勉め甲斐もあるというもので、かえって力を発揮できるのかもしれない。

しかし、大学教員をやっていて感じるのは、いまや大学生でも高校生でも勉強することに意味を見いだせていない子が非常に多いということだ。限られた範囲のことしか知らないので、もしかすると全国的にはそんなこともないのかもしれない。しかし、少なくとも自分が今まで見聞きした学生、高校の生徒、高校の教諭たちから得た印象の範囲では、若い人たちが勉強に意味を見いだせなくなっている状況が、さまざまな立場のちがいを超えて見えてしまっている。

いわゆる進学校と言われる高校に所属する生徒や、偏差値的な意味で上位の大学に所属する学生たちはそうではない、自主的に勉強しているではないか、という意見はありそうだ。確かに彼らは真面目に勉強に取り組む意欲は高い。知的好奇心も強い。しかしながら、勉強自体に意味を見出しているのかというと、実はかなり疑わしいと僕個人は思っている。

周りがやっているから、やらなければならないものと教えられてきたから、彼らを勉強に突き動かす動機というのは案外こんなものだったりして、そこに何か自発的に意味を発見しようとする人は思いのほか少ない。

もちろんこれも限られた範囲のことなので、全体的にはそうでないのかもしれないが、とにかく僕の前には勉強に意味を見いだせない多くの若者たちと、そんな若者に勉強の意味を彼らが納得できる形で提示できずにいる多くの大人たちがいる。

この状況を、僕は個人的にはあまりよくないと思っていて(あくまでも個人的な判断だ)、勉強することの意味について考えることが多くなった。大学教員となって社会に触れるようになってからずっと感じていることなので、もう10年くらいになる。

ここでは、10年間考えた僕なりの勉強の意味について語ることにする。万人に納得してもらおうとは端から思っていない。でも、少なくともこれまで勉強に意味を見いだせずにいた人に、違う角度からアプローチすることには一定程度成功している自負はある。

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