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ある程度考えがまとまったのでー

どうも、更新を二日止めながらも再開しようと思ったUgoです。いろいろ考えがまとまったので、ここにつらつらと徒然なるままに書いていこうかなと思ってます。この文面は少しばかり読んでもらいたいなと思いつつ書いてますので、もしお時間あればお読みください。

※ここで「幸せ」とか抽象的な言語が書いてありますが、これらは理解しやすい皆さんなりの言葉に置き換えてもらって大丈夫です。

やりたいこととできることとの差分

いままで、特に子供のころ、やりたいことを満足にできていましたか?子どものころはできることは少なかれど、やりたいことはたくさんあってというように欲望の時期のように思えます。しかし、大人になるにつれて、社会の一員となるにつれて、できることとやりたいことにさらなる差分が出てくるように思うのです。昔はやりたいことまでのハードルが低いはずだった。足りないのは年齢相応のできないことがあったから。でも、年が上がるとやりたいことまでのハードルが一気に上がる。受験、就職、転職、結婚、様々な面でお金や実力が問われてしまう。

いまのあなたはやりたいことができていますか?できているとしたらそれは非常に幸せなことなのですよ、きっと。そう訴えかけるための文章です。

物質的な豊かさと精神的な豊かさ

僕は人と良く話します。その中で、「就活でいう大手病」「受験でいう学歴主義者」はよく言うのです。「親が許さない」「親に認められない」と。ここの認識の違いってどうやったら埋まるのでしょう。少なくとも僕は埋まらないと思っています。昔の日本は、想像するに、現在の東南アジアのようなもので、「物質的に恵まれていること=幸せ」と考えられていたのでは、なぜなら皆が皆物質的に恵まれていたわけではなく、一部の人が物質を享受することができるという特権的なものに優越や幸福を覚えたのではないかと。では今の日本はどうか。確かに貧困が存在するといわれているが、NHKで報道された貧困に様々文句が飛び交ったように、おそらく想像している貧困とは少し違うように思える。寧ろ物質的に死に絶える人が少ない日本において真に貧困なのは精神的面ではないのかと思います。要は、いくら長く同じ時を過ごしていても、時代が、バックグラウンドが違うのです。先述の話にもつながりますが、親からしたら子に幸せになってもらいたいからこそ金や知名度といった見えやすい幸せ(=物質的幸福)を望むのかもしれません。

ここで問いかけたかったのは、親の意見に盲目的に従うことはあなたという人格の幸せにつながりますか?そして、その意見の違いってどこから来ているんでしょうね?ってことです。原因が解決できないときには時として心を無にすることも大事なように思います。

「やりたいことやりなよ」という悪魔たち

さぁ、ここが最も伝えたかったことです。ここさえ読んで、何かを考えてくれれば非常に嬉しいことこの上なし。

大学でも、社会人でもどんな場所にでも生息する「やりたいことやりなよ」や「自分らしく生きなよ」という人間たち。私は元来、こいつらに違和感を持っていました。彼らは、役職の責任に追われる僕に救いを差し伸べるがごとく言うのです、「で、それってなんのためにやってるの?そんなことよりもっと自分のやりたいことやればいいのに。」と。彼らは、就活に心を殺されていた僕に真理を授けるように言うのです、「いや、そこまでやって何になるの?その就職に意味ってあるの?」と。

今ならいえることですが、僕の中で彼らは確かにかっこよく見えましたしそのように生きたいと思いました。しかし、今の僕からすると答えはNoです。正確に言えば半分はYesで半分はNoです。

今から二通りの考え方でNoを伝えていこうと思います。どちらも近しいのでコンサルの方からしたらMECEじゃないとディスられそうですが(笑)

1.無責任から

これはあんまりクリティカルではないことを承知で。ようは彼らは無責任なのです。「やりたいことやりなよ」という彼らの内のほとんどは往々にして責任を取りません。経験則でしかないといわれるでしょうが、共感は得られると思います。「やりたいことやりなよ」という言葉の中には、「とりあえず自分のことだけ考えなよ」という意味も入っていると推察します。それは、この発言者たち自身が自分のやりたいことだけをやって幸せに生きてきているから出た言葉という仮説を立てたときに成り立つものです。もし、このような発言をしている人が、自分中心的に動いているとしたら、もうそれはただの無責任なのです。やりたいことをやる上で、というよりも、何かを成し遂げる上で、人との協力は決して欠かすことができないように思います。その人達のことも視野に入れなくてはいけないのに、本当にただ自分だけでやりたいことをやっているというのは無責任なのですよ。常にアングルが自分に向いているように感じ取れてしまうわけですよ。そして、その無責任さが誰かの首を絞めようとも構わない。その考えにはあまり賛同できません。この考えの本質はいじめ(加害者と傍観者)を肯定する特性を持ちうるものであり、非常に危険であるように見えてしまう。

この発言があまりクリティカルではないのは、受け取り手の倫理観に依存する部分があるのでというのが理由ですが、少しばかり理解していただけたでしょうか?

2.四つに分けてみると。。。という視点から

ではもう少しクリティカルに。一応クリティカルシンキングの申し子((笑))なので。

やりたいこととやりたくないことで表を作ってみましょう。そしてそれぞれをさらにやりたいこととやりたくないことで分けてみましょう。四つに分かれますね。おそらく彼らの発言の対象となる「やりたいこと」は「やりたいことの中のやりたいこと」に当てはまると思います。要はそれ以外の視点が抜けているのです。

例えば、あなたが「ケーキを食べたい。」をやりたいこととして考えたとしましょう。それを細分化すると

①「ケーキの材料・機材を買う」「ケーキを作る」「ケーキを食べる」

or

②「ケーキを買う」「ケーキを食べる」

というように分けられます(ここはほかの細分でもいいです。わかりやすくするためにこうしておきます。)

①は非常に手間がかかります。時間がないとしたら、手間を惜しむとしたら、①をするのは難しいでしょう。②はどうでしょう。簡単ですね。これを先ほどのコンテキストに当てはめてみると、悪魔たちは②のみを肯定し、②以外の手段を「やりたいことをやっていない」と否定しかねないのです。これはいかがなものかと。だって本質的にはやりたいことを達成しているのに、決してそれを許さないではないかと。①だって🍰を食べられるのにと。

「やりたいことをやりな」という言葉を言う人々の中にあるのは常に自分の尺度であり、これを人々に押し付けては回っているといえるのではないか。と私はこう思うわけではあります。

ここまでディスをいれといてなんですが、別に彼らの中にも良心でおせっかいをしてくれている人もいると思うんですよ。気持ちはわかりますし。きっと自分らしく生きていて素敵に見えた人にであったからこそでてくる言葉でもあるのかもしれません。ただ、一個だけ頭に置いておいてほしいのは(この文章も僕という人間が書いているのでそうですが)人から出る言葉たちはみなその人の主観に携わっているということです。この言葉はそれほどに無責任に見えてしまう言葉なのです。私が、真に人を考えやりたいことができていない人を前にしたとしたら「一緒にやりたいことを考えていこう」といまなら寄り添える気がします。そして、恐らくこれは幼い私がやってほしかったことだったのでしょう。いつまでも解法が一個の世界にいるのはなんとも苦しい。どこまでいっても、解法のきれいさで勝負するのなら競争社会にいるのと変わらない。そこにいるには私は弱すぎる。そんな悲痛な叫びから彼らを悪魔と呼んでおくことにしましょう。

一回死を意識して

先日の文章で死というものと向き合った(つもり)のですが、まぁまだまだようわからんと。所詮は21になりそうな”若者”のたわごとでしかなく。ふらっとトラックに突っ込めそうと思う反面、がんでは死にたくないっていって二日酔いのおなかを疑ったりと散々な三日間でした。

で、結局じゃあ自分のやりたいこと・幸せってなんだっけって考えたわけです。本気で死を考えたときに、名誉とか金とか見えやすい物質資源はいらなくなってしまったのですよ。それは向こうの世界に持ち込み不可だから。それは死ぬ直前になってまで固執しつづけるものではないから。ようはポケモンと同じで、ポケモンが次の代がでるころに必要なのって何でしょうって話なんですよ。ポケモンって次の代がでると前代のポケモンってプレイしなくなるじゃないですか。それってある種、そのポケモンの代の死であるわけで、そこに際して必要なものってなんでしょね?って話ですわ。マスターボールではないし、回復の薬でもない。相棒のジュカインでもなければ、伝説のカイオーガでもない(ここから世代がすこしばれますかね?)。いくら引き継ぎ機能が充実しようとも、ポケモンの本質ってそこではないんですよ、きっと。じゃあ本質ってどこなの?ってはなし。

本質は、少なくとも僕の中の答えは、ジュカインと旅をした日々やカイオーガを捕まえたときの記憶なんですよ。マスターボールを苦労して増やした経験や回復の薬を初めて使った時のあの感動(まじで全部回復しますからね、あいつ)なんですよ。どこまでいってもポケモン製作者様方が一生懸命作ったカスタマーエクスペリエンスが僕らが次のポケモンをやろうと思えるモチベーションの源泉であり、それこそがやりがいなのですよ。これを人生に置き換えてみてください。本質ってもっと別の世界にあるのかもしれないと、そう思えるようになる気がしませんか?

じゃあエクスペリエンスをよくしよう!みたいなはなしになって、ようやく「やりたいこと」っていう話が出てくると思うんですよ。まずここの土台に立たないといけないように思うんです。例えばお金で買える経験があるというなら、そのエクスペリエンスを得るために投資銀行やら外資コンサルやらにいくという選択肢が出てくるように思うんです。僕が就職活動にてあってきた人間たちの不気味さはここにあるんです。まぁ別に僕が個人で彼らにできることが何もない故困っていますし、下手に手を出しても上記の悪魔たちと並んでしまうということもあり、そこに対する起業を友人と考えているわけであります。

というか、僕のやりたいこと自体が具多的なレイヤーだと「友達(戦友、仕事仲間)と本気で一個の目標に食ってかかること」なんで、もうある程度満たされつつある状態なんだなとしみじみと感じ、自分が幸せであることを少しだけ実感をもって経験できました。ちゃんと「死にたい」っていったこと謝ろうって思ってます。ここでもごめんと言っておきます。

まとめ

まぁ、結論はざこっぱなりに悟りましたって話なんですけど、、、

もしこれらの文章をみて何かを考え直すきっかけになったら幸いです。サークルにも関連して、人の心に明かりをともせたとしたたそれは私の第二の幸せです!以上、Ugo・サトリマンタスより。

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