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ぎこちないサイン

小学校低学年の頃までは趣味は絵と読書と断言できるくらい、とにかく絵を描き、本を読む子だった。
だが成長するに従い、私は文章を書くことにもハマッていく。

 
そもそも私は幼稚園を卒園して親友と小学校が離れ離れになり、文通をそれから7年続けていたし、日記を書いたりもしていた。
人に自分の気持ちを伝える手段として手紙を、自分の気持ちを整理する手段として日記を書いていた。

また、父が教師だったこともあり、低学年の頃は宿題の作文は父による添削や指導も入った。その上で担任からも添削や指導が入った。

本を読めば語彙力が上がり、表現力を知る。
文章を書く回数が多く、またそれを見てくれる人がいればメキメキ力はつく。

気づけば私は作文が得意な子どもになっていた。
当時は絵を描くこと>読書>文章を書くことが好きな順位だったが、評価は絵よりも文章の方が高かったと言える。

 
小学校4年生ぐらいの時に授業で班のみんなと5分の寸劇をすることになり、そこで初めて私は台本を書いた。
クラスメートが台詞を言い、演じる姿によって私が思い描いたストーリーが形になる。
クラスのみんなの前で発表は恥ずかしくてこそばゆかったが
私はそれでも嬉しかった。

 
小学校5年生の時は初めての作詞もあった。
私の小学校は運動会の際、各チームごとに応援歌を替え歌で作らなければいけない。
歌は童謡でもなんでも構わないのだが、友達が「ともかちゃんは文章を書くのが得意だから担当してみたら?」と言ってきた。
ちなみに寸劇台本をすすめてきたのも彼女である。

「アルプスの少女ハイジ」の替え歌を作った。私は白組だった。

白組は何故赤組に勝てるの
赤組は何故白組に負けるの
教えて白組 教えて赤組 
教えて 勝利の女神様

 
作詞とは言ってもこんな風に繰り返しだらけのものだったが
一発OKで採用され、白組の生徒全員が練習し、運動会当日も歌った。

自分の作った詞が歌われる。

それは寸劇台本よりも大きな恥ずかしさと喜びだった。
私はこの頃から、自分が書いたものをみんなに見てもらいたいという欲望が強くなっていく。

 
容姿に恵まれず、運動神経は悪く、不器用で、性格も明るくない私の武器はものを書くことじゃないか。
そう確信していく。
ものを書くという行為が楽しくて仕方ないのだ。

小学校5年生の頃から趣味で詩を書くようになり、小学校6年生の頃、読書クラブでオリジナル童話「花畑のシシィ」をイラスト付きで作り上げた。初めて作ったオリジナルの話である。

 
「花畑のシシィ」は残念ながら返却されず、今手元にはないが、確かこんな話だったと思う。

転校してきたばかりのボブカットの黒髪の女の子には友達がいなかったが、レンゲ畑でピンク色のドレスを着た金髪碧眼のシシィと会い、友達になる。
しかし、シシィは花の妖精で、花が咲き終わると消えてしまうという春限定でしか姿を表せない存在で、枯れる直前に正体を明かす。 
涙ながらに別れるが、また来年の春に再会を約束し、主人公の女の子は新しい学校でも第一歩を踏み出そうと、クラスのとある女の子グループに声をかける。

我ながら小学生にしてはよく出来ていたというか、台本や替え歌よりも力を込めた作品で、まして表紙や挿絵まで自身で手掛けたので、まさかの返却されない結果が無念で仕方ない。

 
 
 
私は日に日に夢を抱くようになっていく。

自分の文章や詩を本にしたい、そして自分の詞を誰かにステージで歌ってもらいたい。

中学生の頃に芽吹いたその夢は自費出版で叶えるものだと思っていた。
コミケとやらで二次創作だけでなく、オリジナル小説や詩集を出す人もいると噂で聞いたのだ。
だが、オリジナルものは弱いとも聞いていた。二次創作は大半が漫画で、無名の若者のオリジナル詩集は見向きもされないだろうということは分かっていた。

とにかく詩を書いた。そして日記を書いた。
いつかを夢見て書いた。書かずにいられなかった。私の中にあるエネルギーを紙にぶつけずにはいられなかった。

   
 
転機はすぐに訪れた。
携帯電話・ネットの普及である。

私が中学生の頃には自宅にパソコンがあり、高校生になったら私専用の携帯電話を渡された。

HPやブログ時代突入である。

本にしなくても、自分の詩や文章を無料で見てもらえる。なんて手軽でなんて素晴らしい。
私はネットにのめり込んだ。SNSやHPを使って、文章や詩を発信した。時にはイラストも発信した。
それに対して顔も名前も分からない人が反応してくれた。
それが嬉しくて嬉しくて
私は毎日ネットを通して誰かに何かを発信した。

真咲ともかの誕生である。

いつか自費出版で本を作ることはこうしてネットで発信と形を変え、夢は叶ったのである。

 
  

 
そして月日は流れた。
自分が作詞して、誰かに歌ってもらうという夢は叶わずにいた。

その夢は確かに忘れたことはなかった。
私は高校生の頃から詩や詞を書いてはネットに投稿した。

だけど、それだけだ。

感想をもらったことはあるし、作曲が趣味の友人が曲をつけてくれたりもした。
ただ、誰かに歌ってもらうことは叶わなかった。
私が社会人になった頃は初音ミクが大流行しており、私に作曲センスがあればボカロという手段もあったのだろう。
それこそボカロが私が中高生の頃に流行したなら手を出したかもしれない。
社会人になりたてだった私はとにかく多忙で新しいことに手を出す余裕はなかった。
 
そして30歳を過ぎた頃、作詞をしてみないかという話が思いがけない方向からやってきた。

 
地元アイドルが新曲を発表することになり、その作詞を依頼された。 
私みたいな素人ができるだろうかと思いつつ、試作品を提出するとこの方向でいきましょうという流れになった。
詞を提出した後も作曲やイメージに合わせて歌詞を繰り返し小まめに手直しするという初めての作業に入った。
趣味の詞と、人に歌ってもらう詞の違いを知った。
試作品はすんなりできたが、推敲はその三倍以上の時間がかかった。
そんなこんなでデモテープを渡され、初めて聞いた時の感動をなんと表現したらいいだろう。
一人でこっそりそれを聞いた。私の詞がメロディに乗り、確かに歌となっていた。
特にCメロの歌詞が気に入っていたのでそこを聞いた時に我ながらこの表現はいいなと涙が込み上げた。
その後も更に変更は続き、完成作品はデモテープとはまた異なったものになった。
一曲を作り上げるまでにかかる労力や様々な人の関わりを垣間見た気がした。

100名以上ファンが集まった場所での初披露の際の胸の高鳴りはひどく、涙が込み上げた。
CDの歌詞カードに作詞者として自分の名前(本名)が載るという幸せをなんとなんと表現したらいいかが分からない。

「サインして。」

友人からCDを渡されながら頼まれ、私は困惑した。

サイン?私の?なんで?

…作詞者だからか。
アイドルじゃあるまいし、大先生でもないのにこの私がサインを求められるとは。サインなんて全く書いたことも考えたこともなかった私はその場で即興で書いた。
まさか人生で自分がサインを書く側になるとは思わなかった。
歪でぎこちない初めてのサイン。

私の長年の夢を知っていた友達は拍手をして、半泣きになりながらまるで自分のことのように喜んでくれた。
そんな友達がいることが、私には幸せでしかなかった。

枚数限定、会場限定で発売されたそのCDはソールドアウトとなった。
今ではもう手に入らない。

 

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