逃亡者の幽霊
私は中学生の時に幽霊になった。
正確に言うと、私は幽霊役を演じた。
私の中学校の文化祭では例年、一、二年生は教室で展示、三年生は体育館で劇をやるという決まりがあった。
私は演劇が好きだった。
小学生の頃は毎年学習発表会という行事があって、各クラスごとに歌の発表と劇をしたのだ。
役は立候補制だったので、私はウグイス役やら海賊役やら差別に苦しむ農民役やら
台詞が多い様々な役をこなしてきた。
演劇は好き嫌いがハッキリ分かれた。
私のように演じたい人もいれば、裏方を好む人もいた。
望めば役はアッサリ自分のものになった。
小学生の劇に主役はなかった。
台詞が多い役は何人かいて、例えばウグイス役をやった時は「ウグイス学校」という劇だったが、ウグイス生徒役は7人いた。更にウグイス先生役もいた。
私はウグイス生徒その4だった。
「ウグイス学校」でウグイス役を演じたといっても
目立つ役だが、決して主役ではない。
だが、中学一年生の時に三年生(姉の学年)の劇を見た時は衝撃だった。
各学年三クラスあり、各クラスごとに劇を発表するのだが
中学校の劇は主役がいたのだ。
どのクラスも主役は3名以内。明らかに台詞量が違う。
私と同じように演劇好きだった姉も
小学生の時に台詞が多い役を演じていたが
中学校では見事主役をこなしていた。
生まれつき片手が麻痺という運命が分かっている少女の魂の役柄で
その演技は見事だった。
別の年に他クラスも同じ劇を行ったが、比較しても姉の演技は輝いていた。
姉は高校で演技部に入ったし、やはりそういった才能があったのだろう。
私は中学一年生の時から二年後に思いを馳せた。
私のクラスはどんな劇をやるのだろう?
私も主役をやりたい。
三年生に早くなりたいと強く願っていた。
姉妹なのだろう。
中学校には演劇部はなかったから入部しなかったが、私も高校生になったら演劇部に入る夢を既に抱いていた。
演劇部の強い高校を受験して落ちた為、その夢は叶わなかったので
私が学生時代最後に演じたのが中学校三年生の劇だったとも言える。
中学校三年生になり、部活を引退し、いよいよ文化祭に向けての準備に入った。
担任の先生から劇の台本が配られた。
「逃亡者ー夢を追いかけてー」
タイトルにはそう描かれていた。
台本を読んだ。
家庭で上手くいかず、学校もサボりがちな明日香(不良設定)が渋谷にいると、いかにも田舎くさい世間知らずな美雪とひょんなことから知り合う。
黒い人(亡くなった魂を天国へ導く人)からの説明によると、美雪は病弱で家族以外と話したことがなく、学校も行けずに死んでしまったが、普通の若者みたいに遊んだり、学校に行きたいという夢のために黒い人から逃げたという。
明日香と美雪は色んなことをした後、美雪は明日香に「ありがとう。さよなら。私の分も生きてね。」と天国へ行く。
劇はこんな内容だった。
読み終わった瞬間に私はドキドキが止まらなかった。
すごい、すごいよ、これ!
今までの中で一番面白い内容の劇かもしれない!
歴代の先輩らの劇に負けない、いい内容だ。
テーマは深いが、お笑い要素がところどころにあるのがよい。
他クラスに負けない内容だ。
これを私達がやるのか!
私は読んで早々に思った。
美雪がやりたい。
田舎くさくてどんくさくて、小さなことに一喜一憂し、自分の家の畑からリンゴをとってきて渋谷の街中で食べ出すとか、どこか美雪の性格は私に似ていた。
今ならば私は明日香役も面白かったと思う。悪役やヤンチャな役は演じていて楽しいと思うが
当時の私は美雪役しか見えなかった。絶対に美雪役がやりたかった。
台本に目を通した後、役決めになった。
まずは主役の美雪役からだ。
「美雪役、やりたい人ー?」
手を挙げたのは私だけだった。
クラスに30人以上いて、こんなに魅力的な役を誰もやりたくないというのか。なんという幸運。
「明日香役、やりたい人ー?」
こちらも一人しか手を挙げなかった。
主役の二人は熾烈な戦いをすることなく、3分程であっという間に決まった。
むしろ死に神役の黒い人や裏方に人気は殺到し、こちらはジャンケンになった。
自分がやりたいと思ったものがすんなりできるということは誠に幸運だ。
私は家に帰り、主役に選ばれた(というより、他に誰もやりたがらなかった)喜びを家族に伝え
早速台本を何度も読み返し、お風呂場で台詞の練習をした。
あぁなんて楽しいのだろう。
幽霊だけに美雪が乗り移ったようだ。私はスラスラと台詞を覚えた。明日香との掛け合いや場面転換等も頭に入った。
ウキウキとワクワクが心を占め、全体練習の日を待った。
初めての台詞読み合わせは理科室で行われた。
動きをつけず、ただ台本に沿って台詞を読むだけだ。
ナレーションの後、台詞は明日香から始まる。
…上手い。
私は焦った。
明日香役の子とは小学校が違かったし、演じている姿は初めて見た。上手い。上手かったのだ。
私は空気に飲まれ、台詞を言いながらも混乱した。
私の声、変…。
芝居がかってて、自然体じゃない。
え?声の大きさってこれでいいの?あれ?分からない。
分からない…。
自信を失ったまま、最初の台詞合わせが終わった。
私は練習後、明日香役の子に「すごい!上手だったよ!!感情こもってた!!!」と伝えた。
明日香役の子は明日香役の子で「ともかちゃん、自分の台詞の時に台本見ないで言っていたね。もう台詞丸暗記したの?よかったよ、美雪。」と励ましてくれた。
多分、明日香役の子は本当に励ましてくれていたのだろうが、自信を失った私は慰めのように感じて惨めだった。
実際、周りからは好評価だった。誰も私の美雪を責めなかった。
練習初日だったからかもしれないし、私が気にしすぎていただけで落ち込む程ひどくなかったのかもしれない。
ただ、私は一人絶望に打ちひしがれた。
思うように演じきれない敗北感。
美雪はこんなんじゃない。
自分一人で頭で思い描いていたものと台本読みはまるで違くて、私は我流の自己練習がいかに自己満足だったかを思い知った。
クラスメートの子の声のトーン、呼吸、台詞を何度も思い描いて復唱し
私は美雪に近づけるように練習したし、周りとの調和を目指した。
しばらくして体育館での練習に入った。
ステージは思ったより高くて、足が震えた。
ステージから見た会場がこんなに広いとは思わなかった。
当日はここに学校関係者や保護者がギッシリ入る。
小学校の軽く三倍以上の人がステージを見ることになる。
体育館の練習では「もっと大きな声で!」と指導が入った。
当日はマイクを使わない。
落ち込んだ台詞も腹から声を出さないと体育館中には響かない。
練習中より本番は人が多いのだから、当日は多少ガヤつくだろう。
私は発生練習をした。
大きな声を出しつつ、感情を込めた演技をして、美雪になる。
文化祭が段々近づいていく。
私は絵が得意だったので校内に貼る劇のポスターの作成係になった。
小道具係も実に忙しそうだ。
みんなが担当のものを一つずつ形にしていく。完成にどんどん近づいていく。
私はクラスの友達と街に行き、美雪の衣装を購入した。
花柄の刺繍が入ったジージャンに白いワンピース、茶色のサンダル。
田舎くさい女の子という設定ならもっと野暮ったくてもよかったのかもしれないが
暇だからいつもファッション雑誌を見ていたという設定から、きっと親は寝たきりの娘のためにかわいいワンピースの一つや二つは買うだろうと、勝手にキャラ設定をした。
本番前の最後の通し稽古で、小道具などを使って本格的に行った。
私がリンゴをかじるシーンがあるが、それはぶっつけ本番ということで最後までリンゴを使わずにかじる練習しかしなかった。こればかりは本番にかけるしかない。
本番前日、私はだいぶ美雪に近づいてきた。
ただ、当日は暗幕にスポットライト、大勢の客が加わる。
光や人に気をとられて下ばかり見たり、台詞が飛びそうで怖かった。
先生からの指導一つ一つを心の中で復唱し、本番に臨んだ。
いよいよ文化祭当日だ。
空は晴れだった。絶好の文化祭日和だ。
私のクラスは二番目に発表だった。
準備をして舞台袖に待機している時、心臓がドキドキドキドキした。
左手に人の文字を三回書き、飲んでは気を静めた。落ち着け、美雪。
お前は田舎くさくて常識知らずだ。
人ごみに緊張はしないで、人の多さに感動と驚嘆するのがお前だ。
なりきれ。なりきるんだ。お前は美雪だ。
幕が開けた。
後はもう無我夢中だ。
観客席からは狙い通り、ところどころでドッと笑いが起きた。
練習中にはない笑い声にまたビクッとしそうになるが、そんな時こそ私は観客席を意識的に見ようとした。
中学校三年生、中学校最後の劇だ。
劇の発表はたった一回きりだ。
悔いなく、思い切り、私は美雪になる。
大きなトラブルもなく、劇は終盤に近づく。
私はいよいよ、天国に行くことになる。
私は夢を語る。
あれがやりたかった、これがやりたかった…ずっと夢ばかりあって、今日それができてどんなに楽しかったかを心を込めて私は伝える。
ありがとう。さよなら。
あなたは生きて…
私は台詞を言いながら途中で本気で泣いていた。
練習中にはなかったことだ。
泣きながら、私は天国へと旅立った。
私は舞台袖に見えないように隠れ、幕が降りるのをジッと待った。
私の出番の後、何名かの台詞や裏方の作業が残っている。最後までミスはなかった。完璧だ。練習の成果を出し切った。
幕が降りて私達を待っていたのは鳴り止まない大きな大きな拍手だ。
やりきったことでクラスみんなで達成感からハイタッチしたり、笑い合った。
最終日、舞台をバックにクラスみんなで集合写真を撮った。
その時のみんなは実にいい表情をしていたし
私は晴れ晴れとした笑顔だった。
衣装を脱いで制服に着替え、美雪からともかに戻って文化祭を楽しんだ。友人との自由行動だ。
校内を歩いていると、色んな人に声をかけられた。
クラスメートだけじゃなく、他クラスの友人や後輩、親からも演技を絶賛されたが
私が一番嬉しかったのは友人から「うちのお母さん、美雪の最後の台詞に引き込まれて泣いていたよ。周りにも泣いていた人いたって。他のクラスもよかったけど、ともかちゃんらのクラスの劇が一番よかったよ!」と言われたことだった。
みんなで作り上げた劇が褒められ、認められた。
自分の演技で大人を泣かせた。
それは同級生や後輩や親の評価よりも確かなもののようで、私はとても嬉しかった。
私の全力の演技はあの時誰かに何かを残せただろうか。
私は舞台に立つ前から知っていた。
文化祭で三年生が劇をやるしきたりは私達の代で終わりになることを先生から聞かされていた。
中学校時代最後の集大成であり、中学校としても最後の三年生の劇。
そして本命高校に落ちて滑り止め高校に進学した私を待っていたのは、大学進学を目指す人は部活動禁止というルールだった。
色々な意味を含めて、あれは本当に最後の劇だったのだ。
最後に美雪ができて心からよかったと思う。
今でも手元に残る台本と集合写真はキラキラとしている。
忘れられない青春の一頁だ。
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