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同僚の死と涙

私は障害者福祉施設で学生の頃に三週間実習をしていた。

 
その施設は本当にアットホームであたたかくて
私はそこで就職したかったが
新卒をとらない施設で有名なところだった。

だから私がそこで内定をとれたのは
施設長に気に入られたからというのもあるだろうが
実習担当であり、主任でもあり、実質施設を仕切っていたAさんの存在が大きかったと思う。

 
Aさんは実習の時によく話を聞いてくれた、あたたかくて強くて優しい方だった。
同じく、主任Bさんも実習担当だったが(のちに退職するまでずっと私の直属上司になるのだが)
Bさんは逆に全くの放置で
二人は実に対照的な実習担当だった。

 
採用されてから学校を卒業するまでの半年
私は週1~2日ボランティアに行き
卒業式を終えてからは
春休み中大半がボランティアだった。

それが採用条件だった。

 
だから
私は勤務年数は丸11年だが
実質12年働いたような気分だ。

 
 
働き出してから私は
主任Aさんの向かい側のデスクだった。

働き出してからも直属上司のBさんにはあまり上司らしいことはされず
また価値観の違いから
面倒見がよく、常に仕事に全力なAさん寄りに私はなった。

 
同じ事業部ではなかったけれど
現場女性正職員は私とAさんしかいなかったから
正職員の在り方、女性正職員の在り方、福祉職員の在り方、人としての在り方を
Aさんからは叩き込まれた。

Aさんは私の母親のような存在だった。

意見が合わずにぶつかった時もあったが 
それは理解してくれる、という
信頼や甘え故でもあった。

 
同じ事業ではなくても、Aさんと会議に出席したり
一緒に仕事することは多々あり
私が職場で一番の相談相手で、頼っていたのがAさんだった。

 
向かい側のデスクで
私達はよく色々な話をしたし
仕事を通して苦楽を共にした。

 
私がAさん寄りだったから
施設長とAさんの間に挟まることもよくあった。
立場上、施設長をたてなければいけないのは分かっていたが
私はAさんの指示に従った。

 
私も入職してから一年後には新規事業の主任になり
Aさんと役職は一緒になったものの
それからしばらく経った後
私は諸事情により責任者という役職に変わった。
そして、別事業と兼務になり
別事業の主任でもあった。

 
事業責任者、事業主任として
私は日々多忙だったが
Aさんと仕事するのは好きだったし
頼もしかった。

 
いつしか私はAさんの後継者のようにも言われるようにさえなった。

 
Aさんからはプライベートな話をよく聞いた。
祖父母のこと、きょうだいのこと、旦那のこと、子どものこと、ペットのこと。

旦那様のことは大好きで仲がよかった。
よく旅行に行く話をしていた。

 
Aさんはデスクに家族写真や犬の写真を飾るくらい
家族を大切にしていた。

 
また、一時期だが
Aさんのお子様のCさんが利用者になったことがある。

Aさんは子どもが複数人いて
健常者と障害者どちらも育児をしていたことになる。

「障害児は健常児の三番は育児が大変。」と言っていたAさんの言葉は説得力があった。    

そんなわけで私はCさんとも関わりがあった。
一緒に作業をしたり、活動をしたりしていた。

 
Aさんの実母のお通夜にも参列したし
Aさんちに泊まったこともある。
Aさんのお子様が施設にボランティアに来たこともあったし
私はAさんだけでなく
Aさんのご家族とも交流し、面識があった。

 
Aさんは多才で美人だった。
なんでもできた。
周りからの信頼もあつい。
圧倒的な存在で
私は最初叶わなすぎて自信をなくした。

 
だけど仕事を続けていくうちに
段々と周りと信頼関係を築けたり
できる仕事が増えてきて
私は自信を持ったり
仕事に誇りや信念があった。

「仕事に信念を持ちなさい。」

そう言ってくれたのはAさんだった。
社会人一年目の頃に言われてから
今も尚、忘れられない言葉だ。

 
働き出して数年経った後
他社を退職したAさんの旦那様Dさんが
同じ施設で働くことになった。

噂はよく聞いていたし
何回か会ったこともあったとはいえ
Aさんの旦那様が同僚になる日が来るとは思いもしなかった。

 
Dさんが働くようになってから
Aさんは夫婦で出勤したり
デスクを並べたりと
仲睦まじい様子を見せた。

 
私なら家でも職場でも家族と一緒なんてありえないと思っているから
そこまでの愛を見てビックリした。

Dさんが病気を患っていたこともあり
些細な変化に気づけるようにそばにいたのかもしれない。
そして、50歳を過ぎてからの畑違いの業種でも上手く働けるよう
さり気にサポートもしていたのだろう。

 
Aさんは実質、施設をまとめる存在だったから
やりやすさはあっただろう。

 
Dさんが入職して一年と少しが過ぎた頃
私は退職することになった。

あまりの理不尽な人事異動ややり方に涙したし
Aさんも訴えてくれたが
所詮直属上司Bさんが動かなければ
私は次の職場を探す前に辞めるしか道はなかった。

 
Aさんは引き止めてくれたし
私の退職を知ると泣いてもくれた。

 
退職時、書類手続きを手伝ってくれたのがDさんだった。
上が動いてくれず、AさんとDさんのお陰で、退職後動きやすかった。

 
私の最終勤務日、家に帰ると立派な花が届いていた。
AさんとDさん個人からだった。

「おつかれさま。そしてありがとうございました。」

そう花にはメッセージが添えられていた。

 
お礼の電話をしたが、Aさんは電話に出られず、あとで代わりにメールが来た。
そのメールの中で、こんな風にも書いてくれた。

「これからの人生…きれいに咲かせてね。」

 
それが、在職中、私とAさんとの最後のやりとりだった。

 
 
Aさんから人生を咲かせることを期待された私だったが
喪失感や悲しみ、寂しさが強く
すぐに次の仕事、とはならなかった。

退職に納得しておらず
私はまた前の職場で働きたかったのだ。

 
一年間
私は転職活動をそこそこに
仕事をしていなかった頃にはできなかったことを色々した。

コロナ禍だから制限はかかったが
今まで学校や習い事、仕事に人生を捧げた私にとって
久々にゆっくりとした時間を過ごせた一年だった。

 
自分の人生において
次の花を咲かすために耕した時期と言っていい。

 
ご縁があり、内定をもらった職場で働くことになったのは
退職から一年後だった。

 
前の職場での送迎ルートに近い場所で
私は近くに住む利用者と偶然会える日を願ったり、懐かしく思っていた。

 
新しい職場での仕事は同じ障害者福祉なのに
やり方や考え方が真逆で
常識は次々に覆された。

Aさんから叩き込まれた常識が
新しい職場では通用しないこともしばしばだった。

 
新しい環境で上手くやるためには
新しいやり方を覚えるしかなかった。
新しい人間関係を作るしかなかった。

 
すでにできあがっている組織に入るのは想像以上に大変で
合わなくて泣いたり
理解されずに泣いたこともよくあった。

 
前の職場が全て正しかったわけではないし
新しい職場がよりよいことも多々あったが
でも
私は前の職場が恋しかった。

 
新しい職場で働き出して一年くらい経った頃
仕事の関係で前の職場に電話したら
たまたまAさんが電話に出て
私は少しだけ話した。

定年になり、常勤ではなくなった、と少し寂しげに話していたことが印象的だった。

 
  
それから更に時が流れた。

  
私は相変わらず
新しい職場で働いていた。
全てを納得したわけではないが
新しい人間関係を築き、新しい仕事に挑み
日々を過ごしていた。

 
コロナが落ち着いたら、みんなにまた会いたい。

そう思っていたら
人づてにDさんが退職すると聞いた。
最終勤務日の後は有給休暇を消化して退職になると聞いた。

 
私の退職後、Dさんとはたまにすれ違っていた。
というのも
Dさんの担当する送迎ルートと今私の担当する送迎ルートが重なる時があったからだ。

 
私は向こうの車に気づき、手を振ったが
私の方には1回も気づかれなかった。

私は相手の送迎ルートを知っているが
相手は私がここを走っているなんて知る由もないからだ。

 
そうかぁ…
Dさんが退職………

そう思うとしんみりした。

 
それから数日後
私はたまたま同僚Eさんと再会した。
Eさんは用事があったし、私は仕事中だったので二、三言しか話してないが

 
「またあとでゆっくり話しましょうね。」

と、言って別れた。

 
 
まさかそれから一週間もしないうちに
私はEさんと再会するなんて思いもしなかった。

 
 
 
Eさんと再会した次の日のことだ。

新聞を読むと

Dさんが亡くなったことが書いてあった。

 
私は言葉を失った。
確かに病気中だったが、定期通院をするくらいで
仕事を休む事なんてしていなかったし
顔色だって悪くなかったはずだ。

 
いやでも
それはあくまで三年前の話で
最近の様子なんて私は分からない。
運転中の顔しか知らない。

退職したのは病が悪化したからだったのだろうか。

 
新聞には葬儀の日程が書かれていて
家族葬とも書いてあった。

 
私は真っ先に父を呼んだ。
母はもう仕事でいなかった。

「Dさんが、Dさんが…亡くなった。」

父もビックリしていた。

 
私はよく職場の話をしていたし
家族もよく私の前職時代のことは知っている。

 
Aさんの親戚が郵便局員で
うちは私が在職中は毎年そこから年賀はがきを買ってさえいたのだ。

 
「Dさんが…そうか………お父さんより若いのに。まだ早いじゃないか。」

そう父は言った。
私だって信じられない。まだ頭が追いつかない。

「Aさんが心配だな……。」

私も同じ気持ちだった。 

Aさんは旦那様が大好きで同じ職場で働くくらいの仲なのに
Aさんは今どんな状態なのだろうか。

 
私は仕事をしていてもAさんやDさんで頭がいっぱいだった。
日中は笑っていても
一人になるとシクシク涙を流した。

 
帰宅後、母にDさんの件を告げた。

母も父も同じ気持ちだった。

「お通夜に参列しなさい。本当にAさんにはお世話になったのだから。Dさんも色々してくださったのだろ?」

もちろん、私も同じ気持ちだ。
Aさんは私の祖父母のお通夜に参列してくださった。

うちとAさんちはかなり離れているのに。

 
退職し、コロナ禍にもなり
前の職場で誰かが亡くなっても
私はどうすることもできなかった。

 
家族葬が多かったし
新聞にも載っていないのに参列しようものなら
誰から聞いたか問題になりかねない。

 
施設長は裏で職員同士がやたら繋がるのを嫌っていたし
元職員が情報を握っているのもそれはそれは嫌っていた。

 
だが
私が退職してから施設長は退職し、別の方が施設長になったし
今回は新聞に載っているから大丈夫だろう。

 
親から家族葬でも
お通夜が始まる前ならば
焼香をしたり、香典を渡したり、遺族と話すことができると聞いたのだ。

私は心苦しかったが
お通夜の日に早退届を出した。
その日は職員の休みや早退が相次いでいたのだ。

 
施設長やリーダーから了承された上
リーダーにいたっては「そんなにギリギリの早退で大丈夫?もっと早くに上がったら?仕事はやっておくから気にしなくていいですよ。」とさえ言われた。

 
 
お通夜の日。

私は届の時間ピッタリに上がろうとしていたが
やはり他の職員が休みなことや翌々日に控えた販売準備が重なり
汗だくになりながらバタバタした。
私は販売責任者だし、今回は初めての場所での販売。更に雨予報のため、色々と準備が必要だった。

 
喪服に着替え、帰る頃には
予定より時間を15分もオーバーしており
施設長は引き止めて話をしだし
リーダーは「気をつけて、慌てずに運転してくださいね。」と見送ってくれた。

 
私は斎場を目指した。

前の職場に近かったし、元利用者が亡くなった時もその斎場だったから勝手はある程度分かっていた。

想定外だったのは、想像より道が混んでいたことだ。

 
私の予想では15分前には着く予定だったが
私が着いたのはなんと4分前だった。

 
駐車場も満車で第二駐車場をすすめられるし
もうお通夜は始まってしまうし
あぁこのままAさんには会えないのかと落胆した。
やはりリーダーの言うように無理してでも早く出るべきだっただろうか。

だが、奇跡が起きた。
ちょうど車が出るところだったのだ。

 
私はラッキーと思いながら急いで車を停め
入口に向かう。
慣れないハイヒールが実に歩きにくい。

 
入口から入ると驚いた。
人がズラッと座っていた。家族葬にしてはやけに多い。
私が香典を渡している時がちょうど始まろうとしていたところで
私は受付の方に慌てて聞いた。

「今日は家族葬…ですよね?」

確認したら
一般の方も座れるというので
慌てて椅子に座る。

 
たまたま空いていた後方の椅子が
元直属上司のBさんの前というのが
実に現実的だった。

 
 
約三年ぶりに見たAさんは
やつれていて
パッと見はAさんと分からないほどだった。

 
私が後列にいたことやマスクをしていたこともあるだろうが
なんとも言えない気持ちだった。

Aさんのお子様達も最後に会った時よりみんな大人になっていた。月日を感じる。

 
花がたくさんたくさん飾られた中
私の記憶の中のDさんと同じ顔をした写真が飾られていた。

たくさんの花の中には元職場や利用者からの花、Aさんの実家や自治会からの花もあった。

 
後列から見ると
何人かの元同僚の姿が会った。
みんな変わらない。すぐに分かった。

 
弔問客が一人、また一人と頭を下げ、手を合わせる時
何人かの人を経て私の番になった。
ドキドキした。周りは私に気づいただろうか。上手く歩けないのはヒールのせいだけじゃない。

 
私は遺族の方々にも頭を下げた。
私はAさんを見た。

白髪混じりで疲れた顔。
かつて白髪ははえない、と私に自慢していたのに
疲れが全体に出ていた。

 
Aさんは私に気づいていた。

「ありがとうございます…。」

消え入りそうな声で言われながら頭を下げられ
私は涙が一気に流れた。

 
最後にAさんと別れた時
こんな再会なんて願っていなかったのに。

 
お通夜の最後でAさんのお子様がこんな風に話していた。

「背筋を伸ばして仕事に行く父の姿は憧れでした。」

「母とよく二人で旅行に出掛けていました。来年は〇〇に行こうなんて話していたところでした。」

Aさんは頭を下げてグッタリしている。

 
あぁあんなに気丈な人がこんなにこんなに弱々しいところを見たことがない。

今そばに行って抱きしめられたらいいのに。

 
Aさんはめちゃくちゃ多忙なのに
時間を作ってはよく旅行に行っていて 
旅行話を聞かせてくれたり
お土産をくれた。

旅行はいつもDさんと行っていた。

 
涙が止まらない。
死に早い遅いはないのかもしれないが
私にとっては早い死と感じた。

 
Aさんだけでなく、お子様達も涙を流していた。

 
最後に遺族が入口に並び
一般の弔問客が席を立つように促された。

私は席を立った際
Bさんに挨拶をしようとしたが
サッサと立ち去って行った。
一般客後方から退席する流れだったからか、バツが悪かったかは分からない。

 
私は遺族に頭を下げた後
Aさんの顔を見た。

Aさんは泣きながら私を抱きしめてきて
私も抱きしめ返した。

「来てくれてありがとう。遠かったのに…。」

「新聞で見て…ビックリして………あまりにも急で。」

そこまでしか声にならなかった。

Aさんと抱きしめ合って涙を流したのは初めてだった。

 
会う前はなんて伝えたらいいか分からなくて
頭の中で整理をしてはいても
結局会うと言葉にならない。

「帰り道、気をつけてね。」

そう言われ、私は抱きしめた手を離した。

 
出口で塩をまいた後
次々に元同僚に声をかけられた。
久しぶりにみんなと話す。

 
どうやら入口付近でスライドショーをやっているらしく
私はそこに戻った。
元同僚がたくさんそこにはいた。

生まれたばかりのDさん、成長したDさん、新婚当時、子どもが小さい頃、ペットとたわむれる写真、最近の公私の時……

その写真は何十枚にも及んだ。

 
周りは「若い。別人みたい。」と言ったり
クスクス笑ったりしていたけど
私は何も言わずに眺めては涙した。

Aさんは合間をぬって
写真の思い出を話してくれた。

 
若い頃の写真やペットの写真は何回か見せてもらった。
数年前、Aさんと写真を見ながら話し合った思い出がふと蘇った。

「最期のお別れしてあげて。」

そう言われ
私達はスライドショーを見るのをやめ、棺に向かった。

 
まるで眠っているようなきれいな顔だった。

 
ネクタイをし、周りにはたくさんのネクタイが並べられた。
Aさんのプレゼントやセンスだ。
もうそれだけで泣けてくる。夫婦仲が伝わるのだ。

  
「また落ち着いたら、会いましょう。」

私は同僚のみんなと話しながら
Aさんと話しながら
そう言って別れた。

 
私の代わりに入った女性職員が
かつての私のように同僚と話している。

変わらない顔があるし
新しい顔もある。

 
時の流れを感じる。

私だってもうすぐ
転職先で働き出して二年になる。
変わったのは私も同じだ。

 
 
参列できてよかった。
Aさんに会えてよかった。
Dさんとお別れができてよかった。

 
帰宅後、Aさんからメールが入った。

「今日はありがとうございました。」

 
こちらこそ、ありがとうございます。

 
出会ってくれて
一緒に働かせてくれて
ありがとうございます。

例え新しい職場で働いていても
前職で出会った繋がりは消えない。

そう信じていいかな。

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