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「悪問だ、悪問だ」言うけれど

どうもさいころじっくです。

みなさんは今までに様々な問題を解いてきたと思います。学校のテスト、資格を取るために受けるテスト、クイズ、会議の議題などもあるでしょう。
その中で「この問題は問題として良くない」とか「悪問だ」と感じる問題にあたったことはありませんか?

私は正直たくさんあります。特に教習所のテストは悪問でしたね。(教習所に関わるみなさん、申し訳ありません。)
今回はそんな悪問について考えてみたいと思います。


○悪問はなぜ悪問なのか?

そもそも悪問は何が「悪い」のでしょう?
意外とこの問いは正確に分かりやすく答えるのは難しいと思います。
「何か答えづらい・答えにくいというもやもやした気持ちを持つ問題」だと説明としては甘い、そもそも説明になっているのかという感じがしますね。

ですが、ある程度分類はできます。
(1)問題の意味は分かるが、問題の条件の意         図がよく分からないもしくは条件を考え         る必要のない問題
(2)問題として設定が甘い・正解が多すぎる         問題

と大体分けられます。あくまでも大体ですし、場合によれば(1)(2)が重複している悪問もあるかもしれません。もう少し具体的な例で考えてみましょう。

(1)条件の意図が不明・必要のない問題

みなさんが例えば体調が悪く病院に行って医療薬をもらったとしましょう。医者は患者を診断した時に必要だと思う医療薬だけを与えます。

もしもこれが本来、不必要な医療薬も与えていたら、副作用などによってかえって悪くなるのは分かりますよね?
議論・証明などでも同じように、仮定や条件というのは最小限のものにしておく必要があります。このような考え・方法を論理学では「オッカムの剃刀(カミソリ)」と言います。

例を出してみましょう。

周の長さが20センチメートルの長方形があります。
条件は以下の通りです。
1.縦の長さ、横の長さはともに自然数であ       る。
2.横の長さは8センチメートル以下である。
3.面積は22平方センチメートルより大き           い。
4.縦の長さの方が横の長さより短い。
この時の長方形の面積を求めてください。

この問題は答えとしては1つになります。しかしこの問題はある疑問を生んでいます。

答えとしては24平方センチメートルです。

ではその疑問とは何でしょうか?もう分かりますよね?

この問題も条件が多すぎるのです。

○不必要な条件は?

ではこの4つの条件の中で不必要な条件はどれでしょうか?

1.縦の長さ、横の長さはともに自然数であ       る。
2.横の長さは8センチメートル以下である。
3.面積は22平方センチメートルより大き           い。
4.縦の長さの方が横の長さより短い。

答えは2.です。
2.の条件が無くてもまず1. 4.の条件から縦の長さは4センチメートル以下の自然数、横の長さは6センチメートル以上9センチメートル以下の自然数になります。3.の条件から面積は22平方センチメートルなので、縦の長さが4センチメートル、横の長さが6センチメートルと1つに決まります。よって24平方センチメートルです。

この問題では不必要な条件が問題そのものの答えを曲げてしまうものではないですが、このような問題を誤って提示してしまうと解答が違うのではないかと心理的に感じてしまうかもしれません。

(2)問題として設定が甘い・正解が多すぎる問題

悪問と言えばこの種類の問題が多いかもしれないですね。簡単に言えば解釈によっては多様な回答ができてしまう問題のことです。

例えば教習所の問題だと
「原動機付き自転車は公道で時速50キロメートル以上で走ってはいけない。○か×か。」

これは教習所では×と解釈します。それはなぜかというと原動機付き自転車は公道で時速30キロメートル以上で走ってはいけないと決められているからです。

しかしここで疑問に思ってほしいのです。この問題は○と解釈することもできませんか?
「そもそも時速30キロメートル以上で走ってはいけないのなら時速50キロメートル以上で走ってもいけないだろう。だから○だ。」という考えです。
言われてみれば納得しますよね。

こういう場面では問題で何を前提(絶対的なルール)としているのかということが分かるように問題を作る必要があります。教習所では原動機付き自転車は公道で時速30キロメートル以上で走行してはいけないというルール(法律)があるために×なのです。

○悪問は不必要か?

ここまで悪問をつらつらと説明してきましたが、あえてみなさんに聞きます。

悪問は不必要ですか?

多くの人が不必要と答える気がします。しかし私はある点において必要だと感じます。


悪問の方が答えが多様だからです。


あれ?これは先ほど説明した正解が多すぎることを肯定してるだけですね。
ですが答えを1つに決めつける必要がない場合も当然あります。このような場面では悪問の価値は高いと思います。

よく教育現場では授業の時に悪問をしばしば使います。言ってしまえば生徒を焦らし、興味を引き出すためです。そのような興味を引き出すための悪問を消されてしまうと、授業としてはかなり矮小なものになるでしょう。

つまり悪問と呼ばれるのは答えが絶対的に1つにしなければならない時だけに使われる必要があり、他の状況では大胆な回答が良いと思われる可能性があります。このような方法を「ヒューリスティックス」と言います。ですが論理学は絶対的な答えを探るものなのでこの「ヒューリスティックス」と対になるものと言えるでしょう。

○まとめ

今回の内容をまとめると、悪問は論理学として答えが1つに決まらないから悪問であり、悪問にも種類がある。だか答えの多様性を否定することはできないため使い方によっては良い場合がある。

こんな内容でした。もしかすると悪問について考え続けると新しい答えが浮かぶかもしれませんね。

今回はこの辺で。
楽しい日々になりますように。

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