本屋がセルフレジになった。

いつも行っている本屋にセルフレジが導入された。

私の感覚としては、“導入されてしまったか”という感じ。少しさみしい。いや、だいぶかなしい。いろんな店舗やサービスが効率化を図ろうと様々なテクノロジーやセルフサービスを導入していくのを見て「選択肢が増えた」、「便利になった」というポジティブな思いを持っていたはずなのに、なぜ本屋がセルフレジを導入したときだけこんなにショックを受けたのだろう。

冷静になって考えてみよう。

私は本をAmazonでも買う。リアル店舗の本屋さんでも買う。趣味は読書。

ゆったりのんびり等の現代人の感覚で云う“ムダ”なことを愛する、それが私が趣味を楽しむ上で重きを置く大事なポイント。そんな感覚を持つ私が本屋に行って本を買うということは「売り場、本棚をゆっくりみて本をレジに持って行って、あとはその本のことを考えながらお金を払う」というアナログなことを求めているのだろう。つまり、読書のほかに「本屋に行って本を選ぶ」ことも趣味のひとつ、なのか。

私の趣味の領域に入ってくる効率化や作業感が嫌なのだろうか。

その趣味の領域に入ってくる効率化な作業感が嫌なのだとしたら、目当ての本があって本屋へ行き、店内に入って本を手に取り、セルフレジにてお会計で帰宅という行為が「せっかく実店舗に来ているのに、これだとAmazonでいいじゃないか。リアル書店にとってAmazonはライバルじゃない!Amazonの逆を行ってくれよ!」と思ってしまうのだろう。もちろん本屋には目的を決めず本と出会いに行くことも多く、この地域ではどんなものが売れているのだろう、どんな本を売りたいのだろうという興味もあるので、リアル書店の良さはセルフレジになったところで消えることはない。店の倉庫に入るという設定で店内に入るコストコ、IKEAごっこをすると楽しめるのかもしれない。もしくはセルフレジを受け入れる設定として、店員さんのことを売り場の雰囲気をつくる空間デザイナーと呼ぶことにするのもいいかもしれない。呼ばないけど。

非日常感が薄くなったことが嫌なのだろうか。

読書のほかに「本屋に行って本を選ぶ」ことも趣味。つまり、意味もなく本屋に行くということは非日常を味わいに行っていたと考えていいのではないだろうか。その非日常感が薄くなったことが嫌なのだとしたら、本屋さんと云う空間、場所は自分が思っていたより自分自身がエンタメ空間として認識していてたということだろう。例えるなら「せっかく楽しかった遊園地や観光地なのにお土産店やフードコートがセルフレジで、現実感が一気に出て、なんか萎えた。」みたいなことだろうか。そんな遊園地みたことないから例えに無理があるのだけれど…

遊園地の例えは少し無理があったけど、遊園地のキャストのように、本屋には本が好き(というフリだけでもいい)な人が店員をしているという勝手な思い込みはあって、そんな店員さんとのレジでのやりとりが(形式的なものであるのは間違いないのだけれど)、自分にとって大きかったのかもしれない。

「本(著者、出版社等)」に対してというより、「本屋」と「レジの店員さん」の存在に対して「ありがとうございます」とお金を払っていたということだろう。

経営的な側面で嫌だと感じたのだろうか。

店の経営的な側面で嫌だと感じたのだとしたら、「本の価格は再販制度で定価販売だからスーパーみたいにコストカットして価格を安くするとかはないよな」、ということは人件費カットをしたいだけなのか、いやこの店は売り上げが良くないのかも、本以外の文具やおもちゃも置き出したし、別の店だと利益がとれるカフェみたいなものを設置たりする店舗が増えたし、この店も低い売り上げが続くと撤退するかもしれない、といったネガティブな妄想をしてしまうからだろうか。不安感からくる不快感は手強いので早めに払拭せねばならない。

いろいろ考えたが答えはでない。

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