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【短編小説】記録写真

ほぼ毎週末の夕方にこの場所にいる。
大学に入った後、祖父から譲り受けた古いフィルムカメラでなんとなく写真を撮り始めた。
もう最高学年になろうとしているが、まだ毎週のように訪れている。
それまで特に写真に興味のなかった僕がこんなに続けていられるのは、クラシカルなフィルムカメラで写真を撮るという、スローで面倒なことが性に合っていたというだけでなく、彼女の存在が大きいのだろう。


◆◆◆


「そのカメラって古いの?」

「え?」

声をかけてきたのは、アパート近くのたまに訪れる喫茶店の娘さんで、顔を知っている程度の関係だった。
僕が戸惑った返答になったのは、数分前に彼女の後姿をこっそり1枚撮影していたからだ。

「スマホじゃだめなの?」

自分でリングを回してピントをあわせるのが楽しいこと、カメラ自体が気に入っていること、シャッターの音が好きなこと、何度も友人に説明した、何度も人から聞いたことのある言葉を並べた。

「私を撮ってみてよ」

巻き取らずにシャッターを押した僕の失敗を見て、彼女は笑っていた。
名前はエリと言った。

エリと一緒にいろんな経験をした。


隣の町のお好み焼き屋が美味しいことは、エリから教えてもらった。
ガーベラという花の名前。
金券ショップの使い方。
カップラーメンにポテトチップスを乗せること。
甘くないお酒。
本の面白さ。
塩胡椒は気持ち多目がいいこと。
キス。
雨の日の過ごし方。
クワトロフォルマッジ。
30前になると、化粧ののりが悪くなるということ。
愛してるの伝え方。
SEX。
半熟ゆで卵の作り方。
長崎の餃子屋。
旅の靴の選び方。
始まりには終わりがあるということ。


「ごめんね」

「分かってるから」
といった僕は、社会人の事情や年上女性の気持ちを頭では理解していても、本当に分かっているわけじゃない。

「最後にいい?」
そう言って引き出しからカメラを取り出した僕を見て、エリはうなずいた。
最後に撮るエリの写真。
薄暗い部屋とにじんだファインダーでピントが合っているのかよく分からない。最後のシャッターを押した。


◆◆◆

これまでの大学3年間を思い返せる程度には写真が残っている。
エリとの記録が大半だ。

実はエリを最初に撮ったフィルムを今出している。
最後の日のエリも写ったフィルムだ。
あの日、名前も知らないエリを隠し撮りした写真を見られるのが後ろめたくもあり、恥ずかしくもあり、フィルムを撮り切る前にその日から引き出しの中だった。
ちゃんと写せるかと緊張の中シャッターを切ったエリの顔はどんな表情をしていたのか覚えていない。
最後に撮ったエリも涙と感情の渦の中、表情を見てシャッターチャンスを伺う余裕はなかった。

「はい、今日は1本ね」
なじみの写真屋の店主。すべての私生活を知られているようで、少し恥ずかしい。
今後、エリの写真を出さなくなったら、言わなくても分かってしまうだろう。

受け取った写真は早く見たいが、見たくない。合格発表の心境だ。
スーパーの惣菜で済ませた晩御飯のあと、シャワーを浴びて、辺りが暗くなってから写真を取り出した。
髪型は違うが、見慣れた同じ表情をした2人のエリがいた。


いつしか美味しく思えるようになったビールを半分ほど飲み干して、新しいフィルムを鞄に入れた。