「自分にとっての幸福感があれば、見ず知らずの人からの“いいね”なんて要らない」――甲本ヒロトのインタビューを読んで。
ザ・クロマニヨンズ、甲本ヒロトさんのインタビューを読んだ。
これは、本当にそうだと思った。
承認欲求という呪縛
“承認欲求”について、以前、noteで書いたことがあった。
“承認欲求”の何が厄介かって、
「承認され続けなければならない、飽くなき欲求である」ということ。
それって、やがて疲弊するにきまってる、消耗戦だよねって。
また、自分の幸福感の手綱を、他人が握っていることでもある。
必ずしも他人が私を承認してくれるとは限らない。
承認欲求ではなく、自分で自分を喜ばせること
「自分にとっての幸福感があれば、見ず知らずの人からの“いいね”なんて要らない」
そう思える暮らしを、今、私は送っているか。
たとえば、映画でも音楽でも小説。
休みの日はこれらを堪能する。
――しかし、こう言うとき、私は少しためらってしまう。
こういった趣味って、確かに満足感あるんだけど、どこか“暇つぶし”、
心からの幸福と満足があるかと聞かれたら、そこまではと答えてしまう。
甲本ヒロトがこのインタビューで言っているような“幸福感”とは、どこか違う。
“趣味”について、無理してはいけないのだろうなと思う。
以下の、所ジョージさんの発言をみてもそう思う。
いいことを仰っていて、一度見てほしいのだけど、しっくりくる。
自分で自分を喜ばせようとして、無理して趣味を作ったりするのは不毛だと思う。そもそも、探そうとして、見つからなかったらどうするのか。
甲本ヒロトの言う“幸福感”とは、「趣味をもとうぜ」では決してない。
なんなら、趣味なんてなくったってかまわない。本質はそこではない。
『生活の中に、他人の承認が介在しない、私の喜びがあるか?』
いたるところで聞く言葉なので、言うのが少々恥ずかしいのだが、
『趣味も幸福も、探すのではなく、それに気づくこと』
やはり、書いてみて、かなりこれは恥ずかしくなったのだが、
しかし、まさにこれが真実だろうと思う。
では気づくためにはどうするか。
日々のルーティンを変えてみたり、些細なことを見つめる。
以下、私のテーマでもあるのだが、
そのような過ごし方、感性をもって、日常を暮らす。
もし、夢中になれるものがあるならそれにとことん没頭すればいい。映画やや音楽や小説が、自分にとってそうであるなら、それに夢中になればいい。
しかし、もし、そんなものがないのなら(あるいは違和感を覚えるなら)、ルーティンを変えてみる。旅行や散歩に出かけるのでもいい。
無理して探そうとしなくても、普段の日常に“それ”はある。
日常を少し変えてみるだけで、気づくものがある。
これは何かを探し求めることではなく、私がすでに持っている“感性”をブラッシュアップするということ。
退屈を楽しめるか。些細なことを深く味わえるか。
そのような感性をもっていたい。
***
「人に認められなければ満足は得られないのか?」
そんなはずがない。
“イイね”なんて要らないと思えるような生活をしているか。
他人に認められなくても、自分にとっての幸福感があればいい。
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