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「自分にとっての幸福感があれば、見ず知らずの人からの“いいね”なんて要らない」――甲本ヒロトのインタビューを読んで。

ザ・クロマニヨンズ、甲本ヒロトさんのインタビューを読んだ。

他人の「いいね」なんか要らないじゃないすか。
自分にとっての幸福感があれば、見ず知らずの人から「いいね」なんて要らないです。

ザ・クロマニヨンズ甲本ヒロトインタビュー②
「ロックンロールへの憧れがなくなるまでやり続ける」

これは、本当にそうだと思った。

承認欲求という呪縛


“承認欲求”について、以前、noteで書いたことがあった。

“承認欲求”の何が厄介かって、
「承認され続けなければならない、飽くなき欲求である」ということ。

それって、やがて疲弊するにきまってる、消耗戦だよねって。

また、自分の幸福感の手綱を、他人が握っていることでもある。
必ずしも他人が私を承認してくれるとは限らない。

承認欲求ではなく、自分で自分を喜ばせること


「自分にとっての幸福感があれば、見ず知らずの人からの“いいね”なんて要らない」

そう思える暮らしを、今、私は送っているか。

たとえば、映画でも音楽でも小説。
休みの日はこれらを堪能する。

――しかし、こう言うとき、私は少しためらってしまう。

こういった趣味って、確かに満足感あるんだけど、どこか“暇つぶし”、
心からの幸福と満足があるかと聞かれたら、そこまではと答えてしまう。

甲本ヒロトがこのインタビューで言っているような“幸福感”とは、どこか違う。

“趣味”について、無理してはいけないのだろうなと思う。

以下の、所ジョージさんの発言をみてもそう思う。

いいことを仰っていて、一度見てほしいのだけど、しっくりくる。

自分で自分を喜ばせようとして、無理して趣味を作ったりするのは不毛だと思う。そもそも、探そうとして、見つからなかったらどうするのか。


甲本ヒロトの言う“幸福感”とは、「趣味をもとうぜ」では決してない。

なんなら、趣味なんてなくったってかまわない。本質はそこではない。

『生活の中に、他人の承認が介在しない、私の喜びがあるか?』


いたるところで聞く言葉なので、言うのが少々恥ずかしいのだが、

『趣味も幸福も、探すのではなく、それに気づくこと』

やはり、書いてみて、かなりこれは恥ずかしくなったのだが、
しかし、まさにこれが真実だろうと思う。


では気づくためにはどうするか。

日々のルーティンを変えてみたり、些細なことを見つめる。

以下、私のテーマでもあるのだが、

“退屈に、楽しみと思考を――。”
ささいなことを見つめる。
自分と向き合う。
深く考えてみる。
日常を味わう、退屈を楽しむ。

そのような過ごし方、感性をもって、日常を暮らす。

もし、夢中になれるものがあるならそれにとことん没頭すればいい。映画やや音楽や小説が、自分にとってそうであるなら、それに夢中になればいい。

しかし、もし、そんなものがないのなら(あるいは違和感を覚えるなら)、ルーティンを変えてみる。旅行や散歩に出かけるのでもいい。

無理して探そうとしなくても、普段の日常に“それ”はある。
日常を少し変えてみるだけで、気づくものがある。

これは何かを探し求めることではなく、私がすでに持っている“感性”をブラッシュアップするということ。

退屈を楽しめるか。些細なことを深く味わえるか。
そのような感性をもっていたい。

***

「人に認められなければ満足は得られないのか?」

そんなはずがない。

“イイね”なんて要らないと思えるような生活をしているか。

他人に認められなくても、自分にとっての幸福感があればいい。

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