古今叙事大和本紀 第一章 吉備国の果てまで 2
路を行き、路無き路を掻い潜り、闇の中を必死に駆けていた。
いままで近所以外知る事もなかった岳は、我が吉備国の森がここまで深かったのかと感じざるを得ない。
時折、見た事もない精霊が姿を現したのだが、悠長に仁義を切る心の余裕や、時間など岳にはなかった。不義理とは感じたのだが今は仕方がない。
兎にも角にも弥生を一刻も早く、我が手へと取り戻さなくてはならぬという切望が、この胸を激しく覆っているのだ。
この旅が終わった後に、再び各地を訪れて、土地神達に詫びを入れようと岳は思った。
「会社から各地の神々に伝令を送って貰ったから、そんな必要ないわよ?気にせずに先を進ませなさいな。」
すっかり我が心の中に馴染んでしまったのか、先ほど身に纏っていた衣や、仰々しい装飾品等を一気に脱ぎ捨て、胴から足まで一本に繋がり、やたら肌を露出させている薄着一枚に着替えてしまっていた。
そして、でこの辺りにやたらとでかいトンボの目のような装飾品をつけている。全体を通して見ると、確実にこの時代の格好ではなかった。
まあそれは百歩譲ったとしても、この不埒な格好は何とかならんものなのかと岳は切実に思った。
それは良いと…、本当は良くないのだが、そうとして、森の中を一心不乱に駆けていった。
そして駆ける事約二刻。
重なる葉と葉がもたらしている闇が月明かりに薄くなりつつあると感じた岳は、この森から漸く抜け出せると確信し、更に足を速めた。
多分これは杉林なのだろう。いつもの松林よりも違う薫りが充満していた。
その木々から放たれている黄色の煙を避けながら、月の光と煙が入り浸る闇の中を突っ切り、まるで綿の中からポンと噴出されたように、森から吐き出された。
木々が続く空間から、光だけがある場所へと転がる身体の行きついた先の視線には、下弦の月が浮かんでいた。
その場へとしばらく寝そべりながら、ぼんやりと月夜を眺めていると、やたらと腹が減っている事に気がつき、思い返してみると、多分丸一日くらい駆けていたような気がしなくもない。
月の位置から悟ってみると、今は戌の刻であり、民は既に寝静まっているであろう。取りあえず周りを見渡してみても芝生ばかりで、口にできるような食草はなかった。
「岳ぇ、お腹空いたのね…。生身は不自由だわね…。」
細い棒のような何かを口に咥えながら、他人事のように天鈿女は言った。
その言葉を聞き流し、その場へと起った。どうやら岳がいるこの場所はどこかの丘の上らしく、月明かりを頼りに眺望してみると、さわさわと何かが風に靡く音が優しく岳の耳に届いた。
「ここには芒が原でも広がっていると申すのか…。」
そう呟くと、何かを求めるように岳の身体は自然と音の方角へと向いていた。
近づけば近づくほど、その実態が明らかになっていき、重く頭を垂れるその姿に岳は瞬時にそれが稲穂である事に気がついた。
「田がある…田があるぞっっっ!!!」
腹を空かせているという事もあり、興奮の余り足を早ませてその場へと走っていった。そこでようやくあの丘の上で見た芒ヶ原が全て稲穂であると知った。
月明かりに照らされているその広大な田園の真ん中を、まるで踊るように駆け抜けていくと、幾重にも広がる住居群が目に飛び込んできた。どうやらここが、この田園を治める村の集落であるらしい。
とにかく腹を空かせている岳は、どうにか何とか施しを賜らんと考えたのだが、やはりこの刻となると、明かりはどこにも灯されていない。
傍若無人にどこかの戸を叩くのも不躾がましいと思い、とりあえず村の長の元を訪ねる事にした。
意外と広いこの集落を彷徨うように練り歩いていると、一段高い場所に一際目立つ住居が、まるで誇らしく君臨するかの如く建っていた。その奥には覆い茂る木々の影が煌々とした光に揺らされていて、多分そこがこの集落の端なのだと岳は思った。
その住居を呆然と眺めていると、そこから薄い明かりが微かに漏れている事から長はまだ起きていると瞬時に悟り、一心不乱にその場所まで駆けていった。
その住居に近づくにつれ、下から見たほど立派に感じない、というよりもどこか厳かな雰囲気を醸し出していると感じるのは、自身が腹を空かせていたが故の幻だったのか。
今となればみすぼらしく思える扉の前に辿り着くと、少し朽ち果てた板の隙間から漏れる明かりだけは幻ではなかったようで、岳は一安堵させて息を漏らし、必死に扉を叩きながら叫んだ。
「もし、このような夜更けに不躾ではございますが、腹を空かせておりまする。願わくば、一握りの飯でも分けて下さいますまいかっ!」
岳の叫び声に、戸の向こう側から鳴っていた音が止んだ。そして、戸を隔ててはいるが、人の気配がこちらへと近づいてくる雰囲気がひしひしと伝わってくる。
「こんな夜更けに何者ぞ?まず、名を名乗るのが礼儀であろう。」
確かに…。岳は思った。
「ご無礼お許しくださいませ…。腹を空かせた余り、礼を失するところでございました。我が名は吉備の国から参った、岳津彦と申す…。」
「何っっっ!!岳津彦だとっっっ!!!」
我が家が引き戸であった事もあり、この住居の戸が開き戸であるとは思ってもみなかった。勢いよく開けられた戸が岳の顔面へと降り注がれ、何が何だか訳が分からないまま、視界に浮かぶ天と地が逆になっていった。
気がつくと暖かな床に身を委ねている自分がいた。
知らない天井をぼんやりと眺めながら、ここはどこなのだと思ったが、我は岳津彦だという事は認識できているので、どうやら意識は意外としっかりとしているようだと我ながら思った。
「岳ぇ…。」
声の発する先が心の中でではなく、右耳から聞こえてきた。
その方へと視線を向けると、そこにはあの不埒な恰好のまま座る天鈿女の姿があり、まるで困ったような笑顔を浮かべながらこちらへ視線を向けていた。
「もう…、痛かったわ…。ちゃんと開き戸である予想くらいしなさいよっ!全くっっ!!」
怒り口調ではあったが、その絶やさぬ無邪気な笑顔に、岳の不安定は拂拭されていった。
朝の光が天鈿女の後ろから差し込んできて、不埒な恰好を忘れさせるほどの神々しさに、何事か分からないが、涙が溢れてくる。
「どうしたの?」
「何でも…ない…。」
その涙を隠すように岳は顔を逸らした。それを追いかけるように天鈿女の声が聞こえてきた。
「アンタ、昨日大変だったのよっ!!!」
「えっ…?」
天鈿女の言葉は続く。
「えっ!?覚えてないのっ!!信じらんないっ!あの衝撃で私、アンタの心から弾き出されたし、その後、長にこの私がまさかの物の怪扱いされちゃうし、神であり、今、岳に降臨してるだけって分かってもらうのに、相当時間掛かったんだからっ!」
そんな不埒な恰好のまま神を語られても誰も信じまいと思い、岳は思わず息を吐いた。
天鈿女からまだ発されている言葉の羅列は岳の耳には届いておらず、それはまるで、朝の光の中で踊る小鳥のさえずりのようにしか感じなかった。
和気藹々と騒ぐ、というよりも天鈿女が勝手に騒いでいる描写を感じ取ってか、隣の部屋から男の姿が現れた。
「岳津彦よ、大丈夫であったのか…?」
「あああ、貴方様は…。」
それは山賊や海賊からのミカジメを我が家にまで集ってきていた長であったが故、もちろん自分を知らない間柄ではない。どこから来ているのだろうと、いつも不思議に思っていたのだが、実はこんな遠くから来ていたのかという事実に岳は驚愕せざるを得なかった。
長はやはり静々と言葉を発した。
「岳よ、天鈿女命様から、事の実は聞かせて頂いた。まあ、昨晩何も召されず眠りに誘われた汝は今、さぞや腹を空かせているのであろう…。暫し待たれよ。」
長はそう言いながら手の平を二つだけ叩くと、岳と天鈿女の目の前に、才食兼備とまではいかなくても、豪勢な料理が次から次へと運ばれてきて、みるみる内に所狭しと並んでいった。
それを唖然と見尽くしていると、長の声が聞こえてきて岳達は我に返った。
「ささ、天鈿女命様。この地の民の労いの念をたんと召し上がれよ…。」
んっ…?どこかおかしいと岳は思った。
長の視線の先はいつも天鈿女の方を眺めるだけで、こちらを見る気配は一向にない。というよりも、年甲斐にもなく、天鈿女の身体を舐めるように見尽くしているのだった。
岳が気づくくらいだから、神である天鈿女が気づかない筈もない。むすっとした表情に変わらせて、まるで吐き捨てるかのように言った。
「何よ…。この地の民の念じゃなく、それ貴方だけじゃないのっ!!それよりも、貴方が私を見る視線、鬱陶しいのよ。つか、そんな視線、飽きたわっ!!」
その声にぎくっとさせた表情を長は浮かべた。天鈿女の乱暴に発している声は続く。
「それに、用意してくれたのはありがたいけど、朝からそんなに食べちゃったらこの麗しき美貌が崩れちゃうわよ。貴方そうなったらどう責任とってくれるのよっ!!!?」
「ええ…。それを言われてしまうと…。」
呟くようにそう発すると、長の身体はまるで何かに怯えた子供のように小さくなった。
その二人のやり取りを眺めていると、岳の表情は自然と綻んでいく。別に他意はない、筈…。
「あ、そうだっ!!」
いきなり何かに気がついたように天鈿女は明るい声を発した。
「その料理、このまま捨てちゃうの勿体ないでしょ?ていうか、お姉さんに私が怒られちゃうからさ。とりあえず、当面腐らないような施しをして、岳の兵糧にして下さいな。そうなれば、この子お腹空かす事無くなると思うからっ!!岳、今食べたいだけ食べて、後は包んで貰いなさいな。いいわよね?」
先ほど長へと向けていた鬱々しい表情とは打って変わって、天真爛漫ないつもの表情を岳に向けながら言う天鈿女の姿がものすごく嬉しく思えて仕方がなかった。
そんな天鈿女の表情から何かを悟ったのか、長はガックリと肩を落として、嘆くように呟いた。
「ううう…。分かり申した…。天鈿女命様がそう申されるなら、致し方なき事じゃ…。誰か、誰かおらぬか?」
そう言って再び手を鳴らすと、遣いの女人が透かさず長の傍へと近づき、長が細かく手を招くと、まるで寄り添うように長に身体を密着させた。そして、ぼそぼそと何かを耳打ちすると、女人は小さく頷いて、すぐ様どこかへと走り去っていった。
そして、大勢の女人が現れて目の前に展開されていた料理を誘っていき、そんな刻を有する間もなく、藁のような物で包まれた荷物が次から次へとこの場に積まれていった。
「さっきの耳打ち、どこか怪しいわね…。これ、私も食べるかもだから毒なんて盛ってたらすぐ分かるのよ…?」
険しい天鈿女の表情に、長は焦る表情を浮かべた。
「否、そこら辺は理解しておるが故、そんな事する筈なかろうっ!!我を信じよ…。」
「我を信じよという輩は、いつか何かをやらかすのよねえ、いつの時代も…。」
天鈿女の睨むような視線に、長は顎先から生汗を落としながら身体をたじろかせていた。
それ正しく、蛇に睨まれた蛙という図式そのままである。これも神の力なのか、もしくは本当に長が悪しき施しを召しているのかは分からないが、長の焦る様は尋常ではない。
まあ、いずれ包みを開ければ分かる事だから今は気にしないでおこうと岳は思った。
「まあ、いいわ。それよりも岳、結局何も食べなかったけど大丈夫なの?」
そういえば食材に手をつける前に、話が進んでいき、結局口にしなかった事に今気がついた。しかし、こう包装されてしまうと、既にどうすることもできない。
「あめたんよ、私は大丈夫だ。早く先を進もうぞ。」
「オッケーっ!!長、この荷物、運べるように全部括りつける事できる…?」
「も、もちろんでございますよっ!!!暫しお待ちくださいよっと!!!」
そう言って、今度は長、自らが走り去っていった。こんな様子であるから、多分食材に毒が盛られている事はないだろう…。
そんな事より、天鈿女の話の中に出てきたお姉さんとは一体誰なのかという事が岳には気にかかってしょうがなかった。
吉備国の果てまで 2 おしまい 3に続く
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