私たちが生き延びている世界の中で 『地球星人』/村田沙耶香
「殺人出産」「コンビニ人間」の次に、『地球星人』を読了しました。
あらすじ:恋愛や生殖を強制する世間になじめず、ネットで見つけた夫と性行為なしの婚姻生活を送る34歳の奈月。夫とともに田舎の親戚の家を訪れた彼女は、いとこの由宇に再会する。小学生のころ、自らを魔法少女と宇宙人だと信じていた2人は秘密の恋人同士だった。だが大人になった由宇は「地球星人」の常識に洗脳されかけていて…。
私たちの周囲に存在する、目に見える/目に見えない常識への、疑義の目(本作では「宇宙人の目」と呼ぶ。)の必要性の表明、を一貫として感じ取れる作品となっている。
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主な登場人物は、奈月、由宇、奈月の夫を中心軸に置き、その他に奈月の家族(母・父・姉)や、奈月を取り巻く友人や教師、また、父方の親戚など、多くの人物が登場する。
奈月は、幼いころから、「私は魔法少女である」ことを信じていた。そして、お盆の夏休みの数日間だけ会うことが出来る、親戚の由宇も、奈月が魔法少女であることを信じていた。そんな由宇は、自分が宇宙人であることに確信を持っていた。(由宇は奈月に話を合わせていた。)
そんな、魔法少女と宇宙人が、(子供のお遊びのような)結婚誓約書を交わし、口実の結婚を執り行うことで、物語が進んでいく。
結婚誓約書
①他の子と手をつないだりしないこと
②ねる時は指輪をつけてねること
③なにがあってもいきのびること
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工場に従事する地球星人
「工場」とは、まさに、遺伝子の箱舟としての人間の存在そのもの、を指している。工場に取り揃えられた部品などと対比するように、人間の生殖器・感覚器などが工場の部品と捉えられ、「いきのびる」ための遺伝子を運ぶ役割を、比喩的に表現している。
このような「工場」の運用に何ら疑いを持たない、無思考体としての人間を「地球星人」と、登場人物たちは呼称する。
直感的にわかる情報を好む現代人の私たちは、まさに「地球星人」になりかけている、いや、なっている存在として、認識できるかもしれない。
登場人物たちは、「地球星人」の考えには迎合できないと考えながら、仕方なく地球で生きている「地球に迷い込んだ宇宙人」として、自らのアイデンティティを捉えなしている点が重要だ。
その点には、各人の肯定的/否定的解釈が分かれるポイントであろう。
あなたは何ページ目の人間ですか?
読んでいて感じたのは、「今自分は何ページ目の人間なのだろう」という疑問である。
章ごとの時系列には一貫性はないものの、「工場」に従事する「地球星人(人間)」と登場人物が対峙する場面には、このような問いがあるように思えてならない。
人間性には流動的な側面がある、と思う。それは、クリシェっぽくなってしまうが、現代人の様々な価値側面を観察すれば、容易にわかることである。
男女二元論、婚姻の有無、セックスの有無、障害の有無など。その違いは様々な事象を経由して、無限のグラデーションを描きうる。
だとすれば、あなたは《「工場」に従事する「地球星人」の目》を持つ存在なのか?それとも、《「まだ見ぬとある宇宙」に存在する「宇宙人」の目》を持つ存在なのか?、自分に問いてみてほしい。
言い換えれば、ある側面ではマジョリティ(地球星人)/マイノリティ(宇宙人)のどちらなのか?、また別の側面ではマジョリティ(地球星人)/マイノリティ(宇宙人)のどちらなのか、と。
その判断材料には、何かしらの「(環境周囲に居る)存在」を必要とするが、主観的にも大まかに判断できることもある。
登場人物の、「存在」に関わる周囲の地球星人や、それとの係わりの深度など、どのページを読んでも、無限のグラデーションを感じとれる。
終盤では、登場人物たちは「宇宙人」を極めることになるが、あなたは本著に存在する、無限のグラデーションの中の、どこに存在しうるだろうか。
常識に従事しているか?
常識に疑念を持っているか?
それとも、常識に反骨しているか?
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印象の残った場面
もっと勉強を頑張って、大人にとって都合がいい子供になりたい。(p59)
奈月が、学校の担任教師に成績を肯定されるシーンの後に、このように書かれる。まだこのとき、奈月が「地球星人」としての素質があった。
奈月は、(終盤の出来事も踏まえてみると)「地球星人」としての素質はなかったように、私は思う。しかし同時に、その素質とは、かなり柔軟な可塑的側面があるのでは、とも思える。
それは、「人は変わることが出来る」という、希望的/絶望的側面を指し示す。
「いつまで生き延びればいいの?いつになったら、生き延びなくても生きていられるようになるの?」(p117)
「地球星人」の「工場」に対して絶望に傾倒し、自殺を試みようとした奈月。その奈月の行為を止めた由宇に放った言葉である。(この2人は暗闇のある茂みでセックスしようとしていた。)
先ほど上記した、「大人にとって都合のいい子供」になること、それはまさに、「大人の道具になること」を示す。それを悟った奈月は、その事実に耐え切れず、死を覚悟する場面だ。そして…
世界に従順な大人たちが、世界に従順ではなくなった私たちに動揺していた。
「地球星人」になりたくない一心で逃げた先には、「地球星人」による引き戻しが結果として待っていた。
ただ、セックスし、死のうと思った。それだけなのに、絶望が増強された世界へ、また戻されてしまうのである。
工場の隅で、生きるのではなく生き延びているのである。(p139)
戻された世界で、34歳になるまで生きた奈月。絶望が増強され、それが負のスパイラルの最中に居る当本人にとっては、生きることは、「どうにか生き延びること」でしかない。
私たちは、本当に「今を生きている」のだろうか、と考えさせられる場面だ。
そんな自分自身を「宇宙人」をして正当化し、アイデンティティを守ってきた奈月は、次第に、《地球星人になるための洗脳を受けたい》、と渇望する。それはまさに、生きるための処世術の取得である。
「(中略)地球星人なんて、本当は1人もいないんじゃないかって。(中略)地球星人なんて、ポハピピンポボピア星人がこの異星で生きていくために作り上げた幻想なんじゃないかな。」(p308)
奈月、由宇、奈月の夫が3人で、誰もいない、奈月の父方の親戚の家に寄生している最中に、奈月の夫が言った言葉である。
「工場」に従事する「地球星人」は、じつは全員「宇宙人」で、逆に私たちが「宇宙人」であることに目覚めたのだ、という、希望的観測である。(奈月の夫は、人間の工場を逸脱するために、兄とセックスしようともした。)
もはや3人の世界となった、人を寄せ付けないほどの集落に存在する親戚の家では、上記のような希望的観測も、空想とは言えども、世界のすべてなのだ。
奈月の夫のこの言葉は、《絶対に》否定してはならない、そう感じる。絶対的な何か、は存在しない。絶対的な何か、とは、この世のすべての事象を統べる存在である。その絶対的な存在がゆえに、他の存在と相対化できず、目の前に現れることは無い。
神的な「絶対」は存在しないが、「絶対」的な存在は、存在しうるのである。私たちの今は、私にとって「絶対」となってはいないだろうか。
あなたの「絶対」は、必ず、誰かの「幻想」なのだ。いつでも安心で安全な水が飲める日本と、中国に水のライフラインの首根っこをつかまれ、不安と共に生活をする東南アジア諸国とは、相互に、絶対/相対の関係にある。
「絶対」な常識を、相対的に見直すような、奈月の夫の姿勢は、否定してはならない。
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なにがあってもいきのびること
終盤の衝撃は凄まじい。何もかもが常識からかけ離れているような、気色の悪い3人(3匹)の生態が描かれている。
しかしながら、その「気色悪い」と思う心とは、どこから来ているのだろうか。人間の肉を食べたっていいかもしれないし、その人肉がついた骨をしゃぶりながら寝てもいいかもしれないし、男も妊娠するかもしれない。
どんな結末であろうと、その当本人としての「世界」は、無限に広がっているのである。
「気色悪い」「世界」も、それは本著に包摂されている、無限のグラデーションの中の、ある一部分にすぎず、その一部分の世界は、他の世界にも、平等に接続されているはずだ。ただ、可視化できない遠い「世界」だからと言って、無いものとしているのは、まさに「あなた自身」である。
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「地球星人」/「宇宙人」(本著で語られる言葉を引用する)という対立の中に存在する、様々な事象による存在確立というグラデーションの中で、私たちが作り上げる私とは、まさに私の周囲の「意味」を考えることにある。
それが、私が「なにがあってもいきのびること」のために不可欠な、重要なファクターであり、しかも、不特定他者のとっては、不必要なものなのである。
しかし、それはそうあるべきだし、そうで良い。私の周囲のさまざまな事実の真偽を、意味を、今をどのように見つめるか、そこが肝要なのだ。
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